宋名臣言行錄後集卷二十四 劉恕

出自と経歴

劉恕、字は道原。筠州の人。経義・説書の試験でともに第一位に及第。神宗に仕え、官は秘書丞に至った。

幼少期の聡明さ

劉恕(道原)は幼い頃から聡明で才気にあふれ、読書は一目見れば暗誦できるほどであった。四歳のとき、客の中に「孔子には兄弟がいない」と語る者がいたが、道原はすかさず「兄の子を娶らせた(孔子は兄の娘を弟子の公冶長に嫁がせた)ではないですか」と答え、その場の人々はみな驚いた。范太史(范祖禹)撰の墓碣による。

貢院試験での抜群の成績

皇祐初め、司馬光(光)が貢院の属官であったとき、詔によって経義を講解できる士を別に応募させることとなり、応じた者は数十人に及んだ。『春秋』『礼記』の大義を問うたところ、その中の一人の答えが最も精詳であった。まず注疏を挙げ、次に先儒の異説を引き、最後に自らの意見で判断していた。全二十問について皆このようであった。試験官は驚いてこれを第一に抜擢し、糊名(答案の氏名を隠す仕組み)を開くと進士の劉恕であった。司馬光はこれによって彼を深く慕い重んじた。司馬光の『十国紀年』序による。

博識と歴史への情熱

前代の史書は太史公(司馬遷)の記録から周の顕徳の末に至るまで、簡策は極めて博大であったが、科挙にはあまり必要とされなかったため、近年の学者は多くこれを読まず、これを語れる者は稀であった。ただ道原(劉恕)だけはこれを篤く好み、人並み外れた記憶力を持ち、紀伝のほか村里に伝わる私記や雑説に至るまで読まないものが無く、その語る話は座して聞くだけで滾々として尽きることなく、上下数千年の事の大小をまるで指を指すように把握していた。

英宗による司馬光への史書編纂の委任

英宗は日頃から古を稽えることを好み、詔によって司馬光に歴代の君臣の事跡を編次させ、「卿は自ら館閣の英才を選んで共に修めよ」と述べた。司馬光は「館閣に文学の士は確かに多いが、専ら史学に精通する者となると、私が知っているのは和川県令の劉恕ただ一人だけです」と答えた。皇帝は「よろしい」と言い、退いてすぐに劉恕を召すよう奏上した。彼とともに史書を修める中で、複雑で処理の難しい事案は劉恕に委ね、司馬光はその成果を受けるだけであった。

王安石との決別

王安石(介甫)は道原と旧知の間柄であった。介甫が大政に参与した際、道原を三司条例司に引き入れて修めさせようとしたが、道原は金穀の事に習熟していないことを理由に固辞し、さらに「天子はまさにあなたに政事を委ねようとしています。堯舜の道を大いに広めて明主を輔佐すべきであり、財用を先とすべきではありません」と述べた。介甫は用いることができなかったが、怒ることもなかった。呂献可(呂誨)が罪を得た際、道原は介甫を訪ね「あなたが人々の非難を招いているのは、思慮の足りない点があるからです」と述べ、改められた法令のうち衆心にかなわないものを条ごとに挙げ、「旧に復すべきだ、そうすれば議論は自ずと収まる」と述べた。介甫は大いに怒り、道原と絶交した。道原はすぐに南康軍の酒税監督への転任を奏請し、これを得た。

直言を貫いた気骨

王安石(介甫)が政を執っていた頃、彼の一挙一動が禍福を左右し、天下の誰もこれに逆らえなかった。高論の士も、初めは異を唱えても最後には従い、面前では誉めながら陰では謗り、口では是としながら心では非とする者が肩を並べていた。道原だけは奮い立って恐れることなく、直接その事を指して是は是、非は非と言い、面と向かって介甫を批判し、介甫の顔色が鉄のように変わることもあった。あるいは大勢が集まる場で、介甫の一味が周囲を満たしていても、道原は公の場で彼らの得失を論じ、悪を隠すことがなかった。憎む者は横目で睨み、愛する者は肝を冷やし、耳を塞いで避ける者もいたが、道原は少しも気にせず、質実温厚な人には兄弟のように親しみ、姦邪諂諛の徒には仇敵のように憎んだ。これによって困窮に陥ってもついに悔いることはなかった。これは実に人にとって難しいことである。かつて申棖は欲が多いために剛と言えず、微生高は酢を人に乞うたことで直と言えなかった。道原のような者こそ剛直の士と言うべきである。

清貧と潔白な生き方

道原の家は貧しく、日々の甘旨すら十分に給することができないほどであったが、一毫たりとも人からみだりに取ることはなかった。洛陽から南に帰る際、時は既に十月であったが寒さをしのぐ衣類が無かった。司馬光は衣服や靴下、古い貂の敷物を贈ろうとしたが、道原は固く辞退した。強いてこれを渡すと、道原は潁州に至るとすべてを封じて司馬光に送り返した。司馬光からは受け取らなかったのだから、他人から受け取らなかったことは推して知れる。特に仏教の説を信じず「人はまるで宿屋に住むようなもので、一つの物も欠かせないと思い込むが、去るときはすべて捨てるものである。どうして持ち続けることができようか」と語った。知に明るく決断に勇なる人物と言うべきである。『十国紀年』序による。

王安石との学問論争

先父(未詳、著者の父を指すか)は「王安石(荊公)は道原が史学に耽り経学を窮めないことを笑い、会うたびに『道原の読書は漢の八年(未詳の意味、経書に至らず史書ばかり読む意)まで進んだかね』と戯れた」と語った。しかし道原は逆に荊公の学問をたびたび痛烈に批判した。ある士子が新経(王安石の新義経学)について語ると、道原は怒りを顔に表して「この人は口から妖言を出し、顔に妖気を帯びている」と言った。范太史(范祖禹)遺事による。