宋名臣言行錄後集卷二十一 蘇頌
出自と経歴
蘇頌、字は子容。泉州の人で潤州に移り住んだ。進士第に及第。哲宗に仕えて宰相となった。
江寧府知事としての明察な統治
江寧府江寧県の事を治めたとき、以前は徴発や税収のたびに府から追捕の使いが出て道に吏が繋がれるほど民を苦しめていた。蘇頌は着任すると「これは県令の職務であり、府が関与すべきことではない」と言った。訴訟を処理する折には傍らで近隣の丁数・産業の多寡を尋ね、詳細をことごとく把握した。ある日、郷の年長者を召して戸籍を改定させた際、財産を隠して不実の申告をする民がいると「お前の家にはまだ某の丁・某の産があるはずだ、なぜ自ら申告しないのか」と必ず言い当てたため、人々は驚いて隠す者がいなくなった。県中はこれを神明のようだと評した。
縣令の考課法の建言
蘇頌は捕らえた盗賊の多寡によって県令の成績評価を定める法を請い、「巡検・県尉はただ盗賊を捕らえることができるだけで、民を盗みに走らせないようにすることはできない。民を盗みに走らせないようにできるのは県令である。州県の物務は年ごとの成果がわずかに欠けても官には罰が科される。今、良民が略奪の害に遭っているのに、親民の官だけが責任を負わないでよいはずがない」と述べた。鄒侍郎の撰した行状による。
「公論」についての元城語録
天下の人が当然と思うものを「公論」という。公論は決して強いて名づけたものではなく、天の道である。この道は廃れたことがなく、ただそれがどこにあるかによる。唐虞三代や我が祖宗の時代のように、公論が上にあり君主・宰相がこれを主宰していれば、賢哲は朝廷に集まり、不肖の者は下に沈み、天下の人材はすべて陶冶されて一様に正しい方向に帰する。しかし晩周や東漢の末のように、上に立つ者が公論を主宰できず、用いる人物を誤れば、清議は下に降り、士はただ尊び畏れるべきものを知って、義に非ざることを恥じ、その門を訪れる者は龍に従うようであり、その死に従う者は帰る場所を得たようであった。これが党錮の禍を招いた。当時の漢室がいかなる有様であったかを見よ。かつて王安石が李定を推薦し、陳襄がこれを弾劾したが実施されず、その間に李定は太子中允に抜擢された。宋次道は辞頭を封じ返し、翌日辞職して罷めさせられた。次に下された辞頭も李大臨・蘇子容(蘇頌)が相継いで封じ返し、さらに奏上して七度も下されたが、ついに蘇子容と李大臨はともに職を落とされ奉朝請となった。その名誉は赫然たるものであった。これはまさに祖宗の徳沢が百年余りにわたって養ってきた風俗であり、公論の屈すべからざることがこのようであった。斉の太史が「崔杼、その君を弑す」と記して三人を殺されても筆を改めなかった故事と何が異なろうか。その後、摂官として起居注を修めた章衡がこれを行い、賢不肖はここに現れた。要するに公論は一日も廃してはならない。上にあれば治まり、下にあれば乱れる、これによって世の帰趨を占うことができる。元城語録による。
契丹への使節と暦法の対応
北朝への生辰国信使に任じられ契丹に赴いた折、冬至に際して本朝の暦が北朝より一日先んじていた。北人が「どちらが正しいのか」と問うと、蘇頌は「暦家の算術は小異があり、遅速が異なる。たとえば亥の刻に節気の変わり目が来れば、それはなお今夕とすべきだが、数刻遅れれば子の刻に属し翌日となる。先んじるか遅れるかは、それぞれ本朝の暦に従えばよいのである」と答えた。北人はこれを是とし、それぞれの日を節日として祝賀した。使節から帰ってこれを奏上すると、皇帝は喜んで「朕はこれが最も処置の難しい問題だと考えていた。卿の答えは事理にかなっている」と述べた。
白馬県の匿名投書事件
元豊の初め、白馬県のある民が盗賊の被害に遭ったが、賊を恐れて訴え出ることができず、県に匿名の投書を託した。弓手の甲がこれを受け取ったが字が読めず、門子の乙にこれを見せると乙が読み上げた。甲はその内容によって賊を捕らえたが、乙は自分の功であると争った。当時、匿名の投書は法で禁じられていたが、この事件では投書によって賊が発覚した。しかし刑法上、匿名投書を行った者は流罪に当たり、情状は軽いのに法は重いことになるため、いずれも奏上して判断を仰ぐべきとされた。蘇子容(蘇頌)が開封尹であったとき、ちょうど滑州の白馬を県として廃止する話があり、殿上で「賊は死刑を減じてよいが、匿名投書をした者は罪を免じてよい」と論じた。皇帝は「この情状は極めて軽いが、密告の風潮を助長してはならない」と述べ、杖罪として釈放させた。蘇子容は「賊は自分に関わりのないことを告発・捕縛し、匿名という点で本来大きな過ちとは言えないのに、先帝(神宗)はなお密告の風潮を助長することを恐れられた。これはいわゆる忠厚の極みである。しかし熙寧・元豊の間、手実・禁塩・牛皮の類の法を立てるたびに、いつも重賞をもって密告を奨励した。これは当時の小人が行ったことで、先帝の本意ではない」と述べた。この時、范祖禹がその場に居合わせ「これは実録に記すべきだ」と述べた。
滄州知事赴任時の対話
滄州の知事に赴くにあたって陛辞した際、皇帝は「朕はいつも卿を用いたいと思うのだが、そのたびに他の事情で叶わない。これも運命であろうか。しかし卿の直道は久しくして自ずと明らかになるものだ」と述べ、蘇頌は頓首して謝した。あわせて、親の面倒のため京師に留まって同行できない旨を述べると、皇帝は「卿の母は誰か」と問い、蘇頌は「亡き龍図直学士・陳従易の娘です」と答えた。皇帝が「天聖の頃の侍従か」と問うと、蘇頌は「陳従易は祥符年間に館職にあり、のちに外に転じました。長らくして広州から罷めて帰るとき、南方の産物を蓄えることなく、俸給の余りの現銭のみを載せて嶺を越えました」と答えた。仁宗はこれを聞いて陳従易を知制誥に抜擢し、「その清節は馬援を上回る」と述べた。それゆえ蘇頌の謝表には「私の数奇の運を憐れみ、幾多の困難に朝廷の深いお心を注ぎ、直道をもって自ら明らかにするよう励まされたことは、しばしば陛下のお言葉に表れました」とあった。
『魯衛信録』の編纂
元豊年間、皇帝は「一書を修めたいのだが、卿でなければできない。契丹との友好通交は八十年余りに及ぶが、盟誓・聘使・礼幣・儀式について依拠すべき記録が無い。朕はこれを一書にまとめたいが、近来書の編纂は年月をだらだらと引き延ばし、早く完成させようとしない者が多いのが心配だ」と述べた。蘇頌は「おそらく一、二年で完成できましょう」と答え、皇帝は喜んだ。書が完成すると『魯衛信録』と名づけられ、篇を奏上した。皇帝は序を読んで大いに喜び「まさに『序卦』の文のようだ」と評した。
経筵での史書進呈の建言
侍読を兼ねたとき、「国朝の典章は概ね唐の旧に沿っており、史官の記録には善悪ともに備わっています。史官・学士に詔して新旧の唐書から、臣下と君主が行ったことを毎日数事採録し進呈させ、天覧に備えられますよう」と奏上した。これにより経筵官が講読の無い日に漢唐の故事十条を進呈することが詔として定められた。
天官(吏部)長官としての公正な人事管理
天官(吏部)を掌ったとき、選人が改官し京朝官・使臣に闕陞・磨勘するたびに、吏がわざと欠点を探し出して滞らせることがあった。蘇頌は吏に「某の官は某の事によって某所に会すべきであり、なお用いるべき条格を引いて、漏落の無いことを確認した文書を提出せよ」と命じた。これ以来、吏は勝手なふるまいができなくなった。訴える者が来ればその都度案牘を取り寄せ自ら見させて服させてから退けた。それでも服さない場合は必ず往復して詰め問い、行うべきと判断すれば実行し、疑わしければ奏請または建白した。都堂による判断で恩賜を受けながら得られなかった者も、これには不満を持たなかった。
記憶力の秘訣
王禹玉・元厚之ら諸公がかつて「公の記憶は博大で、国朝の典故を隅々まで漏らさず、日月にも誤りが無いのはどのような術によるのか」と問うたところ、蘇頌は「私は毎年その年の大事を目印として記す。ある年に改元があればその年の出来事、ある年に皇帝が即位すればその年に起きた出来事、ある年に立后・立太子があればその年の出来事、ある年に宰相を任じればその年の出来事、というように記す方法である」と答えた。後に『史記』を見ると「この年、孔子生まれる」「この年、孔子没す」「この年、斉の桓公が葵丘で会盟」「この年、晋の文公が覇を始める」などとあり、これも同じ趣旨であろう。元厚之は「そうではない、経史を暗記し詩書を暗誦するばかりか、士大夫の家系の名諱や婚姻関係までも漏らさず覚えているのは、また別の方法によるものだろう、真の強記に過ぎない」と述べた。
前輩の教えの継承
蘇頌はかつて「私は前輩の善い言葉を聞くたびに終生これを守ってきた」と語った。若い頃、計用章郎中が吏として循良の名で称され、大郡の政績が特に優れていたことを聞き、その人に会いに行って興味深い話を求めたところ、計用章は「人主は好むものを持つべきではない。好むものがあれば、腹心肝胆すべてがその人物に握られてしまう。だから戦を好めば孫武・呉起の徒が現れ民は干戈に苦しめられ、刑名を好めば韓非・張湯の徒が現れ民は刻薄な取り締まりに苦しみ、聚斂を好めば桑弘羊・皇甫鎛の徒が現れ民は収奪に困窮し、順従の言葉を好めば張禹・胡広の徒が現れ民は誇大な言辞に苦しめられる。これは人主だけでなく、士大夫もまた知るべきことだ。神龍が天を翔けるのに、どうして繋ぎ留められようか。それでも人に飼い馴らされる龍がいるとすれば、それは嗜欲があるからだ」と語った。
韓非の喩え
また蘇頌は「楊告がかつて私に語ったことがある。『私は韓非の一言を愛している。土木の人形を作るとき、鼻や耳は大きく作り、口や目は小さく作るべきだ、という言葉だ』と。これは大夫を諭す言葉である。土木の人形の鼻が先に小さければ、目が先に大きければ、人がこれを非難してもどうにもならない。鼻が大きければ後で小さくできるが、目が小さければ後で大きくできる。すべての事はこの通りである。三たび思い巡らし熟慮することを厭ってはならない」と語った。人々はみな韓非を刻薄と評するが、この言葉は忠厚の言葉ではないだろうか。
弭兵息民の進講
蘇頌は金華にあったとき、進読のたびに「弭兵息民(戦を止め民を休ませる)」の話に及ぶと必ず反復して古今の例を条奏し、皇帝がこの意を忘れぬようにした。「人主の聡明さはどこかに偏ってはならない。偏れば偏りが患いとなり、その害は大きい。今、守成の時にあたっては、無心をもって物事に応じれば天下は治まらないことがない」と述べた。
私事を語らない姿勢
蘇頌はかつて「私は一生涯、私事を君主に働きかけたことがなく、奏対はただ義理の言葉のみであった」と語った。それゆえ四朝に仕え、その間左遷されたこともあったが、過ちを認めることに恥じ入ることはなく、神宗(神考)も「直道は久しくして自ずと明らかになる」と評した。
呂恵卿からの誘いへの態度
呂吉甫(呂恵卿)が政事に参与していたとき、親友を通じて蘇頌に「子容よ、私はあなたの郷里の年長者にあたる。もし私に従えば執政の地位を得ることができる」と伝えさせたが、蘇頌は笑って答えなかった。
賄賂を受けぬ廉潔
蘇頌は「私は生涯どれほどの人を推挙したか分からない。ただ孟安序、朝奉大夫で分寧の人だけが、毎年双井茶一斤を贈ってくれたが、これは私に賄賂の贈り物が無いことを知ってのことだ」と語った。
勤勉についての教え
蘇頌は「人生は勤勉にある。勤勉であれば欠乏しない。戸の枢は虫食われず、流水は腐らない、これがその理である」と語った。