宋名臣言行錄後集卷二十 韓維
出自と経歴
字は持国。忠憲公(韓億)の子で、蔭補により仕官した。仁宗・英宗・神宗に仕え、官は門下侍郎に至った。
学問を篤く好み仕官を固辞
韓維は学問を篤く好み、進士として礼部に推薦されたが、父が執政の任にあったため受けなかった。廷試の後は父の任にちなみ将作監主簿として守った。父の喪に服し終えると門を閉ざして仕えなかった。仁宗は縉紳が奔り競う風潮を憂え、近臣に「恬退して道を守る者を旌表し登用すれば、躁って求める者は自ずと恥を知るだろう」と諭した。そこで宰相の文彦博・宋庠らは、韓維が古を好み学を嗜み、静退に安んじていることを言上し、これを表彰して風俗を厚くするよう願い出た。学士院での試験に召されたが、辞して赴かず、国子監主簿に任じられた。
神宗潜邸時代の輔導
神宗がまだ潜邸にあったころ、英宗は韓琦に宮僚を選ばせ、王陶・韓維らはみな名儒厚徳の士として用いられた。神宗が内朝で拝礼をやや急いだ折、韓維は「私が下がって拝すれば、王もそれに倣うべきです」と諭した。ある日、近侍が舞用の弓様の靴を進めたところ、韓維は「王がどうしてこのような靴を用いる必要がありましょうか」と言い、神宗は恥じ入ってすぐに毀させた。
功名心を戒める
神宗はかつて韓維と天下の事を論じ、話が功名に及んだ際、韓維は「聖人の功名は事に応じて自ずと現れるもので、功名を求める心があってはならない」と述べ、神宗は拱手して賞賛した。
起居注としての諫言
起居注に任じられ邇英閣の講筵に侍した。当時英宗はまだ喪を終えたばかりで沈黙がちであった。韓維は「邇英閣は陛下が閑暇にお過ごしになる場であり、側に侍る者は献納論思の臣、前に陳ずるのは聖人の経典か歴代の史書であります。閑暇のときにはこれを漏刻の間に留め、大臣に対しては諮訪を尽くし、経史を論ずれば仁義の道と成敗の源を窮めることができます。今、禮制は終わり、臣下は耳を傾けて陛下のお言葉を待っております。『時にしてしかる後に言う』と申しますが、陛下がお言葉を発せられるべき時は今です。私は不敏ながら筆を執ってお待ち申し上げます」と上疏した。
旱害時の直言と青苗法批判
翰林学士承旨に任じられ、延和殿で対面したとき、都で旱魃が続いていた。神宗が「久しく雨が降らず、朝な夕な焦り悩んでいる、いかにすべきか」と問うと、韓維は「陛下が旱を憂え、御膳を減じ正殿を避けられるのは故事の実行に過ぎず、天変に応えるには不十分です。書経に『まず王を正し、その事を正すべし』とあります。どうか陛下自ら深く反省し、詔を広く下して直言を求め、恩令を大いに発して租税を免じ人情を和らげてください」と上疏した。数日後さらに上疏し、「近ごろ畿内の県では青苗銭の督促が甚だ急で、鞭打って取り立て、桑を伐って薪として売り銭に換える有様です。旱害の折にこの苦を重ねております。兵を動かし民を危うくし荒夷の地で財を費やすことには朝廷は迷わず果断に行いながら、租税を免じ滞納を寛くして愁苦の民を救うことには遅々として発しません。陛下がご自身で英断を下されるようお願い申し上げます。過ちて民を養う方が、過ちて人を殺すよりも遥かによろしいのです」と述べた。面前での奏対によって神宗は感悟し、市易・免行の利害を根究し、方田・保甲の編排を停止し、東西川の市易についての議論を罷めるよう命じた。韓維に詔の草案を命じ、直言を求める旨を述べさせた。その大略は「朕の聴納に理を得ないところ、獄訟にその実情を得ないところ、賦斂にその節を失うところ、忠謀・讜言が上聞に鬱塞し阿諛によって私を成す者があれば申し出よ」というものであった。詔が出ると人情は大いに悦び、その日大雨が降った。熙州の知事王韶が朝廷に赴いて奏事した折、部将景思立が敗績し、王韶は帰って上表し罪を待ったが敵の首級の斬獲を奏した。韓維は「その敗戦のとき卿はちょうど朝廷にいたのに、何を憚って上章して咎を引くのか。新附の衆を慰撫することに努め、多く殺すことを功とするな」との批答を草した。読む者は皆感じ入った。
三朝寶訓進講と仁政の勧め
邇英閣で三朝宝訓を進講した際、天禧年間に二人の罪人が死罪に当たった逸話に及んだ。真宗はこれを憐れんで「これらの者にどうして法を知らせよう。殺せば忍びず、赦せば衆を励ますすべがない」と述べ、連れ去らせて鞭打った上で放免させた。また汾陰への祭祀の日、羊が道端に身を投げ出したのを見て真宗が問うたところ、「今日、料理番がその子羊を殺すのです」との答えであった。真宗は痛ましく思い、以後羊の子を殺さぬようにした。韓維は読み終えて「これはただ真宗の小さな善行にすぎませんが、この心を天下に及ぼせば仁は用い尽くせないほどになります。真宗は澶淵の役で狄を退けた後、十九年間兵を語らず、天下は富み栄えました。その源はここにあります。かつて孟子は斉王が觳觫の牛を忍びないとした心を論じ、この心があれば天下に王たり得るとしました。人々は皆、陛下の仁孝は天性から発するもので、常に昆虫や螻蟻を見ればこれを避けて通り、左右の者にこれを踏まないよう命じられていると申します。これもまた仁術です。どうかこの心を推し及ぼして百姓に至らせてください」と奏上した。
王安石との関係と司馬光との交わり
はじめ韓維は王安石と仲が良く親しかったが、王安石が執政になると国事についての意見はしだいに異なるようになった。三経義を廃止しようとする議論があった際、韓維は「王安石の経義は先儒の説と並び行われるべきで、廃すべきではない」と述べた。司馬光と韓維は生涯の交わりがあり、ともに耆旧として登用されたが、事に臨んでは一言も付和雷同したことがなく、人々はその公平さに服した。
程頤の評
程頤(先生)はかつて「持国(韓維)ほど義に服することが難しい人はいない」と語った。ある日、程頤・韓維・范夷叟が潁昌の西湖に舟を浮かべていたところ、客を招く官が一人の官員の上書謁見を求めていると告げてきた。程頤は何か急切の公事かと思ったが、実は自分への求職の依頼であった。程頤が「大資(高位者)は位にありながら人に求めない、それなのに人にこちらから求めさせるのはどういう道理か」と言うと、范夷叟は「ただ正叔(程頤)が大いに薦挙を求めるのが常だからです」と言った。程頤は「そうではない。ただかつて求めない者があって、求める者に与えなかったところ、人はこのようになったのだ」と答え、韓維はこれに服した。程氏遺書による。