宋名臣言行錄後集卷十九 蘇軾
出自と生い立ち
蘇軾、文忠公。字は子瞻。老蘇(蘇洵)の長子。進士第に及第し、さらに制科優等に及第、仁宗・英宗・神宗・哲宗に仕えて礼部尚書兼端明殿・翰林侍読二学士に至った。
幼少期の逸話(范滂への憧れ)
10歳のとき、父が四方に学問修行に出ていたため、太夫人(母)が自ら書を授け、古今の成敗を聞かせるとその要点をすぐに語れるほどであった。太夫人が『後漢書』范滂伝を読んで感慨のあまり嘆息した折、蘇軾は側にいて「私がもし范滂のようになったら、母上はお許しになりますか」と問うと、太夫人は「お前が范滂になれるなら、私が范滂の母になれないことがあろうか」と答えた。(弟の黄門公(蘇轍)、墓誌を撰す)
科挙での評価
嘉祐2年、欧陽脩(欧文忠公)が礼部進士の試験官となり、当時の技巧に走った文体を憂え改めようとしていた。梅聖俞がこの試験に関与し、蘇軾の「刑賞論」を見て欧陽脩に示すと、欧陽脩は驚喜し「異人」と評し多くの受験生の首位にしたいと考えたが、これが門下生の曾子固(曾鞏)の作ではないかと疑い、第2位とした。さらに『春秋』対義で第1位とし、蘇軾は諸公に礼状を送って謝意を示した。欧陽脩はこれを見て梅聖俞に「老夫はこの人に道を譲るべきだろう」と書き送った。士人は最初はこの評価に反発したが、やがて信服するようになった。
制科合格後の処遇(韓琦の配慮)
制科の試に及第し評価が高かったため、英宗はすぐに知制誥に任じようとしたが、宰相の韓公(韓琦)は「蘇軾は遠大な器量の持ち主、いずれ天下のために用いられるべき人材ですが、朝廷が育成し天下の士がこぞって畏慕し朝廷への登用を望むようになった上で用いるべきです。今急に登用すれば、人々は納得せず、かえって蘇軾を苦しめることになります」と述べ、直史館に任じるにとどめた。これを聞いた蘇軾は「韓公は徳をもって人を愛する人だ」と評した。(李廌談記)
王安石との確執の始まり
王安石が政を執り多くの改革を進めた頃、蘇軾は元来議論が異なり、帰朝後は官告院に4年間置かれた。王安石が科挙制度を改めようとした際、上は疑問を抱き両制・三館に議論させた。蘇軾の議論が上に達すると即日召見され「何をもって朕を助けるか」と問われ、しばらく辞退した後「陛下は治を求めるのが急にすぎ、言を聴くのが広すぎ、人を進めるのが鋭すぎるように思います、陛下には静かに構えて事が来るのを待ち、それから応じられますように」と述べた。上は襟を正し「卿の言を朕はよく考えよう」と言った。王安石の一派はこれを喜ばず、蘇軾を開封推官として多忙な職務に就かせて困らせようとしたが、蘇軾は判断が精敏で名声はますます広まった。上元の際、浙江の灯を購入せよとの詔があった折、蘇軾は密かに「先例になく人に贅沢を示すのは不適切」と上疏し、この命は止められた。当初の進士策問で、受験生が世に迎合し祖宗の法制を非とする論が多かったため、考官だった蘇軾は退いてその弊を指摘する答案を作り深くその病を突いた。以後論事はますます力を増し、王安石の恨みも深まった。
謝景温の弾劾
謝景温は「范鎮が蘇軾を諫官に推薦しようとしているが、蘇軾は服喪中に船を多く占有し私塩や蘇木を密売し、喪が明けて入京する際には兵士を多く動員した」と論じた。王安石は当初政を執ると常に上に独断を勧め、上はこれを深く信任していた。蘇軾は開封府の試官として、進士の策問に「晋の武帝は呉を平定するのに独断で成功したのに、苻堅が晋を伐つのに独断で敗れた。斉の桓公は管仲に専任して覇者となったが、燕の噲王は子之に専任して国を失った。同じ独断や専任でも結果が異なるのはなぜか」と問うた。これを見た王安石は不快に思った。蘇軾の弟の蘇轍が条例司を辞し青苗法の不便を論じたことにも王安石はいっそう怒り、制策登科者に館職の再試験を課さない旧例を廃したのは蘇軾・蘇轍兄弟を念頭に置いたものであった。蘇軾には仲の悪い従弟がおり、王安石はこの人物を呼んで蘇軾の過失を問うと、服喪中の私塩密売等の話を聞き、王安石はこれを含みつつ発する機会を伺っていた。蘇軾はさらに何度も時政の得失を論じる章を上げ、進士策の答案でも王安石を諷刺する内容が多かった。両制に諫官の候補を挙げさせた際、世論は傅堯俞・蘇軾を適任とし、6、7名が堯俞を、范景仁(范鎮)が蘇軾を推薦したが、謝景温は蘇軾が諫官になれば王安石の短を攻めることを恐れ強く排斥した。王安石は淮南・江南東西・荊湖北・夔州・成都の6路転運司に蘇軾の行状の調査を命じたが、これは蘇軾が眉州の人で、入京の折にちょうど本州の新守を迎える一行に同行したにすぎない出来事であった。(温公日録)
杭州通判での逸話(高麗との外交)
杭州通判のとき、高麗が入貢し使者が官吏への贈り物の文書に「甲子」の紀年を用いていた。蘇軾はこれを却け「高麗は本朝に臣を称しながら正朔(宋の紀年)を奉じないとは何事か、どうして受け取れようか」と述べ、使者が急いで「熙寧」に書き改めてから受け取った。当時これを得体のある対応と評した。
湖州での筆禍と黄州左遷(烏台詩案)
湖州知事に転じた際、謝表の文言を言事者が取り上げて誹謗とされ、官を遣わして御史獄に逮捕された。蘇軾はもとより地方に出た際、民に不便な事があれば言わずにおれず、また黙って見過ごすこともできなかった。詩人の伝統に倣い事を託して諷刺したが、これを言者がことさら糾弾材料とし、必ず死罪に処そうとした。上はこれを憐れみ黄州団練副使として安置するにとどめた。蘇軾は頭巾と草鞋の質素な姿で田父野老と渓谷を行き来し、東坡に室を築いて自ら東坡居士と号した。
詩の風刺についての評(龜山語錄)
文章は温柔敦厚の気を持つべきであり、人主への言葉や上奏文にはなおさらそれが必要である。子瞻(蘇軾)の詩には諷刺が多く惻怛愛君の情に乏しいものがある。荊公(王安石)が朝廷で論事する折も理を尽くさず気を争うのみであったのは、君に仕える道として問題である。君子の修養は暴慢邪僻の気を身に生じさせないことを要する。また、詩は言う者に罪がなく聞く者が戒めとなるものであってこそ諷諫として尊ばれるが、東坡の詩のようであれば言う者に罪がないとは言えず、聞く者が戒めとするにも足りないとされる。(龜山語錄)
御史獄での救援(張安道)
蘇軾が御史獄に下った際、張安道(張方平)は致仕して南京にいたがこれを助けようと上書し、南京の逓送に付そうとしたが府官が受け付けなかったため、子の張恕に登聞鼓院へ直接投じさせた。恕はためらってなかなか投じられなかったが、やがて蘇軾は獄を出た。後に蘇軾がこの上書の副本を見て舌を出し驚いた様子を見せ、理由を問われても答えなかった。後に子由(蘇轍)もこれを見て「兄が舌を出したのも当然だ」と述べた。この件は張恕の勇気によるところが大きかったという。ある人が理由を問うと、先生(劉安世)は「昔、鄭昌が蓋寛饒を救った故事を見ないか。その上疏に『上には許氏・史氏(外戚)の輩なく、下には金氏・張氏(寵臣)の頼りもない』とあったが、この言葉こそ宣帝の怒りを煽ってしまった。しかも寛饒はまさに許氏らを非難したためにこの禍に遭ったのに、鄭昌は再びこれを蒸し返し、かえって怒りを増した。蘇軾の罪も、名声が高すぎて朝廷と勢いを争うように見えたことにある。今、張安道の疏には『実に天下の奇才である』とあるが、これでは人主の怒りを煽るだけではないか」と述べた。ある人が「では当時蘇軾を救うにはどう言うべきだったか」と問うと、先生は「ただ『本朝は未だ士大夫を殺したことがない、今これを始めれば、士大夫を殺すことは陛下から始まったことになり、後世子孫はこれを先例として賢い士大夫を殺すようになる』とだけ言うべきだった。神宗は名を好み義を畏れる人物、これで止まった可能性がある」と述べた。(元城語録)
王安石との金陵での和解
王安石と蘇軾は当初は確執がなく、呂惠卿が蘇軾の才を妬んで両者の間を裂いた。中丞の李定も王安石の門客で、蘇軾が母の喪に服さなかったのを不孝として詩で誹ったことを恨んでおり、蘇軾が誹謗の詩を作ったとして弾劾し御史獄に下し黄州に左遷させた。後に汝州へ移る際、金陵に立ち寄って王安石と親しく語り合った。蘇軾が「あなたに言いたいことがある」と切り出すと、王安石は蘇軾が過去の事を弁明するのではと表情を動かしたが、蘇軾は「天下の事だ」と述べた。王安石が「まあ言ってみよ」と促すと、蘇軾は「大兵・大獄は漢唐滅亡の兆しです。祖宗は仁厚をもって天下を治め、まさにこれを改めようとしたのです。今、西方で連年用兵が止まず、東南でも大きな獄がたびたび起こっているのに、あなたは一言も救おうとしないのですか」と述べた。王安石は両手の指を挙げて「両方とも呂惠卿が始めたことだ、私は既に外にいるのだから何を言えようか」と答えた。蘇軾は「もっともですが、朝廷にいるときは言い、外にいるときは言わないのが君に仕える常礼です。しかし上があなたを待遇したのは常礼を超えるもの、あなたが上に仕える態度も常礼にとどまってよいのですか」と述べると、王安石は声を励まし「安石は言わねばならぬのだ」と言い、また「口から出た言葉は君の耳に入るだけにしてくれ」とも言った。王安石はかつて呂惠卿の意向を代弁したことがあり、上に知られたくない私書がまだ呂惠卿を恐れており、蘇軾がそれを漏らすのではと危惧していたのである。王安石はまた「人は不義を行い罪なき者を殺してまで天下を得ることをしないと知って初めて事を為せる」と語り、蘇軾は戯れに「今の君子は半年分の磨勘(昇進査定)を減らされることを争うためなら人を殺しかねません」と答え、王安石は笑って何も言わなかった。
司馬光との論争(役法)
司馬光が免役を差役に改めようと議論した際、差役は祖宗の世に行われていた法だが、編戸の民が役に就くことに慣れず官府に虐使されて破産に至る者が多く、狭い郷では休む間もない民もいた。先帝(神宗)はこれを知って免役を定め、民に戸の等級に応じて銭を出させ役に就く苦しみを免れさせたが、法の運用者が上の意を十分理解せず、雇役の実費以上に銭を過剰に取り立てていた。蘇軾は「収入に応じて支出を計り、民から取りすぎないようにすればそれで足りる」と考えていたが、司馬光は免役の害だけを知り利を知らず、一律に差役に戻そうとした。役の担当者を選ぶ局が置かれた際、蘇軾もその選に加わったが、実情をありのままに告げると司馬光は不快に思い、政事堂で条陳して不可を論じた際も司馬光は憤然とした。蘇軾は「昔、韓公(韓琦)が陝西で義勇兵を徴募した際、あなたは諫官として力を尽くして争い、韓公は不快に思いましたが、あなたも意に介しませんでした。私はかつてあなたがこの経緯を詳しく語るのを聞きました、まさか今、宰相になったからといって私に思うところを尽くさせないというのですか」と述べ、司馬光は笑ってそれ以上言わなかった。
侍読としての姿勢
侍読として進講する際、治乱盛衰・邪正得失に話が及ぶと必ず反復して開導し、上が悟るところがあるよう努めた。上は恭しく黙って何も言わなかったが、蘇軾の言説を聞くと頷いてこれを善しとした。かつて祖宗の宝訓を進講した折、時事に及び「今、賞罰が明らかでなく善悪を勧め沮む道がない、また夏人が鎮戎を侵し数万人を殺掠したのに帥臣がこれを隠し朝廷に報告せず、朝廷もこれを問わない事が続いている、これでは衰乱の兆しとなる恐れがある」と歴陳した。
杭州での水利事業(西湖の整備)
杭州はもともと江海の地で水泉が塩辛く、唐の刺史李泌が初めて西湖の水を引いて六井を作り、白居易もさらに西湖を浚渫して余水を運河に入れ、田に灌漑した面積は千頃に及んだ。しかし湖には葑(水草)が多く長年浚渫されず、水面が積もり水量は僅かとなっていた。運河は湖水の恩恵を失い江の潮流に頼るようになったが、潮は濁っており堆積が3年ごとに市街の大患となり、六井もほぼ廃れかけていた。蘇軾は着任すると茅山・鹽橋の2河を浚渫し、茅山河には江潮を、鹽橋河には湖水を受けさせ、堰閘(水門)を築いて湖水の貯蔵と放流を管理し、潮が市街に入らないようにした。さらに余力で六井も修復し、葑田を取って湖中に長堤を築き南北を結び、人を募って湖中に菱を植えさせ、その収益を湖の維持費に充てた。杭州の人々はこの堤を「蘇公堤」と呼んだ。
潁州での盗賊捕縛(李直方の逸話)
潁州には尹遇ら数人からなる盗賊団がおり、殺人・強盗を働き捕吏をも殺していたが、朝廷が指名手配しても捕えられず、殺された者の遺族も恐れて口を閉ざしていた。蘇軾は汝陰尉の李直方に「これを捕えれば朝廷に力説して優賞を求める、捕えられなければ職務怠慢として免官を上奏する」と告げた。李直方は退いて盗賊の所在を探り、配下の弓手を分けて党を捕えさせ、自らも尹遇を捕えに赴いた。李直方には90歳の母がいたが母子で泣きながら別れて出発し、手戟で尹遇を刺して捕えた。しかし規定の功に僅かに満たず賞に及ばなかったため、蘇軾は朝廷に「自分の年労を李直方に譲り朝散郎の階を与えたい」と申し出たが認められなかった。後に吏部が蘇軾を昇進させようとした際、蘇軾は既に李直方に約束したことを理由に自らの昇進を辞退したが、結局この願いは通らなかった。
郊祀の儀衛管理
元祐7年、上が南郊で祀を行った際、蘇軾は兵部尚書として鹵簿使(儀仗を管理する役)を務めた。上が太廟で宿斎し儀礼を終えて青城に至ると、儀衛は厳しく整えられていたが、5使が景霊宮東の櫺星門外に至った際、赭色の傘の犢車と青傘の犢車100余輌が突如列を乱して現れた。蘇軾は御営巡検使を呼びつけ車前に立ち「西から来る者は何者だ、乱行を許さない」と質すと、「皇后および某国太夫人・国婆婆(皇后の母)・某国大長公主です」と答えた。蘇軾は「文書で報告せよ」と命じた。青城に至って儀仗使の御史中丞李端伯(李之純)に「中丞は職として朝政を粛正する立場、これを知らぬわけにはいくまい」と告げると、李端伯は中宮に関わることとして遠慮したが、蘇軾は「私が自ら上奏しよう」と述べ、青城でただちに疏を上げてこれを弾劾した。翌日、中使が命を伝え、有司に儀仗を厳正に整えるよう勅した。
恵州・儋州への流謫
恵州に流された際、末子の蘇過だけを連れて赴いた。瘴癘に侵され蛮族に軽んじられても、心中は泰然として一切こだわらなかった。人は賢愚を問わずその歓心を得た。病苦の者には薬を与え、亡くなった者は棺を用意して葬った。また衆を率いて大橋を築き渡河に苦しむ人を助けた。恵州の人々はこれを敬愛した。3年後、大臣は流謫だけでは不十分としてさらに瓊州別駕として昌化(海南島)に安置した。昌化は人の住むにふさわしい地ではなく、飲食も不十分で薬もなかった。官の屋を借りて風雨を凌いだが、有司はこれも不可とし、蘇軾は自ら土地を買い家を建てた。昌化の士人は土やレンガを運んで助け、家屋3間を築いた。人々はこの苦境に耐えられぬだろうと案じたが、蘇軾は芋を食べ水を飲み、著述を楽しみとし、常に土地の父老と交わり分け隔てがなかった。