宋名臣言行錄後集卷十九 曾鞏

出自と生い立ち

曾鞏、字は子固。建昌軍の人。進士第に及第し、英宗・神宗に仕えて中書舎人に至った。

越州通判での飢饉対策

越州通判のとき、飢饉が起こり常平倉の備蓄だけでは賑給に不足したが、田舎に住む民が皆城郭まで来るのは困難で、来た者が群れれば疫病の恐れもあった。曾鞏は事前に属県に富人に自ら米穀の数量を申告させ、合計15万石を集めた。常平の価をやや上げて民に売り、民は住まいのある土地の便に応じて受け取れるようにしたため、食料は余り、米価は平定した。

治政における姦強への厳格な対応

郡務では民の疾苦を除き、姦悪で強い者には厳しく、貧弱な者には寛大にし、「人の害となる者を除かなければ我が民は安まらない」と述べた。当時、州県ではまだ民を保伍(隣保連座)に組織していなかったが、曾鞏は独自にこれを実施し、部内の住人・旅人の出入りに宿泊まで記録させ、盗があれば鼓を鳴らして助け合わせ、方策と明確な賞罰を定めて追捕を促し、自首も許したため、盗が発生すればすぐに捕えられた。

行政の効率化

赴任先では属県に緩急を明示し期限を与え、期限内は督促の文書を送らず、期限が過ぎて未報告なら罪を問い、期限と事の内容が釣り合わなければ県に自ら申告させ別の期限を与えた。追及がある場合も州から人を派遣せず県が門前に人を呼び出すこともさせなかった。当初はあまり従わなかったが、小さな違反には吏を罰し大きな違反には県官を弾劾したため、誰も職務を怠らなくなり、皆期限前に事を済ませるようになり、民も煩わされることなく文書量は数十分の一に減った。

五朝国史の編纂

天子は曾鞏の賢を認め用いようとし、ある日内より中書門下に手詔を下し「曾鞏は史学に優れているので五朝国史の編纂を任せるべき」と命じ、脩撰に任じた。近年の国史編纂は多くの文学の士を選び大臣が監督するのが常であったが、五朝の大典を独りに委ねたのは曾鞏が初めてであった。曾鞏は昼夜討論を重ねたが草稿完成前に正官名の改定があり中書舎人に抜擢され、謝礼に参内する前に着任を促された。当時三省から百執事まで選任された者の除目が1日数十件に及んだが、曾鞏は職務に応じて簡潔で意を尽くした文を書き、論者は「三代の風がある」と評した。上もその典雅さをたびたび称えた。(弟の文昭公(曾肇)、行述を撰す)

若き日の逸話(六経閣記)

太平州司戸のとき、前輩の張伯玉のもとにあった。欧陽脩・王荊公ら名士がこぞって曾鞏の文章を称えたが、張伯玉は特に取り合わなかった。「私は六経閣を作ろうと思う、その記を書け」と言われ、曾鞏は6、7度草稿を書いたが伯玉の意に適わなかった。伯玉はついに「私が自分で書こう」と言い、紙に「六経閣とは諸子百家すべてを含む」と書き、経を尊ぶとは書かなかった。曾鞏はこれ以来大いに畏服し、学問にますます励むようになった。

神宗との対話(王安石評)

初めて神宗にお目通りした際、「卿は王安石と布衣の頃からの友人だが、安石はどのような人物か」と問われ、「安石の文学・行義は揚雄に劣りませんが、吝(けち)なところが古人に及ばない点です」と答えた。神宗が「安石は富貴を軽んじているのであって吝ではあるまい」と言うと、曾鞏は「そういう意味ではありません、安石は事を為すのに勇敢ですが、過ちを改めることに吝なのです」と答え、神宗はこれに頷いた。

弟・曾易占をめぐる逸話(温公日録の記述と反証)

曾鞏が検討の職を罷めた後、銭醇老がこれに代わった。元素(銭醇老)によれば、曾公亮が山陰知事の頃、市民の田数十頃を安く買い取り訴えられた。曾易占(曾鞏の父とされる人物)は当時越州の幕僚で、守・倅に「曾宰(曾公亮)は高科で将来貴顕になる人物、この件で失脚させるのは惜しい、父が明州守で老衰しているのでこれと相談し息子の代わりに罪を負わせよう」と説き、守・倅がこれに従い罪は父の贓罪として処理された。曾公亮はこの私的な処理に深く恩義を感じたという。後に易占は信州県宰として罪に問われ英州編管となり、曾公亮の別荘に逃げ隠れたが、大赦により自ら出頭し、曾鞏がこれを訴えて再度弾劾され再び英州に送られ、そこで死んだ。曾鞏はこのとき喪に赴かず郷里の評判を落とし、王安石(介甫)がこれを弁護する文を作って解いたとされる。曾鞏及第の際、郷人は「害を除いた」として感聖恩道場を催したという。曾鞏は漕運の勢いを頼み州は郡を、県は民を凌ぐことを好んだとの評もある(温公日録)。ただし按ずるに、曾鞏の父の死は南都で、杜祁公が葬儀を執り行った際に曾鞏が側にいたことが文集の「謝杜公書」から確認でき、王安石が撰した墓誌にも「南京で病没した」とあり、喪に赴かなかったとする話は司馬光の伝聞の誤りである可能性が高い。

王震による文章評

中書舎人の王震は曾鞏の文について「先生(曾鞏)は文章をもって天下に名を馳せて久しい。かつて壮年で気力旺盛だった頃の文章は、標鷙奔放・雄渾瓌偉で三軍の朝気、猛獣の怒り、江湖の波涛、烟雲の姿のようであった。当時、先生は劉向のようであることを自負し、韓愈には特にこだわらなかった。中年、地方への転出が続き不遇と評されたが、先生は泰然としていた。晩年朝廷に戻ると天下はその学を用いることを望んだが、折しも官制改革が行われ書命を掌ることとなり、百官の除目が新たに定められた。旧来の舎人は誰も存在せず、任じられたばかりでも即座に院に入り、除目が山積する中でも紙を占めて速やかに書き、いかにも無造作に見えたが、正午前に草稿を院吏に授け馬に乗って去るという早さであった。郎官・御史数十人の任命について、本来の法意と職守に基づき訓誡を書き分け、皆それぞれに新趣があり、しかも典雅で重厚、独自の一家をなしていた。私(王震)は当時尚書郎として制書の交付を掌っており、ある日つぶさに見て初めて先生の学問が老いてなお衰えぬこと、大手筆の書き手が確かに存在することを知った。ああ、先生はその学を極めきる前に世を去られたが、その名は天地とともに朽ちることはないだろう」と評した。