宋名臣言行錄後集卷十八 呂希哲
出自と生い立ち
呂希哲、字は原明。正献公(呂公著)の長子。恩により官に補せられ、崇政殿説書を務めた。
厳格な家庭教育
正献公は子に何事も規矩に従わせて教育した。10歳の頃、酷寒酷暑でも終日侍立させ、座るよう命じられなければ座らせなかった。毎日必ず冠帯を正して長者に会わせ、平生どれほど暑くとも父母や長者のそばでは頭巾・足袋・袴の着用を崩さなかった。行き来には茶屋・酒屋・市井里巷の言葉、鄭衛の淫らな音楽を一切耳に入れさせず、不正な書物や不作法な色事を目に触れさせなかった。呂希哲は常に「人が生まれて内に賢明な父兄なく外に厳格な師友なくして成功する者は少ない」と語った。
学問の師
王安石に学んだが、王安石が「まだ官に就かず科挙を志す者は貧しさゆえだが、既に官があるのに科挙を求めるのは僥倖により富貴利達を求めるだけで、学ぶ者の取るべき道ではない」と語ったのを聞き、直ちに科挙を捨てて古学に専心した。程頤(程先生)とともに胡瑗(胡先生)に師事し、程頤より1、2歳年上であったが、その学問の淵源が他と比べ物にならないことを察し、まず師の礼をもってこれに仕えた。程顥(明道)・張載(横渠)・孫覚・李常とも交流し、見聞は日々広がった。しかし一つの説に偏らず一門に肩入れせず、枝葉を省いて涵養に専念し、直截で力強く聖人の域を目指した。特に曾子の学を慕い内面を尽くすことに努め、経書を読むにも平明簡要で、無用な弁説を避け、言葉を知ることを先とし、自得を本とし、実践を実とした。虚言を好まず異行を為さなかった。
父の評
正献公はかつて張耒に「この子は闇室でも欺かず、京師で官に就いても台諫官を訪ねることはなく、昇進の際は執政に一度会うだけでそれ以上は会わない」と語った。
父の広範な人材登用と息子への言葉
正献公は当世の賢士を広く用い、一善あれば必ず用いた。かつて数枚の紙に当世の名士の姓名を書いていたが失い、後にその紙を見つけると、書かれていた人物は皆すでに用いられていた。正献公は手ずから息子に書を送り「当世の善士は皆用いられているが、お前だけは私(の子であるという理由)で用いられない、これも運命だ」と述べた。
崇政殿説書としての姿勢
説書を2年務め、日夜天子に「修身を本とし、修身は正心を主とする、心が正しく意が誠であれば天下は自ずと感化される、他の術は要らない、身が修まらなければ左右の者すら諭せない、まして天下をやではなおさらだ」と勧め導いた。
諫官辞退時の逸話
諫官に任じられ何度も辞退したがかなわなかった。蘇子瞻(蘇軾)が邇英閣で戯れに「法筵の龍象(高僧)たるものは第一義を観るべし」と言うと、呂希哲は笑って答えなかったが、退いて范淳甫(范祖禹)に「もし辞退がかなわなければ、必ず楊畏を先頭に据えるだろう」と言った。当時楊畏は言路にあり険詐を自任し、蘇軾に厚遇されていたためこう述べたのである。
賓客への配慮
郡務にあった頃、公帑に鰒魚(あわび)や干物、筍乾・蕈乾を多く蓄えて賓客をもてなし、鶏鴨などの生き物を殺すことを減らそうとした。
晩年の質素な生活
晩年、宿州・真州・揚州の間に10余年住んだが衣食が足りず、時に数日糧を絶つこともあったが泰然として一室に静座し、家事は一切問わず、州県に些細なことも頼まなかった。和州にいた頃の詩に「借書と酒を沽う他は、公私を煩わすことは何もない」と詠んだ。閑居の日には『易』を1爻ずつ読み、古今の諸儒の説を遍く考証し、黙坐沈思して事に応じて解釈し、夜には子孫と得失を論じ確かめ、長く続けてからやめた。
夫婦の逸話
仙源(呂希哲の孫か)が語るところによれば、侍講(呂希哲)は夫婦として60年連れ添ったが一度も顔を赤らめることがなく、若い頃から老年まで、閨房においてすら戯れ笑うことがなかったという。
人事への戒め
若い頃から官にあっても人に薦挙を求めたことがなかったと後進を戒めた。従兄弟の呂舜従が会稽の地方官であった頃、人から「なぜ知られようとしないのか」と譏られた際、「職務に勤めること以外に慎むべきことはない、これこそが知られる道である」と答えた見事な言葉が伝わっている。
病人への配慮
物事に長期的な計画と便宜の道を求める人柄で、たとえば中風で口がきけず手で書けない病人を看病する側が何を欲しているか問うても本人は答えられずかえって苦しめてしまうことを踏まえ、飲食・衣服・寒暖など普段の希望や、常用の薬(理中丸など)、日常の所作(梳髪・洗面など)を1枚ずつ札に書き、家人にも書かせておき、病人がその札を示すだけで済むようにする工夫を人に教えた。人への処し方は常にこのようであった。