宋名臣言行錄後集卷十八 呂公著
出自と生い立ち
呂公著、申国正献公。字は晦叔。文靖公(呂夷簡)の子。恩により官に補せられ進士第に及第し、哲宗の代に宰相となり没後太師を贈られた。
欧陽脩の推薦
欧陽脩が翰林学士のとき、呂公著の文学・行誼が側近にふさわしいと薦め、清静寡欲で古の君子の風があると称えた。欧陽脩が契丹への使いの際、中国の徳行・文章の士を問われ、呂公著と王荊公(王安石)の名を挙げた。
士大夫の高退の節を励ます
欧陽脩は士大夫に高潔に退く節操が少ないことを憂い、呂公著・張唐公・王荊公・韓持国を推薦して風俗を励まそうとし、また王安石とともに呂公著を諫官に推薦した。
経筵での進講姿勢
経筵に侍したとき、仁宗が高齢であったため、経伝の異同や訓詁の得失は簡略に述べる一方、治乱安危に関わる要点は反復して詳しく申し述べた。仁宗が「経伝に記された逆乱の事は諱まず直言せよ」と講官に詔した際、呂公著は「弑逆の事は臣子として口にしたくないものですが、孔子がこれを『春秋』に記したのは後世の人君に微を防ぎ漸を杜ぎ、安きに居て危うきを慮り、君臣父子の道と長幼嫡庶の分を早く明らかにさせ、乱臣賊子がその奸心を萌さぬようにするためです。易に『霜を履んで堅氷至る』とあるのは、早くに弁別しないことを戒めたものです」と述べた。
経義を通じた諷諫
進講の折には経義を通じて規戒することが多かった。『論語』の「人知らずして慍みず、亦君子ならずや」を講じた際、「下位にあって上に知られない者は多いが、上位にある者もまた下に十分知られていないことがある。だからこそ古の人君は政令が行き渡らず人心が服さない時、自らを省みて修徳し、怒りをぶつけなかった。舜が広く文徳を敷き、文王が自ら敬徳に努めたのがそれです」と述べた。仁宗はこの言葉の深意を悟り、乗り物の中でも威儀を正すほど姿勢を改めた。
講読における評価
講読は精緻で言葉は簡にして意は明らか、当世随一と称された。司馬光と共に経筵に侍し、司馬光は退いて人に「晦叔の講義を聞くたびに自分の言葉が煩雑に思える」と語った。(呂汲公、神道碑を撰す)
経筵の運営と『尚書』進講の提案
仁宗末以来、経筵は2月に開講し端午に休み、8月に再開して冬至に休むのが慣例であったが、この年は9月5日開講で重陽に休むとの詔が下った。呂公著は「陛下には日々邇英閣に臨まれ先帝の故事に倣われるよう」奏し、詔でこれに従った。後に『論語』の講読が終わろうとした際、『尚書』が二帝三王の道を備え治術に特に切実であるとして、『論語』が終わり次第『尚書』の進講に移るよう請い、許された。
郊祀に関する対話
英宗が太廟から南郊に赴く際、「今の郊祀と古の郊祀はどう違うか」と問うと、「古の郊祀は誠を貴び質を尚びますが、今の郊祀は儀衛や事物の華美を盛んにするのみです」と答えた。
神宗の信任
神宗は藩邸にいた頃から呂公著と司馬光の名を熟知しており、即位すると真っ先に2人を学士に召した。朝論はこぞって「人を得た」と称えた。
神宗への進講(勇智の解釈)
神宗が初めて経筵に臨んだ際、呂公著が『尚書』を進講し「天乃ち王に勇智を錫う」の句に至ると、神宗は「なぜ勇智とだけ言うのか」と問うた。呂公著は「仲虺がまさに成湯が夏を伐ち民を救えたことを称えるためこう言ったのです。しかし聖人の徳は易にいう『聡明睿智神武にして殺さず』であってこそ善を尽くせます」と答え、当時若い神宗に対し好勇黷武(武を好み濫用すること)を戒めた。
地震への諫言
夏秋の長雨と京師の地震に際し、「人君たる者は偏聴独任の弊を去り、先入観に囚われなければ邪説に惑わされることはありません。顔淵が国を治める道を問うたとき、孔子は佞人を遠ざけることを戒めとしました。佞人は君の意に合わぬことを恐れるため親しみやすく、正人は義に合わぬことを恐れるため疎まれやすいものです。ただ王を正し事を正すことが先決で、事が正されて世が治まらなかった例はありません。陛下には勉めてこれを最後まで貫かれますように」と述べた。
御史中丞としての西陲論
御史中丞を拝し、対面の際に西陲(西方辺境)の事に話が及ぶと、退いて「武備を厳しく修め、来れば応じ、逸を以て労を待つべきです。大臣を派遣して武事を誇示させたり、深入りを議したり奇功を求めたりするのは国家の至計ではありません」と上奏した。後に呂公著が退任した後、朝廷が大臣を辺境に遣わし西征を行ったが功なく士卒が内部崩壊するに至り、すべて呂公著の予測通りとなった。
貢挙のあり方
貢挙を知るとき、貢院で密かに「天子が軒に臨み士を策問するのに詩賦を用いるのは、賢を挙げ治を求める本意ではありません。近ごろは有司の考校が策論を専用しています。今回の殿試は、陛下自らの意向で詔策により治道を諮問されるべきです」と奏上し、この年は上が軒に臨み策で進士を試すこととなった。
王安石との確執
王安石とは元来親しかったが、台諫の横議を憂え王安石が呂公著を中丞に推薦したところ、まもなく天下が条例司の民への害を憂えるようになり、呂公著は条例司の不便を論じた。王安石は呂公著が自分を裏切ったと考え、深く恨むようになった。神宗が執政に「呂公著がかつて韓琦が晋陽の兵を興し君側の悪を除こうとしていると語った」と述べたことを、王安石は呂公著を罪に問う口実に用い、呂公著は潁州知事に出された。(温公日録)
王安石との相互評価の変転
王荊公(王安石)はかつて呂申公(呂公著)と親しく「呂十六(呂公著)が宰相にならなければ天下は太平にならない」と語っていたが、呂公著を中丞に推薦した後、半年も経たないうちに「八元八凱の賢がいる」と評していたのが一転「驩兜・共工の姦がいる」と評するようになった。王安石の喜怒はこのように変わりやすかった。孫覚(莘老)はかつて上に「今、藩鎮大臣がこのように論じられ挫折を受けるようでは、唐末五代のように必ず晋陽の兵を興して君側の悪を除こうとする者が現れるでしょう」と進言したが、神宗はその人物名を忘れ、美しい鬚があったことだけを覚えていたため誤って呂公著のことと思い込んだという。
彗星と直言の建言
彗星が現れ求直言の詔が下った際、呂公著は疏を上げ「陛下には治を欲する心がありながら実がないのはなぜでしょうか。それは任事の人が陛下に背いているからです。士の邪正賢不肖は元来定まっているはずですが、今はそうではありません。以前『天下随一の賢者』と挙げた者を後に『天下随一の不肖』として逐うことがあります。人材の評価がこのように反復して定まらなければ、政事もまた乖離して安定しません。陛下はこれをご覧になりませんか」と述べた。
康節との対話
洛陽にいた頃、邵康節に「民は生活に耐えられなくなっている」と長嘆すると、康節が「安石はもともと遠方の人だが、あなたと君実(司馬光)が引き立てて今の地位に至った、それでも何か言うことがあるか」と述べると、呂公著は「これは私(公著)の罪だ」と答えた。
釈老の虚寂の旨についての議論
邇英閣での進講後、神宗が治道を論じ釈老の虚寂の旨に及んだ際、呂公著は「堯舜はこの道を知っていたでしょうか」と問うた。神宗が「堯舜が知らぬはずはあるまい」と答えると、呂公著は「堯舜はこれを知っていたとしても、常に人を知り民を安んじることを志としていました」と述べた。
宰相登用時の評判
呂公著が河陽から入朝した際、都人はこれを取り巻き「この方が朝廷に戻られるのは百姓の幸せだ」と語り合った。士民は祝賀し、命を受けて殿門を出ると武夫や衛卒までもが歓喜した。慈聖光献太后はこれを聞いて特に喜び「積徳の家柄だ」と述べた。司馬光は洛陽で呂公著の枢密登用を聞き、都下の友人に「晦叔の登用に天下は皆喜んでいる、治世の模範になると思われている」との書を送った。光自身はこの人事に極力関与を辞退し、呂公著には早く職に就くよう勧めた。
就任後の建言(新法批判者への処遇改善)
就任後、「熙寧以来、朝廷の議論が分かれる中で端正な人・良臣が一律に小人扱いされ、法度を破壊する者と見なされて再登用されないことは国家の利にならない、陛下には見直していただきたい」と奏上し、神宗は「順次登用しよう」と応じた。
肉刑復活論への反対
神宗即位当初、韓絳が肉刑の復活を議し、この時に至って再び執政に議させる詔があった。呂公著は「後世は礼教が備わらず刑獄が繁多になっており、肉刑を復活させれば『踊(切られた足の代わりの履物)が高く履が安い』という混乱を招く」として反対した。呉充は円形の獄舎の復活を提案したが多くが実行困難とし、王珪は開封の死罪囚で試みに劓刑・刖刑を科すことを提案したが、呂公著は「刖刑で死ななければ肉刑がそのまま常用化してしまう」と述べ、この議論は結局立ち消えとなった。
曹氏への過剰な推恩への懸念
慈聖太后が升祔された際、曹氏一族に大きな推恩があり200余人が昇官・褒賞を受けたことについて、呂公著は「古来、亡国乱家は小人を親しみ宦官を任用し女謁に通じ外戚を寵愛することから起こる」と述べ、神宗はこれに深く同意した。
対西夏開戦論への慎重論
西夏の主・秉常が幽閉されたとの諜報があり、神宗が二府と大挙出兵を議した際、呂公著は「諜報の通り夏人に罪があるとしても、陛下はまだ誰を元帥とするかを審らかにされていません、適任者を得ていないなら出兵しない方がよい」と述べた。元豊5年4月、西征が功を上げられず、呂公著は「世論はみな王中正を正典刑(処罰)すべきと言っている」と上奏し、翌日には枢密の職を解くことを強く願い出て、資政殿学士・定州路安撫使に任じられた。永楽城陥落の報が届いた際、神宗は天章閣で輔臣に「辺民がこれほど疲弊しているとは、呂公著だけが朕に語ってくれた、他の者は誰も言わなかった」と語った。
定州での辺境政策
定州に赴任した際の謝表に「進んでは功を求めて事を起こさず、退いては備えを緩めて職を怠ることもない」と記し、これは人々に実直な言葉として伝誦された。当時朝廷は武事を経営し辺備を増強しており、時流に乗ろうとする者が北伐の策を争って献じていたが、呂公著は定武に着任すると「中国と契丹は久しく通好し辺境は平穏であった、辺境の駐屯軍にはもとより規律があるのでただ静かに鎮めるべき」と述べた。保甲法が新たに施行され辺境の教場では日々金鼓を鳴らし戦法を唱えさせていたが、その音が異民族にまで聞こえ、契丹側が「辺郡が事を起こし誓約に違反している」と檄を送ってきた。神宗は呂公著にこの対応を委ね、呂公著は「辺民に境上で戦法を習わせるのは管子の『寓令』の意にそぐわない」として一切罷めるよう上奏したが、聞き入れられなかった。
哲宗即位後の十議
哲宗が即位すると、呂公著は邇英閣の侍読としてまず「人君が即位した当初は、始めを正して天下を正し、徳を修めて百姓を安んずべきです。徳を修める要は学問より優先するものはなく、学は光明を継続し日々新たにして大いなる治世に至ります。それが学の力です。臣は講読の任にあり、謹んで十議を条陳して聡明の補いとします」と述べ、一に畏天、二に愛民、三に修身、四に講学、五に任賢、六に納諌、七に薄斂、八に去奢、九に省刑、十に無逸を挙げた。1ヶ月余りで執政に任じられ、ついに宰相として頼られた。薄斂(税を軽くする)の論では「かつて鹿台の財、鉅橋の粟を殷の紂王は集めて国を滅ぼし、武王はこれを散じて民心を得ました。ここから見て人主はただ仁義を務めるべきで、なぜ利益を語る必要がありましょうか」と述べた。(下蔡語録に「君の道としてこの十議を出るものはなく、人君の座右銘とすべき」とある)
三省の運営改革
官制で三省が並び立ち中書のみが取旨の場となり、門下・尚書は奉行するだけとなった。呂公著は「三省はいずれも輔臣であり、同舟共済のように一心協力して政事を修めるべきだ」として、三省に関わる事項は今後執政が同時に進呈し取旨の上で各自実行するよう請い、これが令として定められた。
都堂での合議の慣例化
以前は執政が3、5日に1度都堂に集まり、長官が専決し他の同僚が関与しないことが多かったが、呂公著が政を執って以後は特に理由がなくとも日々都堂に集まり、これが慣例となった。
司馬光との新法改革
呂公著は最初、司馬光とともに政を輔け、先帝(神宗)の本意を推し量って改革を進めた。神宗の意図は本来、四夷を制して中国を強め蕃邦の富を活かして国用を助けることにあったが、有司の運用がその本旨を失っていたことを神宗自身も憂えていた。改めようとしながら手が回らなかった事や、改めたものの定まらなかった事について、詔勅の記録に残る事例をいくつか検証できる。青苗の害を詰めた記述では「常平の泉穀で水旱に備えるべきものを貪って利を求め7、8割にまで達し、国は救済の備えを失い民は督責に苦しむ者が多い」とあった。市易法の弊害を責めた記述には「鄙細に大きく傷つき国体を損なう」とあった。用兵の失を戒めた記述には「南方の安南と西方の戦役で死傷した兵夫はいずれも20万を下らない、有司が1人でも無実の死罪を出せば責任は軽くないのに、今罪なき者を数十万も死地に置いたのだから朝廷はその咎を負わざるを得ない」とあった。官制改革の停滞を救う記述には「官制の刷新は吏治を正すためのものだが、今なお頒行が定まらず、諸方に宮廷寵愛の議論の余地を与え後世の譏りを残している」とあった。そこで呂公著と司馬光は同志とともに、常平の旧法に戻して青苗を改め、嘉祐の差役法を参酌して募役法を改め、保馬を罷めて監牧を復活させ、保甲の教練選抜を緩めて農作業に便宜を図り、市易の令を除き、茶塩の禁を緩め、辺塞に亡民を贖い西戎と和した。これにより民は歓呼して喜んだ。(神道碑)
司馬光からの信託
司馬光は病中に呂公著に簡を送り「晦叔は結髪(元服)以来学を志し、行いは端方忠厚で天下が仰ぎ見てきました。老いてようやく政を秉るに至り、平生蓄えたものを今施さずしていつ施すのでしょうか。近ごろの評判では晦叔は慎黙に過ぎるとの声がある、この際もし廷争を怠り事を蹉跌させれば彼らの朋党に組み込まれてしまうでしょう。私は病んで以来、身は医家に、家事は康(司馬康)に委ねましたが、国事だけはまだ託す先がありませんでした、今日これを晦叔に託します」と書いた。
辺防の穀物備蓄
上奏して「古来、戎狄への対策は三代の盛時でさえ、来れば防ぎ去れば備えるに過ぎない。備えの道は穀物の備蓄が最も肝要である」と述べた。
雇役の弊害是正
司馬光の議論では、役に服する者は皆雇人に代行させることを許さなかったが、東南・西蜀の諸路では資産の多い者や子弟が儒学を修めている者まで弓手として賎役に服さねばならず苦しんでいた。呂公著はこの弊害を聞き、雇人を募ることを一律に許すよう命じ、民は大いに喜んだ。
講読官への進講書の整理
邇英閣で『論語』の講読が終わった際、執政・講読官・左右史を資善堂に招いて内より御書の唐人詩を分け賜った。翌日呂公著は「陛下は天縦の睿哲な性を持ちながら日々慈訓を体して典学に新たなるものを加えられています。誠に堯舜三代を法とすれば四海は労せずして治まるでしょう。今後『論語』が終われば『尚書』を進講しますが、この2書はいずれも聖人の格言、君たる者の要道です。臣はその中と『孝経』から要語約100段を選び進呈します。聖人の言葉は本来取捨すべきものではありませんが、今は特に明白で治道に切実なものを選び、閲覧の便に供します。あるいは筆硯に興を移す折の参考ともなれば、日進月歩の一助になるでしょう」と奏上した。数日後、太皇太后は「呂宰相が進めた要語は皇帝に毎日書写して見るよう命じた、詩篇を書写するのとは違って学問に大いに益がある」と宣諭した。
郎官の過失への寛大な処遇
郎官の何洵直が部の印を紛失した際、呂公著は「洵直に確かに罪はあるが、これを重く咎めれば以後、狡猾な吏がこれを利用して上役を制するようになる」として罪を軽くさせた。
科挙・経義論争
仁宗朝で進士に策論を先に試すよう請い、神宗初には経術による取士を献策、熙寧3年の貢挙を知る際には密かに軒に臨んで専ら策で試すことを進言した。まもなく呂公著は青苗法批判により罪を得て去り、王安石が専政すると詩賦を一律に罷め経義に一本化し、春秋のみ「破缺(欠落が多く読みにくい)」として学が廃され、受験生は春秋で応試できなくなった。王安石はさらに子の王雱・弟子の呂惠卿・呂升卿らと『詩』『書』『周礼』の義を撰定し天下に頒布させ、受験生は一語たりとも新義によらねば認められなくなった。これにより学者は経義を思索することも正経を暗誦することもなくなり、ただ王安石・呂惠卿の書に精通する者だけが上位に及第するようになった。有司は策問で必ず時政を先に称賛させ、答える者もこれに応じて大いに諂辞を弄し、また仏書を引いて六経を証明し、時に天竺語をそのまま用いて誇る風潮も生まれた。晩年には字学(文字学)に向かい、字書によって士を取捨するようになり、学者は経を解さず専ら字を解くようになり、一字の分析に数百言を費やして経義からますます離れた。これにより内外の論者はみな経義を咎め詩賦の復活を望むようになった。元祐初、科挙の弊害を論じ旧制への復帰を求める声が相次いだが、呂公著は「先帝が法度を改め経術で士を育てたのは古に近いあり方です。孔子の六経の何が後世に劣るというのでしょうか。ただ王安石の課試の法が誤っていたにすぎません。安石の経の解釈も必ずしも悪くはなく、ただ人を自分と同じにしようとしたことが大いなる誤りです」と述べた。司馬光も詩賦の復活には反対であったが、論者は経義の弊害を目にして憤懣やるかたなく、結局進士の初場に経義、次に賦・詩・論、策対を試し、経義については古今諸儒の説や自分の見解を引用してよいと定められた。また春秋科の設立、太学に春秋博士2員を置き、有司が荘老の書から出題することを禁じ、答案に申韓の刑名学や仏書を雑えることを禁じ、律義の試験も廃止された。廷試に際し、執政は熙寧の策試復活当初、進士の葉祖洽が祖宗を譏議したことを引き合いに、対策者は皆前朝を誹り時流に阿ることになるとして策問を廃し詩賦論に戻すべきと主張したが、呂公著は「天子が軒に臨み策を発し四方の貢士に治道を諮問することこそ古に近い良法ではないですか。対策の是非邪正は考官の去取にかかっているだけです」と述べ、結局旧来通り策試が続けられた。その後も科挙論争は絶えず、呂公著の薨去後も詩賦がますます盛んになり経義が全廃されるに至ったが、これは呂公著の本意ではなかった。
仏教への傾倒
晩年は仏書を多く読み禅理を深く究めた。司馬光は博学で志行があったが仏を好まなかった。呂公著はしばしば留意を勧め「いわゆる仏学とは、その心術の簡要を貴ぶだけであり、必ずしも事々に服習して方外の人になる必要はない」と語った。
質素な暮らしぶり
家では夏に窓を開けず扇も使わず、冬に火に近寄らなかった。ある盛夏、楊大夫瓌宝(字は器之)が鎮戎軍の副官として赴任する挨拶に訪れた。器之は呂氏の甥であった。呂公著は西窓の下、烈日の中で正装のまま2杯の酒を酌み交わしたが、器之は汗が背を伝う中、呂公著は微動だにしなかった。
書と博打嫌い(家塾記)
生涯草書を書いたことがなく、特に人が博打をすることを嫌い「勝てば仁を傷つけ、負ければ倹を傷つける」と語った。
曲直を争わぬ性格
生涯人と曲直を争わず、誹謗を聞いても弁明しなかった。若い頃、座右に「不善を我に加えられても直ちにこれを受け入れる」と書いていたのは、自らを戒めるためであった。至和年間には東漢の延篤が李文徳に送った書を座右に書き写し、また古人の詩「好衣は節士に近づかず、体を梁にすれば腹中の書を怕るるがごとし」を屏風に書き記した。
温厚さと聡明さの評(龜山語錄)
呂晦叔(呂公著)は真の大臣であり、その言葉は簡にして意は足りていた。孫莘老(孫覚)が「裕陵(神宗)は問うことを好み、それゆえに裕(余裕)があった」と語ったのに対し、呂公著は「問うことを好んで余裕があるより、徳を聴いて聡明である方が優る。劉向のように強いて聒しく諫め続ける者もいる」と述べた。劉向は貴戚の卿であり、この言葉は忠厚と言えるが、劉向が漢室を眷々として去らなかったことは正しいとしても、変事を上奏し議論を続けたことは天命を知らないとも言えると評された。(龜山語錄)
一族の栄誉
宋の興り以来、大臣として三公・平章軍国事に至った者は4人に過ぎず、呂公著父子(呂夷簡・呂公著)はそのうちの2人を占め、当時大いに栄誉とされた。