宋名臣言行錄後集卷十七 司馬光

司馬光、字は君実。諡は文正、温国公。陝州の人。仁宗・英宗・神宗・哲宗の四代に仕え、のち門下侍郎・尚書左僕射に至り、没後太師を贈られた。幼少より学を好み、諫官として直言をもって知られ、王安石の新法に強く反対した。神宗の命で『資治通鑑』を編纂し、元祐初め政を輔けて新法の多くを廃した。

年表(5件)
  • 至和3年仁宗の国嗣が定まらぬ中、范鎮に続き上疏して皇嗣(のちの英宗)擁立を建言
  • 治平中韓琦の陝西義勇兵徴募策を強く諫めるも聞き入れられず
  • 甲寅の年初めて経筵に赴き、神宗自製の『資治通鑑』序を賜る
  • 熙寧七年天下の旱蝗により求直言の詔に応じ、青苗・免役等の弊を論じる六事を上疏
  • 元祐元年正月門下侍郎として新法を次々に廃止、免役法の五害を論じて罷めさせる

出自と生い立ち

司馬光、温国文正公。字は君実。陝州の人。進士甲科に挙げられ、仁宗・英宗・神宗・哲宗の四代に仕えて丞相に至り、没後太師を贈られ哲宗廟に配享された。幼少より成人のように厳粛で、7歳で『左氏春秋』の講義を聞いて深く愛し、家人に大意を語れるほどであった。以後手から書を離さず飢渇寒暑も忘れるほどであった。15歳で通じない書物はなく、文辞は醇深で西漢の風があった。(蘇内翰、行状を撰す)

幼時の逸話(胡桃の皮むき)

邵氏後録によれば、司馬光が自ら書いた帖に「光が5、6歳の頃、青胡桃で遊んでいて姉が皮を剥いてやろうとしたができなかった。姉が去った後、婢女が湯で剥いてくれた。姉が戻って誰が剥いたか問うと、光は『自分で剥いた』と答えたが、父がこれを見ていて『子供がなぜ嘘をつくのか』と叱った。以後光は嘘をつかなくなった」とある。

学問への姿勢

幼時、記誦が人に劣ることを気にし、皆で学ぶ際に他の兄弟が暗誦を終えて遊びに行っても独り帷を下ろし書物を離さず、暗誦できるまで続けた。人一倍力を注いだ分、生涯忘れなかった。「書物は暗誦できねばならない、馬上でも夜眠れぬ時でもその文を詠み意義を思えば得るところが多い」と常々語った。

若き日の逸話(冷斎夜話)

山谷(黄庭堅)によれば、范純甫の話として、司馬光が若く仕官したばかりの頃、家人はしばしば書斎で横になっていた光が突然起き上がり公服を着て笏を執り正座するのを見た。理由を問うと「時々天下の事を思い立つ、天下の安危を思う以上、敬わずにいられようか」と答えたという。

交趾の麟献上への対応

交趾が異獣を「麟」と称して献上した際、司馬光は「真偽は分からないが、真であれば自然に来るべきもので瑞祥とは言えず、偽であれば遠方の人に笑われる、丁重に賜物を与えて送り返すべき」と述べ、これを諷す賦を奏上した。

日食に関する議論

有司が6月朔日に日食があると奏上した際、司馬光は「先例では日食の程度が浅い場合や京師で見えない場合は祝賀するが、日食は四方で見えて京師で見えないなら、天が陰邪に蔽われていることを天下は知って朝廷だけが知らないことになり、災いはむしろ甚だしい。祝賀すべきでない」と述べ、詔でこれに従い、以後この扱いが常例となった。

皇嗣建議(英宗擁立の経緯)

至和3年、仁宗が病を得て国嗣が定まらず天下が不安を抱きながらも誰も言い出せない中、范鎮が最初にこの議を発した。司馬光は并州通判としてこれを聞き継いで上疏し、「大宗に子がなければ小宗の子を後継とするのが礼、宗室の賢者を選び皇嗣が生まれるまで儲貳を摂行させるか、宿衛や京尹を掌らせて天下の望みを繋ぐべき」と述べた。疏は3度上げられたが1つは留められ、2つは中書に付された。司馬光は范鎮に書を送り「これは大事、言うなら死を賭して争うべき」と促し、范鎮の言はますます強まった。司馬光が諫官になると再び疏を上げ面奏し、上は「中書に付す」と命じたが、司馬光は「陛下自らのお考えとして宰相に諭してください」と求めた。その後再度上疏面奏した際、「先に進言した折は陛下も快く受け入れられたのに、その後何の音沙汰もありません。おそらく小人が『陛下はまだ壮健なのになぜ不祥な事を』と讒言しているのでしょう。小人は遠慮なく、混乱の隙に乗じて自分の親しい者を後継に据えようとしているだけです。唐の文宗以後、皇嗣の擁立は側近の意のままとなり『定策国老・門生天子』とまで呼ばれる事態を招きました、この禍は計り知れません」と述べた。仁宗は大いに感悟し「中書へ送れ」と命じた。司馬光が中書に至り韓琦らに「今のうちに議を定めなければ、後日禁中から一片の紙で後継者が指名されれば天下は誰も逆らえなくなる」と告げると、韓琦らは「力を尽くします」と応じた。1ヶ月余り後、詔で英宗が宗正寺を判ずることとなったが英宗は固辞して就かず、翌年皇子に立てられた。

知制誥の辞退

知制誥に任じられたが8、9度辞退し天章閣待制に改められた。龐丞相への啓上で「私は文を作る才が乏しく、科挙のときも辛うじて文をまとめる程度で工緻ではありません。古文を慕っても力を尽くせず、前賢の道に迂遠で世に益しない言葉しか書けません。知制誥は天子の詔を作り華夷に布告する重職ですから、書簡の代筆すら人に頼る私には務まりません」と述べた。この辞退は誠実な思いによるもので、謙譲の飾りではなかった。

太后聴政期の建言

仁宗崩御後、英宗が哀毀のあまり病に伏し、慈聖光献太后が聴政すると、司馬光は真っ先に上疏し「章献明肅太后(劉太后)は先帝を保佑し賢を進め奸を退けて趙氏に大功があったが、外戚や小人を用いたために天下から謗られた。今、太后が初めて大政を摂るにあたり、王曾のような忠厚、張知白のような清純、魯宗道のような剛正、薛奎のような質直な者を信任し、馬季良のような卑しい者、羅崇勲のような讒諂の者を遠ざければ天下は服するでしょう」と述べた。

英宗の病癒えた後の建言

英宗の病が癒えて皇太后が政を返上した際、「身を治めるには孝より先はなく、国を治めるには公より先はない」と切実に上疏し、母子の間で言いにくいことを率直に述べた。

義勇兵徴募への反対(韓魏公との対話)

治平中、韓魏公(韓琦)が陝西で義勇兵を徴募する策を建議し、3丁に1丁を刺(登録)し1人に弓弩箭銭3貫文省を支給、総勢20余万人を集めることとなった。深山幽谷の民まで逃れられず、人心は動揺し民兵の規律も疎らで実用に耐えず、官費の無駄となった。諫官だった司馬光はこれを強く不便として劄子を中書に持参した。韓琦は「兵は先に声を上げてから実を備えるもの、諒祚(西夏)は今驕慢だが、陝西に急に兵が増えたと聞けば震え上がるだろう」と述べたが、司馬光は「兵の効用は実がなければ一日で偽りが露見する、少し時間が経てば敵はその実情を知り効果を失う。今兵を増やしても実際には使えない、10日もすれば西人はその内実を知り恐れなくなる」と反論した。韓琦は答えられず、「慶暦の陝西郷兵は最初手の甲に刺していたが、後に顔に刺して正兵に組み込んだ、今は民に永久に辺境に配備しないと約束している」と述べたが、司馬光は「私は決して信じません」と述べた。韓琦が怒って「なぜそこまで私を軽んじるのか」と言うと、司馬光は「相公はここに長くいるからよいですが、もし相公が退いて他の人がこの兵を継げば、運糧・戍辺に転用するのは容易いことです」と答えた。韓琦は黙り、止めなかった。その後10年足らずで義勇兵は運糧・戍辺に常用されるようになり、司馬光の予言通りとなった。

王広淵の任用反対

王広淵が集賢院に任じられようとした際、司馬光は「広淵は姦邪で近づけるべきでない」と論じ、漢の景帝が太子時代に側近を集めて宴を開いた際、衛綰だけが病と称して来なかったが、景帝は即位後衛綰を厚遇した故事、周の世宗が澶淵鎮守の頃、張美が州の銭穀を扱い私的な要求に応じたが、即位後はその人柄を軽んじ用いなかった故事を引き、「広淵は仁宗の世に陛下に私的に取り入っている、忠臣と言えようか、退けるべき」と論じた。(行状、以下同じ)

神宗即位時の翰林学士辞退の逸話

神宗が即位すると真っ先に司馬光を翰林学士に抜擢しようとしたが固辞し許されなかった。神宗が「古の君子には学があって文がない者、文があって学がない者がいたが、董仲舒と揚雄だけは両方を兼ねていた、卿は文学を兼ねるのになぜ辞退するのか」と諭すと、司馬光は「臣は四六(駢文)が作れません」と答えた。神宗が「両漢の制詔のような文体でよい」と言うと、司馬光は「本朝の故事ではそれは通用しません」と答え、神宗が「卿は進士高等に及第しながら四六が作れないとはどういうことか」と問うと、司馬光は急ぎ退出した。神宗は内臣を閣門に遣わし強いて告身(辞令書)を受けさせようとしたが、拝礼はしても受け取らず、催促されて参内し謝礼を述べると、上は座して待っており、告身を懐に入れられてやむを得ず受け取った。

御史中丞としての建言

御史中丞に任じられ、修心の要として「仁・明・武」、治国の要として「官人・信賞・必罰」を上疏し、「臣はかつて諫官として仁宗にこの六言を献じ、その後英宗にも献じ、今また陛下に献じます。平生の学力の到達点はすべてここにあります」と述べた。

延和殿対、張方平批判

延和殿で対面した際、張方平の参知政事任用を「姦邪で貪欲、衆望に添わない」と論じた。神宗が色をなして「朝廷が人事を発表するたびに議論が紛糾するのは朝廷にとって好ましくない」と言うと、司馬光は「これこそ朝廷にとって好ましいことです。人を知ることは堯帝でさえ難しいとされ、まして陛下は即位したばかり、万一姦邪な者を用いても台諫が黙して言わなければ陛下はどうして知ることができましょうか。それこそ朝廷にとって好ましくないことです」と答えた。

資治通鑑の進呈

甲寅の年、司馬光が初めて経筵に赴いた際、神宗自ら製作し書写した『資治通鑑』の序を授けられ、司馬光は拝受し、三家分晋を諸侯とする論を進講した。神宗は禹玉(王珪)らを顧みて長く称賛した。

嵬名山事件への反対

辺境の吏が「西戎の部将・嵬名山が横山の衆を率いて諒祚に取って代わり降伏したい」と上言したため、詔で辺臣にその衆を招納させようとした。司馬光は「嵬名山の衆が本当に諒祚を制せるとは限らない。仮に勝っても一諒祚を滅ぼして一諒祚を生むだけで何の利があろうか。もし敗れれば衆を我が方に引き連れてくるだろうが、朝廷はこれをどう扱うのか。諒祚に対する信義を失うだけでなく、嵬名山に対しても信義を失うことになる。もし嵬名山の残兵が北に戻れず南にも受け入れられなければ辺城を襲って命を救おうとするだろう、陛下は侯景の故事をご存じないのか」と強く反対したが聞き入れられず、种諤を派遣して迎え入れ、綏州を得るのに60万を費やした。西方での用兵はこれより始まった。

郊賚辞退を巡る王安石との理財論争

執政が「河朔の災害で国用不足のため、今年の親郊で両府は金帛を受け取らず学士院に取旨させたい」と願い出た。司馬光は「両府の賜物は匹両で計算しても2万に満たず災害の救済には足りない、皆半減すべき」と述べた。司馬光は学士の王珪・王安石と共に対面し、「災害の救済・節用は貴近から始めるべき」と述べ両府の賜物辞退が認められた。王安石は「常袞が賜饌を辞退したのは自らの能力不足を悟って位を辞したのであって禄を辞したのではない、しかも国用不足は今の急務ではない」と述べたが、司馬光は「常袞が禄を辞退したのは、禄位に恋々とする者よりましだ。国用不足こそ真の急務だ」と反論した。王安石が「不足なのは善く財を理める者がいないからだ」と言うと、司馬光は「善く財を理める者といっても頭数を数えて箕で掃うように民財を尽くすだけのこと、民が困窮して盗になるのは国の福ではない」と答えた。王安石は「そうではない、善く財を理める者は賦を増やさずとも上の用は足りる」と反論し、司馬光は「そんな理屈があろうか、天地が生む財貨は数が決まっており、民になければ官にある。沢に例えれば夏に潦れば秋には旱がある。賦を増やさずして用が足りるというのは、法を設けて陰に民の利を奪うにすぎず、その害は賦を増やすより甚だしい。これは桑弘羊が漢の武帝を欺いた言葉であり、太史公はこれを武帝の不明を示すために書き記したのだ。武帝の晩年、盗賊が蜂起し国はほぼ乱れた。もし武帝が禍を悔いず昭帝が法を変えなければ漢はほぼ滅んでいただろう」と論じた。王珪が「災害の救済・節用は貴近から始めるべきという司馬光の言は正しいが、費用はわずかでかえって国体を損なう恐れがある、安石の言も一理あるので明主の裁断を願う」と取り成すと、神宗は「朕の考えは光と同じだが、まだ許可せぬ形で返答しよう」と述べた。(日録によれば、司馬光は「今回、両府の郊賚を辞退したところで国が富むわけではない、これを陛下が省費を始める契機とされたいだけだ、陛下が強いて省費を命じれば体裁を損なうが、大臣自ら河北の災害を憂え体を国に捧げて省費を求めるならその美を成すだけで、何の問題があろうか」と述べたという。)

制置三司条例司設置への反対と青苗論

王安石が制置三司条例司を創設し青苗・助役・水利・均輸の政を建て提挙官40余員を置いた際、司馬光は上疏してその利害を予め論じ、後にはことごとくその通りとなり、天下は「真の宰相」と司馬光を称え、田父野老までもが「司馬相公」と呼び、婦人子供までその名を知った。邇英閣で蕭何・曹参の故事を進講した際、司馬光は「曹参が蕭何の法を変えなかったから守成の道を得た、それゆえ孝恵帝・高后の代は天下が安らかで衣食が増えた」と述べた。神宗が「漢は常に蕭何の法を守って変えなかったのか」と問うと、司馬光は「漢に限らず、三代の君主が禹湯文武の法を常に守れば今も存続していたでしょう。武王は殷を克服した際『商の政に反して政を旧に由らしむ』と言いましたが、これは周でさえ商の政を用いたということです。書経にも『聡明を作して旧章を乱すなかれ』とあります。漢の武帝は張湯の言を用いて高帝の法を紛更したため盗賊が天下の半ばに及び、元帝が宣帝の政を改めたことで漢は衰え始めました。これらから見て祖宗の法は変えるべきではありません」と答えた。数日後、呂惠卿が進講の際、「先王の法には1年ごとに変えるもの(正月に法を布告する類)、5年ごとに変えるもの(巡狩考制度の類)、30年ごとに変えるもの(刑罰の軽重)、百年変わらぬもの(父慈子孝兄友弟恭)があります。先日の司馬光の言は正しくなく、朝廷を諷し、私を条例司の官と譏ったものでしょう」と述べた。神宗が司馬光に「惠卿の言をどう思うか」と問うと、司馬光は「法を布告することの何が『変』と言えるのか。もし4孟月の朔に民に法を読ませることが時ごと月ごとの変化だと言うなら、諸侯が礼楽を変えれば天子は巡狩してこれを誅する、王自身が変えることはない。刑を新国には軽く、乱国には重く、平国には中庸に定めるのは『世々軽重す』というだけで変ではない。天下を治めることは家を治めるようなもの、弊れれば修繕するが、大破しない限り建て直さない。大破して建て直すには良匠と良材が要る、今この両方がない。臣は風雨に耐えられないのではと恐れます。公卿侍従が揃っているのでお尋ねください。三司使は天下の財を掌り、無能なら罷免すればよいのに両府がその職務を侵すべきでしょうか。今の制置三司条例司とは何なのか。宰相は道をもって人主を輔けるものなのに、なぜ『例』などという言葉を使うのか。例によるなら胥吏で十分ではないか。今また『看詳中書条例司』とは何なのか」と述べた。呂惠卿は答えられず、司馬光を「侍従でありながらなぜ黙って何も言わないのか、言っても従われないならなぜ去らないのか」と詰った。司馬光は「それは私の罪です」と答えると、神宗が「是非を論じているだけだ、なぜそこまで言うのか」と取り成した。講義が終わり座を賜り、殿外に控えていたが神宗は室内に招き、左右を退けて「朝廷が一つの事を改めるたびに全朝が騒ぐのはなぜか」と問うた。司馬光は「青苗が利息を生み平民に貸し与えれば、それだけで貧民を蚕食し飢寒流離に至らせる、まして県官の法令の威圧の下ではなおさらだ」と答えた。呂惠卿が「青苗法は望む者に貸すだけで強制していない」と言うと、司馬光は「愚民は借財の利は知っても返済の害は知らない、県官が強制せずとも富民も強制しない。私は『法を涼しく作ればその弊は貪に至る、貪をもって作ればその弊は如何ばかりか』と聞く。かつて太宗が河東を平定した際、和糴法を立て米一斗10余銭、草一束8銭とし、民は喜んで官と取引した。しかし後に物価が上がっても和糴の額が減らず、河東の民の永年の患いとなった。今の青苗もかつての和糴と同じ轍を踏むのではないか」と述べた。神宗が「陝西では久しく行われて民は病んでいないという」と言うと、司馬光は「臣は陝西の人間です、その病を見て利を見たことはありません。朝廷は初めこれを許していなかったのに、有司でさえ民を病ませることができるのですから、法として許せばなおさらでしょう」と答えた。神宗が「坐倉糴米はどうか」と問うと、座の全員が「不便です」と答え、神宗は既に罷めていたことを喜んだが、実は罷めていなかった。司馬光は「京師には7年分の備蓄があるが銭は常に不足している、坐倉すればますます銭が乏しくなり米も陳腐化するのではないか」と述べた。呂惠卿が「坐倉で米100万斛を得れば東南の漕運100万を省ける、その銭で京師に供給すれば銭に困らない」と言うと、司馬光は「東南は銭が乏しく米は余っている、今米を糴わずに銭を漕運し、あるものを棄てて無いものを取れば農末ともに病むことになる」と反論した。侍講の呉申が「司馬光の言は至論です」と立ち上がると、司馬光は「これらは些事にすぎない、人主はただ人を選んで任せ、功あれば賞し罪あれば罰するのが職務です」と述べ、神宗は「その通りだ」と答えた。

讒言論・呂公著・王安石評

邇英閣で通鑑の講読中、賈山の上疏に及び諫を聞き入れる美と拒む禍を論じた。神宗が「舜は讒説殄行を憎んだ、台諫の欺罔は讒に当たるのではないか、退けるべきでは」と述べると、司馬光は「進講に関わることなので、今この場での議論は控えます」と答えた。退出後、神宗は司馬光を留め「呂公著が『藩鎮が晋陽の甲を興そうとしている』と語ったのは讒説殄行ではないか」と問うと、司馬光は「呂公著は普段は同僚と語る際も三思して発言する人物、なぜ上前でそのように軽々しく言うでしょうか、外聞ではそう思われていないようです」と答えた。神宗が「これがいわゆる『静言庸違』というものだ」と言うと、司馬光は「呂公著に罪があるとしても今日の話ではありません。以前、朝廷が公著に台官の推薦を任せた際、公著は条例司の人ばかりを推薦し条例司と表裏一体化させ勢力を拡大させました、それが公議に迫られて改めてその非を言ったことこそ責められるべきです」と述べた。神宗が「王安石は官職を好まず自奉も薄い、賢者と言えるだろう」と言うと、司馬光は「安石は確かに賢者ですが性格が事情に通じず頑迷なのが短所です。また呂惠卿を信任すべきではありません、惠卿は真の奸邪であり安石の謀主です、安石はこれに従って力行するため天下は安石をも奸邪と見なすのです」と述べた。神宗が「今、天下が騒然としているのは孫叔敖の言う『国是に衆の悪む所あり』ということか」と問うと、司馬光は「その通りです、陛下はその是非を審らかにしてから決すべきです。今の条例司の所業は安石・韓絳・惠卿だけが是とし、天下は皆非としています。陛下はこの3人とだけ共に天下を治めることができましょうか」と述べ、退出した。

陳升之宰相評、閩人楚人論、呂惠卿評

神宗から陳升之の宰相登用について外の評判を問われた際、司馬光は「陛下が宰相を登用されたことに愚臣が口出しすべきでは」と答えたが、重ねて問われると「閩人は狡険、楚人は軽易と言われます。今、宰相2人はともに閩人、参政2人はともに楚人です。必ず郷党の士を引き立て朝廷を埋め尽くすでしょう、天下の風俗はどうして淳厚に戻れましょうか」と述べた。神宗が「今、内外の大臣で他に使える者がいない、升之だけが才智に優れ民政・辺事に通じ他の追随を許さない」と言うと、司馬光は「升之の才智は仰る通りですが、大節に臨んでも動じない人物かは疑問です。かつて漢の高祖は宰相を論じて『王陵は少し愚直だが陳平が輔ければよい、平は智に余りあるが独りに任せるのは難しい』と言いました。真宗が丁謂・王欽若を用いた際も馬知節に監督させました。才智ある者には必ず忠直の人を傍らに置いて制するのが明主の用人術です」と答えた。神宗は「その通りだ、升之には既に戒めてある」と応じ、「王安石はどうか」とも問うた。司馬光は「安石を姦邪と言う者はやや言い過ぎです、事情に通じず頑迷なだけです」と答えた。神宗が「韓琦は事に敢えて当たり富弼より賢いが木強(頑固)だ」と言うと、司馬光は「琦は確かに国家への忠がありますが、非を改めないのが短所です」と答えた。呂惠卿についても問われ、司馬光は「惠卿は憸巧(狡猾)で佳士ではありません、安石が中外から謗られるのは惠卿のせいです、近ごろの不次の登用は衆心にひどく反しています」と答えた。神宗が「惠卿は弁が明晰でよい才のようだが」と言うと、司馬光は「惠卿の文学・弁才は仰る通りですが心が正しくありません、江充や李訓もそうでしたが、才がなければ人主を動かせません」と答えた。台諫について「天子の耳目」と論じた際、司馬光は「陛下自ら人を選ぶべきです、今、執政の長短を論じる者を皆斥逐し執政の党類に入れ替えれば、陛下の聡明が蔽われる恐れがあります」と述べた。神宗が「諫官は得難い、卿がまた人選せよ」と命じ、司馬光は陳薦・蘇軾・王元規・趙彦若を推挙した。

蘇秦論

邇英閣で通鑑の講読が3葉終わり、さらに1葉半読ませたところ蘇秦が六国合従を約す件に至った。神宗が「蘇秦・張儀は三寸の舌だけでこれほどのことができたのか」と問うと、司馬光は「臣がこの事を書に残したのは、当時の風俗が専ら弁説を高しとしたことを示すためです。人君が国を委ねてこれに従うのは『利口国家を覆す』というべきです」と答えた。神宗が「卿の進講は常に規諫を含んでいる」と言うと、司馬光は「そのつもりはなく、著述の本意を陳べているだけです」と答えた。

契丹での評判

呂晦叔(呂公著)によれば、契丹への使いの際、契丹側の接伴が副使の狄諮に「司馬中丞は今何の官か」と問い、狄諮が「今は翰林兼侍読です」と答えると、契丹側は「中丞ではないのか、忠実誠実な人物と聞いている」と述べたという。

迂闊評

神宗が呂晦叔に「司馬光は方正な人物だが迂闊なのはどうしたものか」と言うと、呂晦叔は「孔子は上聖でしたが子路にも迂と評されました。孟軻は大賢ですが当時の人にも迂闊と評されました、光がこの評を免れないのも当然でしょう。おおよそ事を深く遠く慮る者は迂に近く見えるものです、陛下にはさらに深くご観察いただきたい」と答えた。

青苗法反対と枢密副使辞退

韓琦が青苗の害を上疏すると、神宗は感悟しこの法を罷めようとした。王安石は病と称して辞任を求めた。その頃、司馬光は枢密副使を拝命したが、6、7度上章して固辞し「陛下が真に制置条例司を罷め提挙官を召還し青苗・助役等の法を行わなければ、たとえ臣を用いずとも臣は十分に恩恵を受けたことになります。そうでなければ最後まで命を受けません」と述べた。神宗が使者を遣わし「枢密は兵事を掌る職、官には各々職分がある、他事を理由に辞退すべきでない」と諭させたが、司馬光は「臣がまだ命を受けていない以上、なお待従の身、事について発言することに支障はありません」と答えた。王安石が復職すると青苗法は結局罷められず、司馬光も結局枢密の命を受けなかった。書を送って王安石を諭し、3度の往復で切実に説いたが、王安石は聞き入れなかった。司馬光は「巧言令色は仁少なし、忠信の士は公と道を共にする間は齟齬して憎まれることもあろうが、後には必ずその助けとなる。諂諛の徒は今こそ順応して快いだろうが、いったん勢いを失えば必ず公を売って自らの利を図るだろう」と述べ、暗に呂惠卿を指した。呂惠卿は客の前でこれを指し「王氏を覆すのは必ず惠卿である」とまで語っていた。小人はもとより利で結びつく、勢いが傾けば利も移りどこまでも変わりうる。6年後、果たして呂惠卿は王安石を裏切り、天下は司馬光の先見に服した。

韓琦との書簡

韓魏公(韓琦)によれば、司馬光が枢密副使に任じられて固辞した際、韓琦は魏(大名府)にいてこれを聞き、急いで潞公(文彦博)に書を送り「主上は光を厚く重んじている、道を行える見込みがあれば行い、行えなければ去ればよい、そこまで固く辞退する必要はない」と勧めさせた。潞公はこの書を司馬光に示したが、司馬光は「昔からこの手の官爵に引かれて名節を損なった者は少なくない」と答えた。後に韓琦(寛夫)からの書に「君実の行いは今の人には及びもつかない、昔の人に求めるべきものだ」とあった。(魏公語録)

王安石評(元城語録)

先生(劉安世)がかつて金陵(王安石)に「新法を行うのに一群の小人を用いて清要や監司に置くのはなぜか」と問うと、王安石は「法を初めて行う際は旧来の人が進んで従おうとしないため、才力ある者を一時的に用いて法を成立させ、法が定着すれば彼らを退け老成な者に守らせる、いわゆる『智者これを行い仁者これを守る』というものだ」と答えた。先生は「安石は誤っている、君子は進みにくく退きやすいが、小人は逆だ。ひとたび小人が権を得れば容易には去らせられない、必ず後日の仇敵となる」と述べたが、王安石は黙り込むだけだった。後に果たして王安石を裏切る者が出て、悔いても及ばなかった。(元城語録)

熙寧七年の旱蝗と六事の建言

熙寧7年、天下の旱蝗により求直言の詔が下った際、司馬光はこの詔を読んで涙し、黙っていられず6事を陳べた。青苗・免役・市易・辺事・保甲・水利のうち、特に民を害するものを先に罷めるべきとし、また宰相の呉充に書を送り「天子はこれほど仁聖なのに、あなたが何も言わないのはなぜか」と責めた。

契丹での評判(二)

潞公(文彦博)が司馬光に語ったところによれば、彦博が北京留守の頃、遣わした者が大遼に潜入して見聞した際、遼主が群臣・伶人と大宴を催し、衣冠を着た芸人が物を見れば懐に入れる劇を演じ、従者が鞭で打って「司馬端明(司馬光)ではないか」と言ったという。司馬光の清名が異民族の間にまで及んでいるのを聞き、潞公は感嘆し司馬光は恥じて謝した。

邵康節との対話

司馬光がかつて邵康節に「光はどのような人間か」と問うと、康節は「君実は脚が実地を踏む人だ」と答えた。司馬光はこれを深く得た言葉と評した。康節はまた「君実は9分の人だ」とも評し、これほど重んじていた。

洛陽での逸話

洛陽にいた頃、范景仁(范鎮)と共に嵩山の頂に登り轘轅道から龍門に至り伊水を渡って香山に憩い、石楼から八節灘を望んだ。この旅程で多くの詩を作り、自ら「遊山録」と序して士大夫が争って伝写した。輿に乗ることを好まず山中でも馬に乗り、険しい道では杖をついて歩いた。嵩山の題字に「山に登るに道あり、徐行すれば困しまず、足を平穏な地に置けば躓かず、慎むべし」と記した。

永興軍知事としての上章

永興軍知事のとき上章し「臣の不才は群臣の中で最も劣ります。先見は呂誨に及ばず、公直は范純仁・程顥の敢言に及ばず、勇決は范鎮に及びません。もし臣の罪が范鎮と同じなら范鎮の例に倣い致仕を願います。それより重ければ流罪でも誅罰でも甘んじて受けます」と述べた。神宗はどうしても司馬光を用いたく、召して許州を経由して参内させようとし、監察御史の程顥に「光は来るだろうか」と問うと、程顥は「陛下がその言を用いられるなら光は必ず来ます、用いられないなら来ないでしょう」と答えた。神宗は「その言を用いるかはさておき、光のような人が常に側にいれば過ちを防げるはずだ」と述べた。しかし司馬光は召命を辞退した。神宗はかつて左丞の蒲宗孟に「光について他のことはさておき、枢密の一件を辞退したことだけを見ても、朕が即位以来これほどの人物は他に見ない」と語った。神宗の司馬光への礼遇は変わらなかったが、司馬光は新法が罷められない限り道義上出仕できないと考えていた。元豊の官制が定まった際、神宗は「新旧の人を両方用いたい、御史大夫は光でなければ務まらない」と述べたが、蔡確が「国是が定まったばかりなのでしばらく待たれよ」と進言し、王珪もこれに同調した。元豊7年秋、『資治通鑑』が完成し進呈されると、司馬光は資政殿学士を拝し、両府に準じる帯を賜り、修書官も昇格し、范祖禹と司馬光の子の司馬康も館職に召された。神宗は病から回復した際、宰輔に「来春、儲君(皇太子)を立てる際は司馬光・呂公著を師保としたい」と語った。神宗の司馬光への信頼はこれほど深かった。(聞見録)

神宗崩御後の建言

神宗が崩じると司馬光は闕庭に赴いたが、衛士は司馬光を見ると額に手を当てて「これが司馬相公だ」と言い、民は道を塞いで「あなたは洛陽に帰らないでください、宰相として天子を輔け百姓を活かしてください」と叫び、数千人が集まって見物した。司馬光は恐れて辞謝の会を求めそのまま洛陽に帰ろうとしたが、太皇太后がこれを聞いて使者を遣わし尋ねさせた。司馬光は「近年、士大夫は言うことを避け、民衆は下で苦しみながら上にそれが伝わらず、明主は上で憂え勤めても下からの訴えが届かない。その責任は群臣にあるのに愚民は先帝を怨んでいます、まず詔を発して言路を開くべきです」と述べ、これに従い詔が朝堂に掲げられた。しかし当時これを望まない者がいて、詔の文言に「もし密かに思うところを犯し、機事を動揺させ、既に行われた命令に迎合し、上は朝廷の意向を窺って僥倖に進もうとし、下は流俗を惑わせて虚誉を得ようとする者は、必ず罰して赦さない」との6事の禁が加えられた。太皇太后が詔草を封じて司馬光に問うと、司馬光は「これは諫を求めるものではなく諫を拒むものです。臣下はただ言わなければよいだけで、言えばこの6事のいずれかに触れてしまいます」と答えた。当時、詔に応じて言事し越権とされ銅を贖罪に納めた者がいたが、司馬光はその事情を詳しく論じ詔書の改訂を請い、天下に行き渡らせた。これにより四方の吏民から新法の不便を訴える者が数千人に及んだ。司馬光がその対応策を起草している間に、太后はすでに京城の巡邏の兵卒を解散させ、皇城内の密偵を減らし、御前工作を罷め、近侍の不良者3千余人を退け、中外に苛政・暴斂を戒め、導洛司の物貨場を廃し、民間の戸馬・保馬の期限を緩めるなど、大臣を経ず宮中から次々と命じていた。司馬光は「陛下が既に急務の多くを略行された、臣は遅れて怠慢の罪万死に値します」と謝した。

新法の廃止(門下侍郎として)

門下侍郎を拝した頃、元豊末の混乱が続き二聖(哲宗・太皇太后)が即位したばかりで民は日夜新政を待望していたが、進言する者は「3年は父の道を改めるべきでない」として重要な事は数事を挙げるだけで人々の声を塞ごうとした。司馬光は慨然と争い「先帝の法の善いものは百世変えなくてよいが、王安石・呂惠卿らが立てた天下に害あるもので先帝の本意でないものは、焼けた火を消し溺れる者を救うように改めねばならない、間に合わないことすら恐れるべきだ。まして太皇太后が母として子の政を改めるのであって、子が父の政を改めるのとは違う」と論じ、衆議はこれに定まった。保甲の団教を罷め義勇法により毎年1度の閲兵とし、保馬法は復活させず既にある馬は監牧に返し諸軍に給し、市易法を廃してその備蓄品を利息を取らずに売却し、民の負債の利息も除いた。京東の鋳鉄銭、河北・江西・福建・湖南の塩法、福建の茶法はいずれも旧に復した。ただ川陝の茶は辺境の財源として存続させ、使者を派遣して甚だしいものだけを除かせた。戸部左右曹が銭穀を管轄し、旧三司の事務を五曹・寺監に分散していたものを戸部に統合し、尚書がその数量を把握して量入為出(収入に応じて支出を決める)とした。元祐元年正月、司馬光が病を得ると、詔で司馬光と尚書左丞の呂公著は朝会で執政と別班とし、再拝のみで舞蹈の礼を免じた。病が重くなると「4患がまだ除かれていない、死んでも瞑目できない」と嘆き、免役法の5害を論じて勅を下して罷め、熙寧以前の法に戻すよう疏を上げた。不便な点があれば州県・監司・節級に報告させ一路一州一県ごとに対応する法を求め、詔でこれを即日実施させた。また西戎の大略を論じ「和戎が便利で用兵は失策」とし、多くの異論の中で文彦博の議だけが司馬光に一致し衆はこれを覆せなかった。詔で諸将は皆州県の軍政に属させ、守令にこれを統轄させることとなった。

十科挙人法

文学・徳行・吏事・武略等を十科に分け、天下の遺材を求めるよう奏上し、文臣で朝に升った以上の者に毎年1名、経明行脩の士を進士高等に准じて挙げさせる法が定められた。

断死刑数の激減

元祐初、司馬光が政を輔けたこの年、天下の死刑判決は千人であったが、その後呂大防・呂公著が継いだ時期には数倍に及んだという。これは智力だけで測れるものではない。

朋党の禍への懸念に対する応答

新法を改めた後、ある人が「元豊の旧臣、章惇・呂惠卿らは皆小人であり、いずれ父子の義を持ち出して陛下を離間させれば朋党の禍が起こる、恐れねばならない」と司馬光に言った。司馬光は正色して「天がもし宋を助けるなら、そのようなことは起こらない」と述べ、改革を疑わず進めた。

学問と清廉

学を好むこと飢渇に飲食を求めるようであり、財利や紛華を悪臭のように嫌った。誠心が自然に表れ、天下はこれを信じた。洛陽に退居して以後、往来する陝洛の人々はその徳に感化されその学を師とし、その倹約に倣った。不善を為す者は「君実はこれを知らないだろうか」と自省したという。博学で音楽・律暦・天文・書数のいずれにも精通し、晩年は特に礼を好み、冠婚喪祭の法を古今に適するよう定めた。仏老を好まず「その微言は私の書を出ない、その荒唐な部分は信じない」と述べた。生業を営まず洛陽に僅かに風雨を凌ぐ邸と田3頃を持つのみで、日夜庶務に自ら当たった。

兄司馬旦との友愛

兄の伯康(司馬旦)との友愛は特に篤く、伯康が80近くなると司馬光は厳父のように敬い嬰児のように保護した。食事の折には「お腹は空いていないか」と問い、寒くなれば背をさすって「衣は薄くないか」と気遣った。(范大史集)

晁無咎の評

晁無咎(晁補之)によれば、司馬光はかつて「私は人より優れたところはない、ただ生涯、人に語れないようなことをしたことがないだけだ」と語ったという。

資治通鑑編纂の経緯

歴代史書の煩雑さに悩み、学者はもとより人主にも通読が困難と考え、戦国から秦二世までを左氏の体裁でまとめた『通志』8巻を英宗に進めたところ喜ばれ、秘閣に局を置いて劉攽・劉恕・范祖禹を属官とし編纂を進めた。神宗は特にこの書を重んじ荀悦に勝ると評し、自ら序を製し『資治通鑑』の名を賜り、潁邸の旧書2404巻を下賜した。書が完成すると資政殿学士を拝し金帛を賜った。

契丹・西夏での評判(三)

遼・夏の使者が入朝する際や、宋の使者が彼の地に赴いた際、必ず司馬光の消息と宰相就任の有無を問うた。遼人は辺境の吏に「中国の宰相は司馬(光)になった、決して事を起こしてはならない」と命じたという。

程頤との交流

先生(程頤)は君実(司馬光)と語るとき決して安易に流されなかった。范堯夫(范純仁)と10の議論をすれば3、4しか一致しないことがあったが、先生は「君実はあらゆる人の言葉を受け止め、逆らわれても怒らないのがよいところだ」と評した。(程氏遺書)

蘇軾撰の神道碑銘

蘇内翰(蘇軾)が撰した神道碑銘には、「上帝は我が民を恵む、誰かこれに耐えようか。天はただ聖と仁のみ。聖子(哲宗)が受命することは堯の初めのごとし。聖母(太皇太后)がこれを詔すること、急がず緩まず。聖神に私心なし、誰がこれを補佐するのか。民自ら宰相を選び、これを我らに授けた。その宰相とは誰か、太師温公である。公は西から来て、一馬二童子、万人がこれを取り巻き渇して泉に赴くがごとし。誰が公を見ないことがあろうか、我より先はない。二聖は自らを忘れ公だけを模範とし、公もまた自らを顧みず民だけを思う。民は言う、楽しいかな、既に司馬が宰相となれば、あなたは道で商い、私は野で耕そう。士は言う、時なるかな、既に君実が用いられれば、私は後、あなたは先。時を失うべからず。公は麒麟鳳凰のごとく猛からず攫まず、羽毛はすべて朝廷にあり、雄狡な者もみな服従した。政を為すこと1年、病は半ばに及んだが、その功は多大であった。百年の思いは、公を異なる時に知り、公を微かなうちに知った。公への思いにあらず、神考(神宗)を懐うのだ。天子万年、四夷来同す。清廟に薦められるのは、神考の功である」とある。