宋名臣言行錄後集卷十六 王安石

王安石(荊国文公)。字は介甫、撫州の人。進士甲科に登第し、仁宗・英宗・神宗に仕えて丞相・左僕射・司空に至り、没後舒王に追封された。神宗の信任を得て青苗・市易・保甲など新法を推進し「風俗を変え法度を立てる」ことを掲げたが、実施の弊害が広がり、鄭俠の上書を機に一時辞任、のち再任するも子・王雱の死などを経て鍾山に隠棲した。強い意志と学識で知られる一方、晩年は新法の弊害を悔いる言葉も残した。

年表(11件)
  • 皇祐年間文彦博が「恬退」を理由に不次の登用を薦めるが応じない
  • 至和年間館職の試に召されても固辞する
  • 嘉祐年間館職・三司度支判官への召還を固辞し続け、のち知制誥を受けて以後官を辞さなくなる
  • 嘉祐末京師の刑獄で鬥鶉事件を裁き、少年を死罪から救う判断を下す
  • 熙寧初年鄞県での治績を基に青苗など新法を全国に広げるが弊害が広がる
  • 熙寧庚戌年冬宰相を拝すが誰にも会わず、鍾山への隠棲を望む詩を窓に書きつける
  • 元豊癸丑年春金陵に隠棲中、旧知と鍾山に同遊し昔を語る
  • 元豊七年春病を得て二日間言葉を失い、回復後に無常を語り、新法への後悔も口にする
  • 元豊末戸馬の説を創案し、神宗が文彦博への慚愧を語る
  • 熙寧六年新法への民の怨嗟をめぐり神宗と意見が対立し、辞意を示す
  • 熙寧七年三月二十六日鄭俠が流民の惨状を図に描いて上書し、王安石は辞任を決意する

出自と生い立ち

王安石、荊国文公。字は介甫。撫州の人。進士甲科に登第し、仁宗・英宗・神宗に仕えて丞相・左僕射・司空に至り、没後舒王に追封された。読書を好み記憶力に優れ、一読すれば生涯忘れず、文を書けば筆が飛ぶように速く、精妙な文章に人々は服した。議論は高奇で弁が立った。若い頃は仕進を急がず、皇祐年間、宰相の文彦博が王安石・張瓌・曽公亮・韓維の4人を「恬退(謙虚に退く姿勢)」を理由に不次に登用するよう朝廷に薦めたが、王安石はこれに応じなかった。至和年間、館職の試に召されても固辞し、群牧判官に任じられてもまた辞退したが許されず就任、その後外任を求めて常州知事となった。これにより名声は天下に重んじられ、士大夫は面識を得られぬことを恨むほどとなった。朝廷が美官を授けようとしても受けぬことを恐れるほどであった。常州から江西刑獄提点に転じ、嘉祐年間に館職・三司度支判官に召されても固辞し、まもなく起居注の修撰を命じられたがこれも辞し、10余の章を上げて拒み続けた。閣門吏が勅を持って三司で授けようとしても受けず厠に隠れる逸話もあったが、朝廷は結局その意志を曲げさせられず、1年余り後に再度の命でようやく知制誥を受け、以後は官を辞さなくなった。(司馬光の語)

司馬光との酒席の逸話

司馬光がかつて語ったところによれば、群牧司判官として王安石と同僚だった頃、包拯(包孝粛)が使であった。ある日、群牧司の牡丹が満開となり包拯が酒宴を催した際、酒を勧められて司馬光は不本意ながら飲んだが、王安石は終始飲まず、包拯も強いることができなかった。司馬光はこれにより王安石の不屈の性格を知った。

鬥鶉事件の裁定

嘉祐末、京師の刑獄を紏察していた際、鶉を持ち去られた少年が持ち主を殴打して死なせた事件があった。開封府はこの少年を死罪に処そうとしたが、王安石は「律では公然・窃取いずれも盗である。持ち主が渡さないものを強引に持ち去ったのは盗であり、追いかけて殴打したのは捕盗である。死罪には当たらない」と駁した。府司はこれを不服とし審刑院・大理寺に諮ったところ、王安石の判断が正しいとされた。旧制では罪を免れた者は殿門で謝罪するものであったが、王安石は「私に罪はない」として謝罪せず、御史台・閣門から催促されても最後まで応じなかった。

釣餌をめぐる仁宗の疑念

知制誥のとき、賞花釣魚の宴で内侍が金楪に釣餌の薬を盛って机上に置いたところ、王安石はこれをすべて食べてしまった。翌日、仁宗は宰輔に「王安石は偽る人物だ。誤って一粒食べたのなら分かるが、すべて食べたのは不自然だ」と述べ、不快に思った。後に王安石は自著『日録』で祖宗、特に仁宗を軽んじ、「漢の文帝は取るに足らない」とまで述べたが、これは仁宗を軽視する心の表れであり、当時の大臣である富弼・韓琦・文彦博も同様に誹謗されている。

韓琦との確執

かつて韓魏公(韓琦)が揚州知事のとき、新進士だった王安石は判官事を書記していたが、韓琦はその学識は重んじつつ吏事の才は認めなかった。任期満了後、韓琦への上書に多く古字を用いる者がいたのを見て、韓琦が僚属に「王廷評(王安石)がいれば」と冗談を言ったところ、王安石はこれを軽んじられたと受け取り、以後韓琦を恨んだ。

神宗との対話(治世の要)

翰林学士として初めて対面した際、神宗が「今の治世は何を先にすべきか」と問うと、王安石は「術を択ぶことが先」と答え、唐太宗についての問いには「陛下は堯舜を法とすべきです。太宗の知るところは浅く、行いも先王に十分に合っておらず、語るに足りません。堯舜の道は至簡至要至易ですが、末世の学者は高くて及ばぬものと考えがちです」と答えた。神宗は「卿は君に難事を求めるものだ、朕は自分が至らぬと思うが、力を尽くして輔けてほしい」と応じた。また諸葛亮・魏鄭公(魏徴)に話が及んだ際、王安石は「陛下が真に堯舜たり得れば必ず皋・夔・稷・契のような臣が現れます。陛下が真に高宗たり得れば必ず傅説のような臣が現れます。魏徴や諸葛亮は道を有する者から見れば恥じるべき程度の人物にすぎません。ただ陛下が術を選ぶことが明らかでなく誠を推す心が至らなければ、皋・夔・稷・契の賢がいても小人に蔽われ、巻いて去るでしょう」と答えた。神宗が「古来、朝廷に小人がいない治世はない、堯舜の時代にも四凶があった」と言うと、王安石は「四凶を見分けて誅することこそ堯舜たる所以です」と答えた。まもなく参知政事となった。

経術と世務、変風俗立法度

参知政事となった王安石に、神宗が「人は皆、卿を経術のみに通じ世務を知らぬと言うが」と問うと、王安石は「経術こそ世務を経営するためのものです。ただ後世の経術者に凡庸な者が多いため、経術は世務に用いられないと世俗は考えているだけです」と答えた。神宗が「では何を先に施すべきか」と問うと、王安石は「風俗を変え法度を立てることが今最も急務です」と答え、これにより青苗・市易・坊場・保甲・保馬・導洛・免役の諸政が相次いで興り、制置三司条例司が設けられ知枢密院事の陳升之と共に管掌した。呂誨が王安石を10事にわたり弾劾すると王安石は辞任を強く求め、神宗は呂誨を退けた。韓魏公も青苗法の廃止と諸路提挙官の罷免を上疏したため、王安石は病と称して分司を願い出たが許されず、参内した際に「陛下は先王の正道で天下の流俗を変えようとされているため、天下の流俗と権を争う形になっています。流俗の権が重ければ天下の人は流俗に帰し、陛下の権が重ければ天下の人は陛下に帰します。今、姦人が先王の正道を敗ろうとして陛下の事業を妨げようとしており、この争いに僅かな力を加えれば天下の権はたちまち流俗に帰してしまいます」と述べ、神宗はこれに同意し、王安石は政務に復帰した。

唐の諫官制度への提案

台閣侍従の頃、王安石は常々「唐の太宗が諫官を宰相と共に入閤させたことは治道に最も切実で、後世も行うべき」と語っていたが、いざ執政となると、孫莘老(孫覚)・李公択がこの持論を実行に移そうと奏請すると、王安石は「それでは参政をもう2人増やすようなものだ」として反対した。(呂氏家塾記)

妾を返した善行と司馬光の逸話

知制誥のとき、妻の呉夫人が買い与えた妾を見て「何者か」と問うと、「あなた様にお仕えするために」と言われ、素性を尋ねると「夫が軍の大将で米の輸送中に船を失い家財をすべて失い、それでも足りず私を売った」との答えだった。王安石は表情を曇らせ「いくらで買われたのか」と問い、「90万」と聞くと、その夫を呼んで夫婦を元通りにさせ、金をすべて夫に与えた。同様に、司馬光も龐穎公(龐籍)に招かれ太原府通判となった頃まだ子がなく、夫人が妾を買い与えたが全く相手にしなかった。夫人は忌避されていると思い、妾に自ら装って書院に現れるよう教えたが、司馬光は「夫人が出したのになぜここにいるのか」と驚き、すぐに送り返した。龐穎公はこれを知って僚属に司馬光の賢を称えた。両者とも声色を好まず官職を求めず貨利を殖やさず、生涯互いに交わりを深めたが、新法を巡っては意見が合わず、後に絶交するに至った。

鄞県での治績とその全国化の失敗

明州鄞県知事のとき、読書と文筆に励みつつ2日に1度県事を治め、堤堰を興し陂塘を修めて水陸の利を図り、民に穀を貸して息をつけて返させ、新旧を融通させた。学校を興し保伍の制を厳しくし、県民はこれを便利とした。熙寧初年の新法の多くはこの鄞県での経験に基づく。しかし一県で成功した法が天下全体に適するとは限らなかった。新法を実施する使者には刻薄な小人が多く登用され、河を決壊させて田としたり、人の墓や邸宅・肥沃な土地を破壊する被害は枚挙にいとまがなかった。青苗法は名目上2割の利息だが、民が実際に納める額はしばしば7、8割に及び、官吏の不正が新旧交錯して弊害を深めた。保甲・保馬はさらに害が大きく、天下が騒然として休まらなかった。祖宗の法はこうして一変してしまった。ただし役法(雇役・差役)は新旧いずれの案にも弊害があり、呉・蜀の民は雇役を便としたが、王安石も司馬光も早くに出世し州県を歴任していなかったため四方の風俗を十分知らず、王安石は雇役を、司馬光は差役を主張した。蘇内翰(蘇軾)・范忠宣(范純仁)ら司馬光門下は差役を不十分とし、章子厚(章惇)ら王安石門下は雇役を不十分とした。三者とも聡明で吏治に通じ南北の風俗を知る者であり、その論はいずれも私心なきものであった。元祐初、司馬光が差役に戻し雇役を改めようとした際、章惇は「保甲・保馬は1日でも早く罷めねば害が続くが、役法は熙寧初に雇役へ拙速に転じたため弊害が生じた。今また差役に戻すなら熟慮して行うべきで、5日の期限は拙速すぎる」と論じたが司馬光は聞き入れず、章惇は罪を得て去った。開封府知事の蔡京が5日の期限で畿県の雇役を差役に改め司馬光に報告すると、司馬光は喜んで「みなが待制(蔡京)のようなら法の実行を憂えることはない」と言った。後に章惇が宰相となり雇役への回帰を再議したが議論は決着せず、蔡京が「熙寧・元豊の法をそのまま用いればよい、なぜ議論するのか」と唆すと章惇はこれを信じて雇役を定めた。蔡京は前後で立場を翻し、司馬光ほどの賢者も章惇ほどの剛直な者も欺かれた、まさに小人であった。

晩年の悔恨と福建子

晩年、鍾山書院で「福建子」の3字を多く書いた。呂恵卿に陥れられたことを恨み、自らも呂恵卿に誤らされたことを悔いていたためである。山を歩くたびに恍惚として独り言を呟くことが多かった。病に伏した際、王安国の子の和甫が邸吏の報告を示すと、ちょうど司馬光の拝相の報だった。王安石は悵然として「司馬十二(司馬光)が宰相になったか」と呟いた。王安石が薨じたとき、病中の司馬光はこれを聞いて呂申公(呂公著)に簡を送り「介甫には他に問題はない、ただ執拗なだけだ。贈恤の典は厚くすべきだ」と述べた。司馬光の徳の大きさがうかがえる。

科挙改革への後悔

科挙を改めたことについて、晩年になって過ちに気づき「本来は学究を秀才に変えようとしたが、逆に秀才を学究に変えてしまった」と述べた。挙子が専ら王氏の章句を暗誦し義を理解しないさまは、学究が注疏を暗誦するのと同じであった。

免役法罷止を聞いての反応

金陵(鍾山)にあって朝廷が新法を変更したと聞いても泰然としていたが、役法(免役法)が罷められたと聞くと愕然として声を失い、「そこまで罷めるのか」と言った。しばらくして「この法は結局罷めることはできない、私は先帝と2年議論してから施行した、細部まで考え尽くしている」と述べ、後に果たしてその通りとなった。

曾布と司馬光への評

新法の議論において最初から最後まで一貫して「行える」と言い続けたのは曾布であり、最初から最後まで「行えない」と言い続けたのは司馬光であった、それ以外は前に反対し後で従うなど出入りが定まらなかったと語った。

変法の背景(元城語録より)

先生(劉安世)が語ったところによれば、神宗が変法を望んだ理由には次の事情がある。祖宗以来忠厚仁慈で天下を治めたが嘉祐末年には政事が緩んで振るわず、士大夫も文書で論列するほど自らこれを厭うていた。しかし実際には天下の根本は強固であった。神宗は即位時に若く天資抜群で読書も即座に理解し、蕃族の不服従や州県の緩みを目にするたび不快の色を見せた。当時の識者は「今の天下は富家に似て、屋宇・田園は堅固で財用も充足しているが、装飾や器物がやや粗末で僕妾も鈍重、隣家の侮りに時々物を贈って対処している状態が久しく続いている」と評し、法度の改革には消極的だった。ただ金陵(王安石)だけが上意を察して一身でこれを引き受け、激烈な言葉で神宗の心を動かし、仁宗の治世を「不治の朝」とみなし、神宗はこれを千載一遇の機会と捉えた。改革の初め、天下の公論は「流俗」と称され、太后も顧命大臣も動かせず、台諫はなおさら無力で、かえって王安石の勢いを増すのみであった。天下がこぞって攻めても王安石が動じなかったのは「虚名・実行・強弁・堅志」の8字による。虚名とは、政に就くのを渋る姿勢が名声となったこと。実行とは、平生の行いに一点の汚れもなく、誣告しても信じられなかったこと。強弁とは、上前で経史今古を貫き論じ、誰も論破できなかったこと。堅志とは、前代の大臣が生死禍福で脅しても動じなかった意志の強さのことである。この4つがあったからこそ新法は必ず行われたのである。

折二銭事件

王安石が京師にも陝西鋳造の折二銭を流通させようと請うたところ、宗室・諸軍から不満の声が上がった。神宗がこれを問うと、王安石は罷めることを勧められたと察して怒り「朝廷は事あるごとに浮言に動かされる、これでは何もできない」と述べ、病と称して閉じこもった。神宗が使者を遣わし「朕は卿と隔てを置いていない、天日に誓って明らかだ」と諭すと、ようやく出仕した。

新進の登用と呂惠卿との確執

天下の務めを刷新する中、宿徳の旧臣と議論が合わないことが多く、新進を選んで不次に登用したため一時政事は迅速に進んだが、両制・台閣・内外の要職はすべて新進で占められた。三司の市易法を巡る議論で参政の呂恵卿が「妨害している」と指摘したことを王安石は真に受け、辞意を固めた。呂嘉問・張諤が涙ながらに引き留めると、王安石は「すでに呂恵卿を推薦した」と慰めた。しかし呂恵卿が参政となると自分を凌ごうとする動きを見せ、当時の士人たちも呂恵卿の得意を見て次第にこれに付き従うようになった。その後神宗が意を決して王安石を再び宰相に召すと、呂恵卿は自らの立場の不安を悟り、王安石兄弟の過失を数事条陳して面奏し、王安石に不利な意図を示した。神宗は呂恵卿の言を封じて王安石に示したため、王安石は「忠が及ばぬために治を得られず、事あるごとに自ら弁明を求めねばならず、義が奸を制するに足らぬため、人ごとに敵対せざるを得ない」と表に述べたという。まもなく呂恵卿は亳州知事に出され、鄧綰・張諤らも罪により去ったが、以後門下の者たちの結束は固くなく、王安石は共に事を図る者を失い、再び辞意を示して金陵に鎮すこととなった。当時の詩に「紛紛易変浮雲白、落落難鍾老柏青」と詠まれたのはこのことを指す。

呂惠卿による讒言と王雱の死

かつて呂恵卿は王安石に見出され急速に執政まで引き立てられたが、王安石が退くと背いた。王安石が再び宰相になると、華亭の獄事が起こり徐禧らがこれを処理したが、呂恵卿の関与は明らかにならなかった。練亨甫・呂嘉問が鄧綰の条陳した呂惠卿の件を用いて互いを陥れ合い、王安石の子の王雱にまで累が及んだ。王雱は病中この憂憤により卒した。王安石は悲痛のあまり再び辞任を求めた。

鍾山への隠棲の意

熙寧庚戌年の冬、王安石が宰相を拝したとき百官が祝賀に訪れたが、まだ謝礼を済ませていないとして誰にも会わなかった。ただ一人、著者(李幼武の祖父ら)と西廡の小閣で座り、しばらく眉をひそめた後、筆を取り窓に「霜筠雪竹鍾山寺、投老帰欤寄此生」と書きつけ、筆を置いて挨拶して奥へ入った。後に宰相を再び罷めて金陵に帰り、白門外に邸を築いた。元豊癸丑年の春、著者が邸を訪ねると、王安石は誘って鍾山に同遊し法雲寺で休んだ。僧房で昔話をし、あの窓の詩を諳んじると、王安石は物思わしげに「そんなことがあったか」と微笑むのみであった。

元豊七年の病と葉濤への言葉

元豊7年春、病を得て2日間話せず、少し回復すると吳国夫人に「夫婦の情はたまたま出会っただけのこと、他の思いを持たずただ善を強めて生きてほしい」と語った。葉濤の手を取り「君は聡明だから広く仏書を読むべきだ、無駄に世間の言葉を作ってはいけない。私は生涯無駄な力を費やして閑文字を書いてきたことを深く悔いている」と言った。吳国夫人が「そんなことを言うべきではない」と諭すと、「生死は無常だ、時が来れば言葉も発せなくなると思うから今のうちに述べているのだ。時が来れば逝くまで、君の勧めなど要らない」と答えた。病が癒えると自ら「天下の理は知り尽くしても定力はなお浅い、まだ死ぬべきでないなら力を尽くして修めるべきだろう」と悔いた。これを聞いた陳子は「まさに無常の身が病に現れたということか」と疑ったが、疑うべきではない。

戸馬の説と文彦博への慚愧

元豊末、戸馬の説を創案したが、神宗は俯いて「これでは文彦博に慚愧するばかりだ」と嘆いた。王珪が宣徳の音を請うと、神宗は「文彦博はかつて国馬(官営馬政)を争って負けたとき『陛下は10年後に必ず私の言葉を思い出すだろう』と言ったものだ」と述べ、王珪が「祖宗の馬監を廃止したのは王安石が強く求めたもので、本来は陛下の意ではありませんでした」と奏すると、神宗は「安石は朕を誤らせた、これだけではあるまい」と嘆いた。

賜金と常例の露見

神宗は王安石の貧しさを聞き、中使の甘師顔に金50両を賜わせたが、王安石は詭激な行いを好むところがあり、この金をそのまま定林寺の僧舎に施した。師顔は常例(謝礼)を受け取れず戻って復奏した。神宗は御薬院に江寧府へ牒を送らせ、王安石家から師顔の常例を取り立てさせた。王安石は呂惠卿に「上に知られぬように」と一帖を送ったが、呂惠卿は既に王安石と党派を分かっていたため、その帖を神宗に上呈した。また神宗が熙河の歳費について王韶に問うた際、王安石は王韶に数を尽くさず答えるよう示唆していたが、王韶が離反すると安石のこの言葉も神宗に伝えられた。(晁以道、配享の劄を論ず)

熙河の役

仁宗朝、韓琦・富弼の2公が宰相のとき、辺境開拓の話は一切採用されなかった。熙寧初、王安石が執政となって開辺の議が起こり、新安簿を罷めた王韶が辺境を巡って献策し、河湟開拓の策を上疏した。王安石はこれを奇謀とし、熙河の役が始まった。しかし岷州の白石・大潭、秦州の属県以外には賦税がなく、他は米粟一斗・布一尺の産もなく、すべて陝西州郡と朝廷の帑蔵からの供給に頼るありさまで、熙河開拓以来、陝西の民は日々困窮し朝廷の財用もますます減耗した。もともと唃厮囉が諸子を熙河・洮・岷の地に分封していたが、唃厮囉の死後諸子が衰弱していたため王韶がこれを取れたにすぎなかった。(聞見録)

民の苦しみへの反応と登用策

熙寧6年、新法に従わない官吏がいたため王安石はこれを厳罰にしようとしたが、神宗は不可とした。王安石が「そうでなければ法が行われない」と争うと、神宗は「民間でも新法を苦しんでいると聞く」と述べた。王安石が「祁寒暑雨に民が怨嗟することは常のこと、気にする必要はありません」と答えると、神宗は「祁寒暑雨への怨嗟すら無くしたいものだ」と応じ、王安石は不快に思い退いて病と称し数日家に籠った。神宗が使者を遣わして慰労すると出仕したが、その党類が「上が元々好まない門下の者を急に登用すれば権威が軽んじられ隙をうかがう者が出る」と進言したため、王安石はこれに従い、章惇・趙子幾らを抜擢するよう奏上した。神宗はこれを喜び渋々従い、これにより王安石の権はますます重くなった。

事君の道理を知らないとの批判(程氏遺書)

王安石は事君の道理を理解していなかった。その意図は「自分だけが人主の無知を導く役目にある」というものであった。神宗への上表に「秋水が至って初めて海若の無限の大きさを知る、太陽が昇れば爝火(たいまつ)は不要になる」という趣旨の文があったが、これは常に自分を人主より上に置こうとする心の表れである。古来、主が聖で臣が賢であることは常理であり、ことさら誇張する必要はない。また魯が天子の礼楽を用いたことを論じて「周公には人臣が及ばぬ功があったからこそ人臣が用いてはならない礼楽を用いることができた」と述べたが、これも事君の道理を大きく誤っている。人臣に分を越えた事などあり得ず、すべては臣の職分内の当然の務めである。王安石は日常では親孝行で知られたが、この言い方から見ると孝行についても自ら満足げに「余りある」と考えていたのだろう。臣子の身に分を越えたことなどないと知るのは孟子だけであり、曾子の事親についても孟子は「曾子のごとくであれば可なり」と言うにとどめ、「余りある」とは言わなかった。(程氏遺書)

人となりと気概(上蔡語録)

生涯を通じて気が充実しており、官職に執着せず宰相であっても魚と飯だけで済ませ、受けるべきでないものは受けなかった。簡便を好み去就は自在であった。かつて上殿して人事を提案する劄子を進めたが神宗が許さず、再度別の案を進めても許されず、「これも駄目か」と言って殿を出て辞去を願った。引き留めても留まらなかった。生涯屈することのない、まことに稀有な性格であった。(上蔡語録)

青苗・免役法の弊害(龜山語錄)

青苗・免役も法ではあるが、民に富を蓄えさせる道ではない。青苗の利息は多くないとはいえ、毎年1万緡を分配すれば民から2千緡を奪って官に入れることになり、これが官に入れば民間ではもはや使えない。免役法は民間の銭を取って官が人を雇うが、その銭を得るのは州県の市井の者ばかりで郷民には及ばず、郷民はただ納めるだけで使えないため、かえって財に乏しくなる。青苗の2割の利息は軽いように見えるが、民に利益とならないのはなぜか。民間で借財すれば利息は5割から7割、時に倍にもなるがそれでも害と感じないのに対し、官の利は軽く得やすいため目先の利のみを見て後患を顧みず借りてしまう。民間の借財は利が重く条件も厳しいため慎重になるが、官の青苗は名目は2割でも実際には民間と変わらない負担となる。借りる際には酒食や小物の費用がかかり、返納の際にも往来の費用や胥吏への賄賂がかかり、官の期限は私間の融通とは異なるため、法を畏れる民はかえって借財してでも官に納めようとし、これにより家産を破る者が多い。これが害あって利のない所以である。官の利息は軽いから民が自ら活用できるはずと言う者もいるが、それも浅慮である。商売に用いれば銭が散じて集まらず、官の期限が迫れば急に取り立てられて失うものが大きい。かつて富家はこの患を知り、官から配当されても已むを得ず蓄え、期限になれば私銭で利息を納めていたので患いがなかった。民をこのように扱うのは、事もないのに侵害しているに等しく、補助の政と呼べようか。(龜山語錄)

明道の評(法度と誠意)

天下を治めるにあたり専ら法度の探求に努め、自身の修養の潔さは民を感化するに足るはずであったが、結局は王文正(王旦)・呂晦叔(呂公著)・司馬君実(司馬光)らに及ばなかった。それは誠意が欠けていたためである。程明道はかつて「関雎・麟趾の意があって初めて周官の法度を行うことができる」と述べたが、これはこの点を深く見抜いた言葉である。

廉恥についての議論

上前で議論が争われた際、上に疑われると「私の平生の行いも廉恥に欠けるものではありません、なぜ信じていただけないのですか」と述べたことがある。しかし議事はその是非利害を問うべきものであり、平生の廉恥を盾に人に信を強いるべきではない。廉恥は常人にとってはことさら言うまでもないもので、君子が自ら誇るならばそれはむしろ浅い。廉恥は君子が当然行うべきことであり、官を守る者が「賄賂を受け取っていない」と言うようなもので、それは分外の功ではない。

子の王雱と程顥との対立

子の王雱、字は元澤。険悪な性格で、王安石が行った人情に反する事の多くは王雱の入れ知恵であった。呂惠卿らは王雱に奴僕のように仕えた。条例司を初めて設けた際、程顥(伯淳)を属官に用いていたが、ある暑い日、王安石と程顥が対話していると、王雱が乱れ髪裸足で婦人の冠を手に現れ「何の話か」と問うた。「新法がたびたび妨害されている件だ」と答えると、王雱は箕踞して座り「韓琦・富弼の首を市に梟せば新法は行われる」と大言した。王安石が「息子の誤りだ」と制すると、程顥は「参政と国事を論じているのだから子弟は口出しすべきでない、しばし退きなさい」と諭したが、王雱は不機嫌に去った。程顥はこれ以後王安石と合わなくなった。王雱が没すると王安石は罷相し悲しみ続け、「一日鳳鳥去り、千年梁木摧く」との詩を詠み孔子になぞらえた。鍾山で座っているとき、しばしば王雱が枷をつけた重罪人のような姿で現れる幻を見た。王安石は住居の半山園を寺に施して息子の冥福を祈った。後年病んで瘡に苦しんだ際、甥に「私のいわゆる『日録』を焼き捨てよ」と言ったが、甥が別の書物で欺いて焼いた振りをしたところ、王安石はまもなく亡くなった。これも何か見えるものがあったからだとも言われる。

弟王安国の諫言

王安国、字は平甫。常に兄の行いを非としていた。西京国子監教授として声色に溺れていたところ、王安石は「鄭声(淫靡な音楽)を遠ざけるべき」と書で戒めたが、王安国は「兄上も佞人を遠ざけられますように」と返書した。任期満了で京師に召され殿上に上った際、上から「兄の秉政について世評はどうか」と問われると「ただ聚斂が急すぎ人を知る目が明らかでないことを恨みます」と答え、神宗は黙って不快に思った。王安国は「天下が新法を喜ばず一家の禍となる恐れがある」と兄を諫めたが聞き入れられず、影堂で「わが家は滅門するだろう」と泣いた。また曾布を「丞相を惑わせ誤らせている」と責めると、曾布は「あなたは丞相の弟にすぎず、朝廷が法を変えることに何の関わりがあるのか」と言い返し、王安国は怒って「丞相は私の兄、丞相の父は私の父だ。丞相があなたのために身を滅ぼし家を破り、祖先の墓まで暴かれる事態になれば、私に関わらないはずがあろうか」と述べた。

王安国の漢文帝論

王安国が上殿で問われた際、「漢の文帝はどのような君主か」と問われ、「三代以後、賢主として文帝に及ぶ者はいない」と答えた。上が「才が法制を確立できなかったのが惜しい」と言うと、王安国は「文帝は代国から夜半に未央宮に入り、混乱の中で瞬時に変事を鎮め、将軍たちの武夫でさえ息を潜めて命を待つほどであった、才がなければできないことです。しかも賈誼の言を用いて群臣に礼節をもって接し、専ら徳化で民を治めたため、天下は礼義に興り、一時は風俗が人の過ちを語ることを恥じるほどになりました。これは才を加えた上で一等上と言えます」と答えた。上が「王猛は苻堅を輔け小国にもかかわらず必ず法令を行わせたが、朕は天下の大を治めながら人を思うようにできないのはなぜか」と問うと、王安国は「王猛は睚眦の恨みを必ず報い、苻堅に峻法で人を殺すことを教えました。これは小臣が刻薄なやり方で陛下を誤らせているのでしょう。堯舜三代を法とし、道理に順って威勢に頼らなければ、下の者がどうして従わずにいられましょうか」と答えた。

晏元献の艶詞と鄭声・佞人の逸話

参知政事だった王安石が晏元献(晏殊)の小詞を読んで「宰相が艶詞を作ってよいものか」と笑うと、平父(王安国)は「たまたまのことでしょう」と応じた。館職にいた呂惠卿が同席し「政を為すには必ず鄭声を遠ざけるべき」と言うと、平父は正色して「鄭声を遠ざけるより佞人を遠ざける方がよい」と答えた。呂惠卿はこれを自分への皮肉と受け取り、以後平父と不仲になった。別の機会には、王安石が呂惠卿と新法を論じていた際、平父が内で笛を吹いていたところ、王安石が「学士(呂惠卿)に鄭声を遠ざけるよう言ってくれ」と諭すと、平父は即座に「相公(王安石)が佞人を遠ざけられますように」と答え、呂惠卿は深く恨んだ。

鄭俠の上書と流罪

鄭俠、字は介夫、福州の人。王安石が金陵で喪に服していた頃その門下で学び、後に進士に挙げられ光州司法に任官した。任期満了で京師に至り、王安石が政権を握っていた際に見聞を問われ、青苗・免役・用兵の害を詳しく述べたが答えはなく、書を重ねて論じても報われなかった。長らくして監在京安上門となった。免役法施行と市易法による利息徴収が始まると、京師の細民(水汲み・髪拾い・粥売り・茶売りなど)にまで免行銭が課され、払わない者は市場での商売を禁じられ、税務・倉法まで細かく統制され、正税百銭につき利息10銭を課す仕組みが、法の運用と共に正税10銭に満たぬ者からも取り立てられ、末端の負担が本体より重くなった。鄭俠はこれを王安石に訴え、特に酷い数事を除かせた。折しも大旱が続き11月から3月まで雨がなく、河東・河北・陝西の流民が大量に京師に流入、麻の殻や麦の麩を糜にして食べたり、草根や木の実を掘って食べたり、鎖に繋がれながら瓦や木材を運んだり、妻子を売って官に借財を返す者が続出した。鄭俠はこの惨状を図に描き上書し、馬遞(急使)を使って上呈し、「もし臣の言に従って10日雨が降らなければ、欺罔の罪により斬られることを願う」と述べ、無断で馬遞の鋪を用いたことも自ら弾劾した。熙寧7年3月26日のことである。神宗はこの疏を見て歎息し、韓維・孫永に免行銭の実情調査を、曾布に市易法の調査を命じ、司農寺に常平倉を開かせ、商税務・各門の税銭を30銭以下、市利銭を20銭以下に減じ、青苗・免役の督促を一時停止し、方田・保甲を罷めるなど18事に及ぶ改革を行った。民間はこれを歓呼して喜んだ。4月1日に責躬求言の詔が下り、3日後に大雨が降った。7日の早朝、雨を祝う会で神宗が図状を宰執に示し責めたため、丞相以下皆謝罪した。まもなく王安石は自ら辞任を強く求め位を去り、後任に呂惠卿を薦めた。この命が下った日、京師は大風雨に見舞われ土埃が席を覆うほどであった。鄭俠は再び上書し「安石はもとより惠卿に誤らされていたのに、今また惠卿を引き立てて誤りを重ねようとしている、社稷のためを考えていない」と論じ、用兵についても切実に諫めたが、熙河での戦勝報告で多数の殺戮があったことに神宗が心を痛め、王韶らに今後は招降に努め殺戮を功とせぬよう手詔を下したことから、呂惠卿らは鄭俠をますます憎んだ。鄭俠はさらに、大臣が「三路の流民は皆南北に田を持つ者で北が旱魃なら南が荒れ、また逆もある」と誣告していることを暴き、台諫までも芻霊木偶(人形)のようだと非難し、また禁中で甲を着て登殿する等の事も奏上した。これを見た執政は激怒し、朝政を謗訕したとして鄭俠の出身以来の文書をすべて没収し汀州編管に処した。神宗が呂惠卿に「鄭俠は下級役人なのに禁中の秘事や大臣の奏対の内容をどこから知ったのか」と問うと、呂惠卿は「これはすべて馮京が手ずから記録し、王安国に見せて言わせたものです」と答えた。呂惠卿と馮京は同僚として議論がしばしば対立し、また安石にへつらう呂惠卿を王安国が嫌い、兄を諫めても改めなかったため双方を陥れたのである。神宗が呂惠卿の言で馮京を責めると、馮京は「臣は鄭俠と面識がありません」と恐懼して答えた。上が疑う中、御史知雑の張琥が鄭俠の件で馮京を弾劾し、馮京は「鄭俠はまだ遠くへ行っていないはずなので追い戻して対決させたい」と奏し、鄭俠は台に召還され、舒亶が鄭俠と太康の家を捜索し、王堯臣からの餞別銀30両、御史台知班楊忠信からの贈り物、韓琦・范仲淹らの新法批判の奏稿2冊を発見、詔獄に送られた。鄭俠は「実は馮京を知らないが、たびたび遣わされた呉無至という者が検院に文書を投じ、判院の丁諷がこれを取り次いだ際、馮京がこれを称賛する言葉を語っていた」と答えた。局が罷められた際、道で王安国と出会うと、馬上から「独立不懼と言うべきだ」と称賛され、家に招かれて前後の奏草を見せてほしいと求められたが、鄭俠は「保存していない」と答えた。王安国は「兄への書もそうだった、兄が聞き入れなくとも王安石はなおさらだろう」と述べると、鄭俠は「丞相が一朝小人に誤らされてこうなるとは思わなかった」と嘆いた。王安国が「なぜ小人に誤らされたと言うのか、兄自身は臣子として四海九州の怨みを避けず、怨みを自分に集めることこそ臣の忠を尽くす道と考えている」と弁護すると、鄭俠は「堯舜が上にあり夔・契が下にあって四海九州の怨みがあったなど聞いたことがない」と答え、王安国もこれに同意した。楊忠信は詔に応じて新法の不便を訴えた際、鄭俠に「御史の職は諫争にあるのに皆黙して言わない、公は一介の監門に過ぎないのに上書をやめない、これでは言責が監門にあり台中に人がいないようなものだ」と述べ、懐から書を取り出し「これを正人の助けとせよ」と授けた。馮京は王安国に禁中の事を伝えさせたことはなく、鄭俠が知った情報はすべて隣家の内殿崇班楊永芳からのものであった。王安国は対決に応じず、鄭俠は「対制の場で隠すことがあってはならない、天地鬼神が見ている中で誰を欺くつもりか」と責めた。王安国はついに罪を認めて獄に下った。鄭俠は英州編管、楊忠信は湖外編管、馮京は罷政、丁諷は落職、王安国は放されて田里に帰された。鄭俠は徒歩で貶所に赴いた。鄭俠は清廉倹約な性格で布衣糲食を生涯貫き、科挙で実際の年齢を偽った者を戒め「入仕を謀る時点で既に君を欺く心があってはならない」と述べた。子姪が詩経「考槃」の一節を誦するのを聞き、「弗諼者は君の悪を忘れない、弗過者は君の朝廷を過ぎない、弗告者は君の善を他人に告げない、いずれも君への切ない思いから離れがたい心を表す」と解説した。人々はこれを聞いて「畎畆にあっても君を忘れぬ古人のようだ、賢者が一度用いられぬだけでこれほど憤るとは」と嘆じたが、その心の内はこの通りで、流落の身となっても言葉の端々に君への思いが表れ、政役が繁く興り民が嗷嗷とするのを見てはただ顔をしかめるのみであった。(鄭俠言行録)

銭景諶の批判

銭景諶は忠懿王(呉越銭氏)の子孫で、かつて王安石と親しかったが新法を巡って意見が合わず絶交した。その家集にある「答兖守趙度支書」の自序に詳しい。「荊公が政権を握って以来、一代の成法はほとんど残らず、百姓は愁苦し郡県の吏も罪を恐れて怯えている。法制を変えただけでなく、穿鑿附会な字解を作って『時学』と称し、春秋という一王の法を廃して顧みない。荒唐無稽な『時文』が持てはやされ、傾険逐利で民を虐げ恥じない者が『時官』と称された。天下の人々は時学・時文・時官に群がった。私は仕官の籍にありながら聖賢の事業を学び、専ら春秋を主とし、大中至正・三綱五常の道を旨とし、文は六経に基づき道徳性命に根ざして仁義に帰する。君に仕えるにあたっては忠厚愛人・兼善天下の道を志したが、これは今の風潮に合わず、学んでも用いられぬまま身の置き所がない。旧友の張諫議正国が私を高陽の帥幕に招き、邵堯夫(邵雍)からも洛中に遊ぶよう誘いの書と詩をいただいた。年月はいたずらに過ぎ人事は寂しくなるばかり、貧しく老いた兄の生計がほぼ立ち、幼くして孤児となった甥にも身の振り方が定まれば、私も西の洛陽に帰り先人の墓を守り、洛水のほとりを逍遥して生涯を終えたいと願うのみである」と結んでいる。