宋名臣言行錄後集卷十六 曾公亮
出自と生い立ち
曾公亮、魯国宣靖公。字は明仲。泉州の人。進士第に及第し、丞相に至り、太傅兼侍中で致仕し、英宗廟庭に配享された。
政事六事の献策
仁宗がある日執政・侍従を召し政事を諮問した際、曾公亮は母の楚国太夫人の病により謁告して家居していたが、手詔で急ぎ問われ、6事を条陳して献じた。堡柵を完備し兵馬を蓄え、主兵の任を長く続けさせれば異民族が辺境を窺わなくなること、人を得てその才を尽くさせれば将帥に人材の不足を憂えなくてよいこと、冗兵・冗官を減らせば財用が省けること、徭役が農にのみ偏らなければ耕作が勧められること、などを述べた。また古の6郡の良家の子を宿衛に取った制度と府兵が16衛に番上する制度を引き、当時の宿衛の失を指摘し、「言が過激な者は正直に見え、愛憎を隠さぬ者は忠実に見える」として人を聴き知ることの難しさも説いた。いずれも当時最も急を要し実施しやすい事柄であった。(曾内翰、行状を撰す)
鄭州での治安回復
鄭州知事のとき、郡には盗賊が多かったが、曾公亮が至ると賊はみな他境へ逃げ去り、道に落し物を拾う者もなく民は外戸も閉じなかった。人々は「曾開門」と呼んだ。ある使客が旅嚢の物を紛失し文書を出して盗人を求めた際、曾公亮は「境内に盗はいない、必ず従者の仕業だ」と諭し、調べると果たしてその通りであった。
枢府での兵制掌握と宰相としての民政
枢密府にあっては図籍を整備し、四方の兵数の増減、三路の屯戍の多寡、地理の遠近を常に把握した。宰相となってからは「政事は仁民を先とすべき」として民の疾苦を除き窮乏を補うことに特に力を注ぎ、茶の専売制を緩めて民に還元し、戸絶の田の租を集めて広恵倉を設け窮独の民に食を給するなど、同様の施策を多く行った。
皇子早期擁立の建議
韓琦とともに仁宗に皇子の早期擁立を力説し、天下万世の基とすべきと説いた。以前にもこれを言う者はいたが取り上げられず、この時に至って仁宗が感悟し、儲貳(皇太子)が定まった。
慎重な断獄
長く朝廷政事に熟達し、特に断獄には慎重で、四方から上奏される裁許は必ず自ら閲覧し、事情を推し量って法を議した。密州で銀を民田で発見した者が強奪した事件で、大理寺は強盗として死罪に当てようとしたが、曾公亮は「これは禁制品だ。禁制品を強く取ることは、盗みとはいえ民間の物を取ることとは違う」と固く争って決着せず、有司に議させた結果、曾公亮の言に従い、劫奪禁制品の法により盗人は死を免れた。法の趣意を推し量り公平寛恕を旨とする姿勢は概ねこの通りであった。
長期在職と評
嘉祐から熙寧年間まで長く中書にあり、年老いても精力は衰えなかったため台諫から非難されることはなかった。ただ李復圭だけが不可として「老鳳、池辺に蹲りて去らず、飢烏、台上に噤みて声無し」と詩に詠み、曾公亮もついに退いた。