宋名臣言行錄後集卷十五 范鎮

出自と生い立ち

范鎮、蜀郡忠文公。字は景仁。成都の人。進士第に及第し、仁宗・英宗・神宗に仕えて翰林学士に至った。

科挙での謙譲

若くして進士に挙げられ文賦に優れ、国子監生の補試・貢院の奏名でいずれも首位を得た。慣例では殿廷での唱第で3人を過ぎると、奏名の首位者は声を上げて自ら陳情し恩を求め、たとえ考校で下位でも天子は必ず上位に上げるものであったが、呉春卿・欧陽脩のような剛直な人物さえ従わざるを得なかった中、范鎮だけはこれを行わなかった。周囲が繰り返し促しても自陳せず、結局79人目に呼ばれてから拝礼して列に戻り、最後まで一言も発しなかった。人々はその泰然たる態度に感服し、これ以後自陳することが恥とされ旧来の風習は絶えた。(司馬光、伝を作る)

学士院試での逸話

学士院試で「霓」の字を用いた詩を作った際、沈約の郊居賦「雌霓連娟」の読みに倣い霓を入声で読むべきとした学士から、范鎮は「失韻」と判定された。これにより館閣校勘に任じられたが、実は沈約の賦は声律の便美のためだけに霓を用いており、平声で読んでも問題なかった。当時学者たちは憤慨したが、范鎮自身は泰然として弁明しなかった。

財政制度改革の建言

民力の困弊を論じ、祖宗以来の官吏・兵数の平均を取って定制とし、当時の賦入の7割を経費に充て3割を備蓄して水旱の非常に備えるよう上疏した。また「古は冢宰が国用を制し、唐は宰相が塩鉄転運・戸部度支を兼ねたが、今は中書が民を、枢密が兵を、三司が財を各々別に管掌し互いに情報を共有しないため、財が既に乏しいのに枢密は兵を増やし続け、民が既に困窮しているのに三司は財を取り続けている」とし、中書・枢密が兵民財利の大計を三司と共有し国用を制するよう求めた。(蘇内翰、墓誌を撰す)

温成皇后の葬礼を巡る論争

温成皇后の葬礼で太常が礼を議し、当初「園」と呼んでいたものを後に「陵」と改めた。宰相の劉沆は当初監護使、後に園陵使となった。范鎮は「法吏が法を弄ぶとは聞いたことがあるが、礼官が礼を弄ぶとは聞いたことがない」として前後の議の異同を問いただし、また錦繍珠玉を焼いて瘞める儀礼を罷めて国用を緩めるよう求め、聴き入れられた。

郊迎の礼を止めるよう建言

文彦博・富弼が宰相に入った際、百官が郊外まで出迎え、両制は宰相の私邸を訪ねることを禁じられ、百官は勝手に会うことを禁じられていた。范鎮は「虚礼で隆盛を示すより至誠で開くべき」として郊迎を罷め謁禁を除いて天下の情を通じさせるよう求めた。

皇嗣建議

仁宗即位から35年、後継者が定まらぬまま嘉祐初年に病を得て中外が危惧した際、范鎮は「天下の事にこれより大きなものがあろうか」と奮起し、太祖が実子を差し置いて太宗を立てた大公、真宗が周王薨去後に宗室の子を禁中で養った大慮を引き、宗室の賢者を選び礼遇して政事で試すよう上疏したが返答がなく、門を閉じて罪を待った。折しも星変があり急な兵乱の兆しとされたことから、范鎮は「国本が定まらぬまま変が起これば禍は測り知れない、兵よりこれより急なものはない」と論じ、疏が中書に付されたことを「大臣に奉行させる意図」と見て、大臣がこれを拒めば「陛下は宗廟社稷のために計ろうとしているのに大臣がこれを望まない」ことになると迫った。聞く者は震え上がった。侍御史知雑事を兼ねる話も固辞し、上前で3度直訴すると范鎮も上も涙した。上は「卿の忠は分かった、言は正しい、あと2、3年待て」と言い、范鎮は19度疏を上げ100余日待罪し、鬚髪が白くなるほどであったが朝廷はなお動かず、諫院知事を罷め集賢殿修撰・判流内銓・修起居注・知制誥に転じた。言職を離れても毎年儲貳(皇嗣)の事を上言し続け、知制誥として正謝上殿の際にも「陛下が許してから3年が過ぎました、早く大計を定められますよう」と面陳し、翌年も祫享に際し賦を献じて諷諫した。その後、韓琦が最終的に策を定め英宗を立てた。

濮議での論拠

英宗即位後、中書が濮王の追尊を請い、両制の議は「皇伯と称すべき」とされたが、范鎮は太常寺を判じる立場から礼官を率いて、「漢の宣帝は昭帝の孫、光武帝は平帝の祖にあたり、その実父を皇考と称した先例があるが、これも小宗が大宗の統を合わせたものと非難された。今、陛下は仁宗を考とし濮王をも考とすれば、その誤りは宣帝・光武帝の比ではない」と論じ、帝・皇考の称、寝廟の建立、昭穆の論、いずれも不当と説き、儀礼と漢儒の議論、魏の明帝の詔を五篇にまとめて奏上した。

青苗法への反対

王安石が法令を改め常平法を青苗法に変えようとした際、范鎮は「常平の法は漢の盛時に始まり、穀の貴賎を見て発斂し農末に便利で最も古の理にかなう。青苗は唐の衰乱期に行われたもので範とすべきでない。陛下は富民が多く取ることを憎んで少なく取らせようとしているが、これは五十歩百歩の違いにすぎない。市場で一人が値を下げて他人の商売を奪うことを人は悪む。朝廷がこの市道の悪しき所業を行ってよいのか」と疏を3度上げたが返答がなかった。邇英閣で呂恵卿と上前で論争になった際、旧法の預買紬絹も青苗と同類と論じられると、范鎮は「預買も弊法だ、陛下が節倹を身をもって示し府庫に余裕があれば預買も廃すべきもので、青苗の弁護に用いるべきではない」と述べた。後に「臣の言が用いられないなら朝廷に立つ顔がない」として致仕を5度願い出、最後には「安石は喜怒によって賞罰を行う」「陛下には諫を納れる資質があるのに大臣は諫を拒む策を進め、陛下には民を愛する性があるのに大臣は民を疲弊させる術を用いている」と極言した。安石は激怒し自ら制を草して范鎮を厳しく非難し、翰林学士を落として本官のまま致仕させた。これを聞いた人々は范鎮を案じたが、范鎮は謝表で「身を退くとはいえ憂国の心を忘れたわけではない」「群議を集め耳目とし壅蔽の姦を除き、老成を腹心として和平の福を養われるよう望む」と述べ、天下はこれを壮とし、安石が厳しく非難したことがかえって范鎮の栄誉となった。

蘇軾との対話

致仕の後、蘇軾が祝いに訪れ「あなたは退いてもますます名声が重くなった」と言うと、范鎮は表情を曇らせ「君子は言が聴かれ計が用いられて患いを未然に消し、天下が陰でその恩恵を受けても智名も勇功も残らないのが理想だ。天下がその害を受けて自分だけが名声を得るなど、どんな心地がするか」と述べ、蘇軾は恥じて退いた。

韓維の推薦

韓維は「范鎮は仁宗朝で最初に建儲(皇嗣を立てる)の議を開き、その後大臣が相次いで論奏し、先帝はその功を没後も含めて恩に浴させたが、范鎮自身は誰にも語らず、顔回の善行を誇らぬ態度や介之推の禄を語らぬ態度にも勝るものであった」と上言し、范鎮の19の疏をすべて上呈し、端明殿学士を拝した。

元祐初年の召還辞退

元祐初、詔で最初に范鎮が召し出された。范鎮は「西伯(文王)は二老(伯夷・太公望)をよく養い漢室では四臣(商山四皓)が呼ばれた、私のために強いて起きよ、勤めを憚るなかれ」と言われたが、63歳で辞去し79歳で復帰するのは礼に適わないとして応じなかった。以前、蔡京が「上はあなたを起用しようとしている」と伝えると、范鎮は正色して「私は新法に反対して罪を得た、先帝が崩御された今、これを機に利を得るわけにはいかない」と述べ、結局元祐の二聖(宣仁太后・哲宗)の招きにも一度も応じなかった。

音楽制度の研究

仁宗が李照に大楽を改定させ王朴の楽より三律を下げさせ、皇祐年間には胡瑗らに攷正させた。范鎮は司馬光とともに律尺の法を論ずる疏を上げ、往復数万言に及ぶ議論を交わした。元豊3年、神宗が范鎮と劉几に楽を定めるよう詔した際、范鎮は「楽を定めるにはまず律を正すべき」とし、律尺・龠・合・升・斗・豆・区・鬴・斛を製作して図に表そうとし、真の黍を求めて黄鐘を定めようとしたが、劉几は李照の楽に四清声を加えて奏楽を完成させ、詔でその局は罷められた。范鎮は致仕後、大府の銅を得て楽器を自作し、1年余りで完成させると李照の楽より一律余り低いものとなった。二聖(哲宗・太皇太后)は延和殿で執政とともにこれを観覧し、詔で嘉奨して太常に下した。范鎮は「東斎記事」に「君実(司馬光)は莫逆の友だが楽の議論だけは合わなかった。館閣にいた頃、同僚も決められず碁で決めたが、司馬光は負けて自説を貫いた。その後20年、司馬光が西京の留台にいた頃、私が訪ねて自作の楽論8篇を示し、数夜議論したが決着せず、投壺で決めることになり、私が負けると司馬光は喜んで『大楽が魂を取り戻した』と言った。半月かけても要領を得ずに帰ったが、これが真の見解だったのか戯れだったのか、あるいは自説に固執して改めたくなかっただけなのか、今も分からない、おそらく戯れだったのだろう」と記している。

学識と人物評

学は六経に基づき仁義を旨とし、仏老・申韓の説を口にしなかった。文章は清麗で簡潔であり、学ぶ者はこれを師法とした。5度翰林に入り4度貢挙を知り、朝廷の大述作・大議論に必ず関与した。契丹・高麗までその文賦を誦じ、若い頃「長嘯却胡騎」の賦を作ったことから、契丹への使いの際に諸相から「これが長嘯公か」と目された。 東坡(蘇軾)は「景仁(范鎮)は生涯仏を好まなかったが、晩年は清慎で嗜欲を減らし、心に一物も留めない様は仏を学んだ大家のようであったが、死ぬまで仏法を取らなかった」と評した。(李廌談記) 范鎮は性を論じて「生きてこの身であったものが死んで彼の身になるはずがない。しかしそう見えても、また鬼神があると言うのはやはり迷いだ」と述べた。(程氏遺書)

「勇者」としての評

ある客が迂叟(司馬光)に「今世の勇者は誰か」と問うと、迂叟は「范景仁ほど勇ましい者はいない」と答えた。客が「景仁は身の丈5尺で従順に見えるのになぜ勇と言うのか」と問うと、迂叟は「目を怒らせ髪を逆立て九牛を引き三軍を圧するような外面の勇は匹夫の勇にすぎない。景仁のは内面の勇である。唐の宣宗以来、立嗣を語ることを嫌い、言う者があれば謀反同然に憎まれたが、景仁は独りこれを唱え十余章を上げ続け、自身と一族の命を鴻毛のごとく軽んじた。後に景仁が無事であったのを見て同様のことを言う者も出たが、当初景仁は測り知れぬ危険を冒したのだ、勇なくしてできようか。天子・執政の親愛が父子にも勝る中で、天子の実父を尊ぼうとする議に古義を引いて争ったのも勇なくしてできようか。禄位はみな人の貪るところ、老病で先が見えない者でさえ未練を残すのに、景仁は栄達を極めながら言が用いられぬと知るや63歳で衣を払って帰り、終生再び仕えなかった。勇なくしてできようか」と述べた。(司馬光、伝を作る)

司馬光との交友

熙寧・元豊年間、士大夫が天下の賢者を論ずるとき必ず「君実(司馬光)・景仁(范鎮)」と称し、その道徳風流は当世の師表とするに足り、その議論の可否は天下の栄辱を左右するとされた。両者は互いに深く許しあい、「私とあなたは生まれては同志、死しては同じ伝に記されよう」と語り合い、天下も両者に優劣をつけなかった。互いに伝を書き合う約束をし、後に死んだ者の墓誌をもう一方が書くこととした。司馬光は范鎮の伝で「呂献可の先見、景仁の勇決は自分の及ばぬところ」と記した。両者の用捨の大節は不謀にして一致し、仁宗朝の皇嗣論、英宗朝の濮王称号論、神宗朝の新法論において、その言は左右の手のように呼応した。司馬光は常々「私と景仁は兄弟である、ただ姓が違うだけだ」と語ったが、鐘律の論だけは終生互いに折れず一致しなかった。これにより両者が単に阿ることなく議論していたことが知られる。