宋名臣言行錄後集卷十五 彭思永
出自と生い立ち
彭思永、字は季長。吉州の人。進士第に及第し、仁宗・英宗・神宗に仕えて権御史中丞に至った。
内降・恩賚の濫用を諫める
侍御史として内降による官資授与の弊害を強く論じ、斜封(正規の手続きを経ない任官)は公朝のあり方ではないとし、仁宗も深く同意した。皇祐の明堂祭祀の前日、百官が昇格するとの赦の噂が流れた際、彭思永は駕に従い景霊宮に宿していたが、急いで「濫恩は僥倖を助長すべきでない」と上言した。しかし赦が発せられると、案の定、妃族の張堯佐と親侍の王守忠が寵愛によって、参知政事の欠員に堯佐が朝夕命を待ち、守忠も節度使を求めていた。彭思永は疏を上げ「陛下がこの恩を行うのは孤寒の士のためではなく、堯佐・守忠のためだけに衆人の心を取ろうとするもの」と極言し、妃族の秉政・内臣の専横はいずれも国家の福ではないと論じた。疏が入ると仁宗は激怒したが、諫官の呉奎らがその忠を弁じ、怒りは解けた。
荊湖北転運使としての善政
荊湖北転運使に赴任すると、残暴・疲弱な守令をそれぞれ1名罷免し、8州がこれにより勧められた。当時大農(司農)が諸路に利をもって羨余(余剰上納)の献上を促していたが、彭思永は「民から取り立てて賞を得るのは忍びない」として何も献上しなかった。
濮議への反対
権御史中丞のとき、濮国大号の追尊と「親」と称する議が起こり、諫官が相次いで論列し6、7人が罪を得て去った。彭思永は不可を力説し、退けられた言者の召還を求めた。上が事情を十分理解しないまま疏を進めると、英宗は深く聴き入れ実施されかけたが、大臣が強く抵抗したため実現しなかった。(程明道、行状を撰す)
濮議の論拠(伊川先生集より)
伊川先生(程頤)の代作とされる彭中丞(彭思永)の奏によれば、「濮王は陛下を生んだが、仁宗が陛下を嗣子として祖宗の大統を承けさせた以上、仁宗こそ陛下の皇考であり陛下は仁宗の嫡子である。濮王は陛下の実父だが、続柄では伯にあたり、陛下は濮王から見れば出継の子で続柄では姪にあたる。これは天地の大義・人倫であり乾坤の定位のように動かせない。もし大倫を乱せば人理は滅ぶ。陛下が仁宗の子である以上、父・考・親と呼ぶべきは仁宗である。もし濮王をも親と称すれば二親を持つことになる」とし、濮王の子に爵を継がせ祭祀を奉じさせ、濮王を「濮国太王」と尊称すべきと論じた。祭告の際は「姪嗣皇帝、敢えて皇伯父濮国太王に昭告す」とすれば、濮王への尊崇と仁宗への嫌疑を避けられるとした。
蔣之奇の讒言事件
御史の蔣之奇が大臣の隠事を暴こうとし、彭思永の名を援用しようとして「あなたも語ったはずだ」と言った。彭思永は「帷簿の私事は外人の知るところではなく、真偽を究めるのは難しいが、根拠なき噂が立てば人は信じてしまう。かつ蔣之奇が濮園の議で典礼に違い衆怒を犯した張本人であり、政府に留まるべきでない」と述べた。執政は蔣之奇の言が曖昧で質せないとし、彭思永にその出所を3度問い詰めたが、彭思永は「風聞は耳目を広げるためのもの、今その出所を問うて罪すれば以後誰も何も言わなくなる。重い譴責を甘んじて受けても国家が言路を開く法を廃するわけにはいかない」と述べ、大臣の朋党専恣を厳しく論じた。翌日、給事中に降格され黄州知事に出された。
少年時代の逸話(拾得物の返還)
8、9歳の頃、尚書に従って岳州に赴任していたとき、朝早く学舎へ向かう途中門外で金の釵を拾い、その場に黙って座り探しに来る者を待った。ある吏がしばらく徘徊していたので事情を尋ねると、果たして落とした本人だった。事情を確認して釵を返すと、吏は数百金の礼を申し出たが、彭思永は「もし欲しければ釵を取れば数百金以上だったはずだ」と笑って断った。吏は驚き感じ入って去った。
挙試時の逸話(金釧の逸話)
挙試を受けたばかりの頃、貧しく金釧数隻を旅舎に置いていた。同輩が訪れ玩賞のため釧を出させると、袖に1隻が落ちた者がいた。彭思永はそれに気づいたが何も言わず、皆も気づかなかった。数えて「これで全部だ、失ったものはない」と言った。去ろうとした釧を袖に入れた者が会釈すると、釧は床に落ち、皆は彭思永の度量に感服した。
教え
「牢籠(人を策略で操る)事は私のするところではない」と常に語り、また「私は特別な学を修めたわけではなく、幼少より平心をもって物に対することを学んだのみ」と言った。子弟には「私は幼い頃、冬に布団の中にいるだけで天下の寒さに苦しむ人を思ったものだ」と教えた。