宋名臣言行錄後集卷十五 呂誨
出自と生い立ち
呂誨、字は献可。正惠公(呂端)の孫。進士に登第し、仁宗・英宗・神宗に仕えて御史中丞に至った。幼くして孤児となり自ら学に励んだ。洛陽に住み、性は沈厚でみだりに交遊せず、洛陽の士人にも多くは知られなかった。(司馬光、墓誌を撰す)
濮議での言論(一)
治平元年、孫覚が語ったところによると、台官らは「小事は決去を争うに足らないが、濮王の号に関する事は聴かれなければ辞去すべき」と申し合わせていた。当時、知雑御史の呂誨・呂大防・范純仁らと諫官の司馬光がしばしば孫固の凡庸・王広淵の姦邪を論じ用いるべきでないと訴えたが聴かれず、かえって用いられることが多かった。台諫の言はすべて執政により握りつぶされ、当時「訖了(けりがついた)」と呼ばれていた。范純仁によれば台吏もこれを恥じ、事あるごとに御史に「またけりがつきました」と告げたという。執政は権を恃んで言路を塞ごうとし、言者は職責を果たせぬ憤りから連携していた。数日後、案の定、台官らは濮王の号を巡る論を激しく展開し、上元後には呂誨らの疏はすでに7、8回に及んだが聴かれず、皆辞表を提出して家に籠り職務を放棄した。この間、執政は密かに禁中で議を確定させ、太后に濮王を「皇」と尊称するよう働きかけた。天章閣での賞花の際、酒の勢いで太后が事情を十分理解しないまま署名し、翌日、中書が濮王を皇と尊称する旨を奉行した。京師は騒然となり、太后自身も後で不可とし、力争した末、22日に濮王の称皇を罷める詔が下った。范純仁らは職務に復帰しようとしたが、呂誨は「親と称することさえ我らの言を用いぬ朝廷では意味がない」として、前後9疏を中書に付して辞去を求め、結局呂誨らは皆退けられた。至和以後、仁宗は久しく在位し人情の真偽と群臣の才性の善悪を熟知していたため、大臣に政を委ねつつ台諫を重んじ言路を広く開いていた。しかし治平初め、英宗即位後は専断の傾向が強まり、王疇を枢密副使・知制誥にしようとした際、銭公輔が詞頭を封じ返すとこれを滁州団練使に貶し、祖無択も同様に詞頭を封じ返すと銅30斤の罰を科され、結局その命は行われた。台諫官の言をことごとく聴かず、台諫を全員逐うこともあり、京師では「市を絶やしても台官なし」と言われるほどであった。それでも人主は世論を汲み、朝廷の正人は完全には除かれなかったが、公議の帰する言者は次々と斥逐され、後任の言はますます激烈になった。濮議では、執政は「王を考(父)と称する」議を進め、これに対抗して「王を伯と称する」との議が出た。両論とも私意によるもので載籍に基づかず、いずれも不学の過ちであり、議論が年をまたいで紛糾したのは言路が通じなかったためで、執政が自らの意を通そうとしたことがこれを激化させたと評される。(南豊雑識)
濮議での言論(二)
呂誨は濮園追尊の事で欧陽脩を弾劾し、「邪議を先に開き経典を妄りに引いて道を枉げ人主に取り入り、先帝の恩に背いた」と14章にわたり奏議に記した。司馬光はこの序で「献可の言は誠実」と評したが、欧陽脩が晩年「濮議」一書を著し専ら献可と弁じ、過ちをもっぱら献可に帰したことについて、後世の評は分かれている。(邵氏後録)
王安石登用への反対
権御史中丞のとき、官を棄てて家居していた王安石が朝野でその才を称えられ天子が政に参画させようとした際、多くの人が「人を得た」と喜ぶ中、呂誨だけは反対した。まもなく王安石は独断で祖宗の法を専ら改め、民財を集めることに汲々とし、登用する人材も適切でないことが多く、天下は大いに失望した。呂誨は何度も争ったが受け入れられず、ついに章を上げて安石の過失を悉く条陳し「天下の蒼生を誤らせるのはこの人物に違いない、長く廟堂にあれば安寧の理はない」と述べた。上は使者を遣わして解こうとしたが呂誨はますます強く主張し、結局中丞を罷めて鄧州知事に出された。
司馬光との対話
王安石が参知政事に初めて任じられ、神宗が精励して治を求めていた頃、紫宸殿の早朝で二府の奏事が長引いたある日、呂誨は御史中丞として崇政殿での対応を控え、司馬光も翰林学士として資善堂に向かう途中で出会い、並んで歩いた。司馬光が「今日は何を言うつもりか」と密かに問うと、呂誨は「袖中に弾文がある、新参(王安石)の事だ」と答えた。司馬光は「安石の文学・行義により登用され、皆人を得たと喜んでいるのに、なぜ論ずるのか」と驚いたが、呂誨は「安石は時に名声があり上意も向いているが、偏見に固執し物情に通じず、佞人を軽信して意見を変えにくい。人が佞じれば喜んで聴き入れるが実行に移せば疎漏となる。侍従なら容認できても宰輔に置けば天下は必ずその弊を受ける」と正色して述べた。司馬光は「今日の論はやや性急に見える、先に疏を進めてなお熟慮してはどうか」と勧めたが、呂誨は「上は即位して間もなく若く、日々謀議する相手は二三の執政のみ、これが不適任なら国事を敗る。これは腹心の疾患であり緩めてはならない」と答えた。話の途中で閣門の吏が班を促したため急ぎ去った。司馬光は経筵から退いて終日考えたが答えを出せなかった。後に呂誨の章疏が伝わり、当初は「過激すぎる」と評されたが、まもなく新法が祖宗の法を変え聚斂に専念する事態となると、かつての批判者たちも恥じ入り呂誨の先見に感服した。呂誨はこの一件で鄧州に出された。司馬光は洛陽隠棲後、常に「呂献可の先見、范景仁(范鎮)の勇決は自分の及ばぬところ」と評し、心から服していた。(劉諌議集)
王安石批判の要旨
神宗が節倹を尊び、老宮人から祖宗時代の妃嬪・公主の月俸がわずかであったことを聞いて感嘆した際、王安石はひとり「陛下が真に財政を理すれば天下を自らの奉養に用いても構わない」と述べ、これが青苗・助役の法へと帝の意を傾ける契機となった。安石の術はこのようなものであったため、呂誨の弾章には「外は素朴を示し内には狡詐を懐く」とあった。
臨終の言
呂誨は病中に自ら章を草し致仕を願い出て、「臣に持病はなかったが、医者が誤った処方を用い、脈の虚実・陰陽の逆順・診察の標本・治療の先後を弁えなかったため、湯剤を誤って四肢に禍が及んだ。これは一身の病を借りて朝政の病を喩えるものである」と述べた。司馬光(温公)と邵康節が見舞ったとき、呂誨が語ったのはすべて天下国家の事で、一言も私事に及ばなかった。ある日、司馬光に墓誌を託す書を手ずから書いた後、まもなく目を閉じたが、司馬光が呼びかけると再び目を開き「天下の事はなお為すべきことがある、君実(司馬光)努めてくれ」と言った。司馬光が墓誌を書き終える前に、河南監牧使の劉航(仲通)が自ら石に刻む書を望んだが、司馬光がその文の遅延を見て子の司馬康(安世)に代筆させようとしたところ、劉航は密かに呂誨の子らに「摹本を許すな、三家の福にならない」と告げていた。当時、小人の蔡天申が刻工に賄賂を渡して摹本を得て王安石に献上し、安石はこれを壁に掛けて門下に「君実の文は西漢の文である」と評した。呂誨は死を前に「天下の事はなお為すべき」と司馬光に言い、自愛を促したが、後に司馬光が宰相となり元祐の盛時を成した際、呂誨はこれを見ることができなかった。天下の人々はこの言葉を誦してこれを悲しんだ。司馬光が薨じた際、呂誨の子の由庚が輓詩に「地下でもし中執法(司馬光)に会わば、今日再び昇平が訪れたと伝えてください」と詠み、亡父の言葉を偲んだ。