宋名臣言行錄後集卷十五 趙抃
出自と生い立ち
趙抃、字は閲道、清献公。衢州の人。進士に挙げられ、仁宗・英宗・神宗に仕えて参知政事に至った。
印章偽造事件での慎重な裁定
武安軍推官のとき、印章を偽造した者について吏はみな死罪とすべきと考えたが、趙抃は「偽造は赦令前、使用は赦令後であり、赦前に使わず赦後に偽造していないなら法により死罪にならない」と論じ、疑わしきをそのように裁いて死罪を免れさせ、一府がこれに服した。(蘇内翰、神道碑を撰す)
母への孝
母の越国夫人の喪に、墓のそばに廬を結び3年間家に帰らず服喪した。その郷里の門に「孝悌処士」と榜が掲げられた。(孫処、孝子伝を作る)
「鉄面御史」の異名
殿中侍御史として弾劾を行い、権勢者を憚らなかったため京師で「鉄面御史」と称された。その言論は君子と小人を明確に区別することを常とし、小人は小過でも力を尽くして排斥すべきだが、君子が不幸にも過ちを犯した場合はこれを保護し愛惜すべきと説き、その言は切実だが人に厭われなかった。
名臣たちの引き留め
呂溱が徐州、蔡襄が泉州、呉奎が寿州、韓絳が河陽にそれぞれ出た後、欧陽脩も蔡州、賈黯も荊南への転出を願い出た。趙抃は「近ごろ正人賢士が相次いで引退し、国を憂う士がこれを寒心している。侍従の賢者は欧陽脩ら少数のみで、彼らが権要にへつらわないために傷つけられ、皆郡へ出ようとしている」と上言し、これにより欧陽脩らは留まり、一時の名臣たちが安んじられた。
睦州での善政
睦州知事のとき、毎年杭州の羊市に供出させられていた羊を移文して免除させた。また茶税の課される籍がありながら実際には茶地がない民があったため、これを免除させ、今も睦州の民はこれを称えている。
陳升之の枢密副使任用に反対
陳升之が枢密副使に任じられた際、唐介らと共に陳升之が宦官と結び正道によらず進んだと論じ、疏を20余上したが受け入れられず、家に籠って処罰を待った。詔で無理に召し出されると、外任を願い出た。
賈昌朝への視察
賈昌朝が使相として大名府を判じていたとき、趙抃が府庫を視察しようとすると、賈昌朝は「これまで監司でこの府を視察した者はいない」と部下を通じて伝えさせた。趙抃は「大名を除外すれば他の郡が服さない」として視察を強行、賈昌朝は当初不快であった。以前、義勇兵の募集が期限内に不足すると官吏800余人が徒2年の罪に問われる詔があったが、趙抃は「河朔は豊作であったため募兵が思うようにいかなかった」と述べて寛大な処置を求め、農閑期を待つよう奏上して罪を免れさせ、その後募兵も充足した。賈昌朝は「名は虚しく得たものではなかった」と感服した。
参知政事としての新法批判
参知政事のとき、王安石が政を用い議論が合わない中、司馬光が枢密副使を辞し台諫・侍従の多くが言事により去ろうとした。趙抃は「朝廷の事には軽重があり体には大小がある。財利は軽く民心の得失は重い。青苗使者は小事、禁近耳目の臣の用捨は大事。財利を罷めずして民心を軽々しく失い、青苗使者を罷めずして禁近の臣を軽々しく棄てるのは、重を去って軽を取り大を失って小を得るもので、宗廟社稷の福ではない」と論じ、聞き入れられなかったため自らも去ることを求めた。(神道碑)
王安石との論争
王安石が初めて参知政事となったとき、廟堂を軽んじる態度で、新法を巡る議論で怒って諸公に「あなた方は読書もせず座っているだけだ」と言った。趙抃は同じく参政として「その言は誤りだ、皋・夔・稷・契の時代に何の書があって読めたのか」と反論し、王安石は黙った。(邵氏後録)
成都府知事への赴任
成都で戍卒の統制が課題となり、朝廷は蜀の民に愛信される大臣を選ぶこととなったが、趙抃が最適とされた。大学士として成都知事に任じられる際、上(神宗)は「近年、政府から再び蜀へ赴く者はいない、卿は行ってくれるか」と問い、趙抃は「陛下の言葉こそ法です、前例など問題ではありません」と答え、上は大いに喜んだ。
質素な赴任の逸話
最初の成都赴任時は亀と鶴を伴ったが、再赴任時にはこれらを退け、老僕1人のみを従えた。学士の張公裕がこれを詩に詠み、「馬は旧路を知り滑らかに行き、亀は長河に放って共に来ず」と記した。(呂氏家塾記)
青州での善政
青州に転じてはその質朴な風俗に従い清浄な統治を敷いた。当時山東で旱魃と蝗害があり、淄州・斉州から蝗が飛来したが、青州境で風に遭い水に落ちて全滅した。
呉越の飢饉救済
呉越で大飢饉が起き死者が半数を超えた際、廩を開き富める者に勧めて分与させ、自らの家財をまず投じて救荒に努めた。生者には食を、病者には薬を、死者には埋葬を施し、城の修築を命じて民に自らの力で食べさせたため、越の民は飢えても怨まなかった。(神道碑・南豊集に「趙越州救災議」あり)
越州での米価統制
熙寧年間、大資として越州知事のとき、両浙で旱害・蝗害があり米価が高騰、死者は十中五六に及んだ。諸州は道々に「米価の値上げ禁止」の榜を掲げたが、趙抃はひとり逆に「米を持つ者は自由に値上げして売ってよい」と榜を出した。すると諸州の米商が越州に集まり米価はかえって下がり、民に飢える者がなくなった。
韓琦との併称
韓忠献(韓琦)が安陽を守ったとき、争訟しようとする者が「侍中に恥じるから」と自ら止まり、郡はほとんど無事であった。趙清献(趙抃)が再び杭州を治めたときも、天下の劇務である杭州を従容として治め、その政は孝悌に基づき、厳しくなくとも粛然と行き渡り、民は法を犯さなかった。議者は「両公の治民は西京で称される循吏にも劣らない」と評した。
日々の反省
趙抃は日々の行いを、夜には必ず衣冠を正し香を焚いて天に告げ、告げられないことは行わなかった。