宋名臣言行錄後集卷十五 唐介
出自と生い立ち
唐介、字は子方、質肅公。荊南の人。進士に挙げられ、仁宗・英宗・神宗に仕えて参知政事に至った。
張堯佐の昇進批判
張堯佐は進士に及第し員外郎まで昇り、開州知事だったが、姪女が仁宗の寵愛を受けたことで急速に昇進し、一日で宣徽・節度・景霊・群牧使を兼任するに至った。唐介は上疏し楊国忠の故事を引いて戒め、諫官の包拯・呉奎ら7人とともに殿上で論列した結果、堯佐の宣徽・景霊両使は奪われ、唐介は敢言を賞されて六品の服を特に加えられた。間もなく堯佐が再び宣徽使・河陽知事に任じられると、唐介はひとり争ったが覆せなかった。仁宗が「これは中書からの案だ」と諭すと、唐介はさらに、宰相の文彦博が益州知事のとき灯籠錦を貴妃に贈って宰相の位を得、今また宣徽使を通じて堯佐と結んでいると論じ、彦博の罷免と富弼の登用を求めた。また呉奎の日和見・姦計を厳しく非難した。仁宗は激怒して上奏を退け、唐介を貶謫すると告げたが、唐介は最後まで読み終えて「臣は忠義に憤激し、鼎鑊(釜茹で)も辞さない」と述べた。仁宗は二府を召しこの疏を示し、「彦博が貴妃によって政を得たとは何事か」と怒った。唐介は面と向かって彦博に「自省すべき、隠すことはできない」と質し、彦博は拝謝を繰り返した。枢密副使の梁適が唐介を殿から叱り下がらせようとしたが、唐介はますます激しく諍い、仁宗の怒りは激しく声も厳しかった。周囲は禍が予測不能な事態になることを恐れたが、蔡襄が起居注として殿陛に進み出て「唐介は狂直だが、諫言を容れることは人主の美徳、寛大な処置を望みたい」と言った。制舎人が殿廬で草制し、秦州別駕に貶され、翌日には英州別駕に改められ、さらに翌日には彦博を罷免し呉奎を出させ、中使を遣わして唐介を貶所まで護送させ、道中で命を落とさぬよう戒めた。
張貴妃の贈り物を巡る仁宗の怒り
仁宗が張貴妃の閣に幸したとき定州紅甆器を見つけ、王拱辰の献上と知ると怒って「臣僚からの贈り物を通じるなと戒めたのに」と柱斧で砕いた。また貴妃が「燈籠錦」を着て端門での宴に侍った際も、文彦博が陛下の寵愛ゆえに献上したものと知り不快に思った(潞公夫人が贈ったもので彦博は知らなかったとの説もある)。
貶謫後の逸話
晁以道によれば、唐介が嶺南に貶されて出発する際、仁宗は中使に金を賜わせ、便殿にその肖像を描かせたという。
潭州での逸話
潭州の巨賈が蚌胎(真珠)を密蔵し関吏に摘発された際、太守以下が評価額を軽くして自ら買い取っていた。唐介は言事により潭州倅に貶されていた時期に、この珠の獄事を発見して奏上した。仁宗は近侍に「唐介は必ず買わないだろう」と述べ、案を確認すると果たしてその通りであった。(湘山野録)
御史としての言行
復州知事に改められる前に召されて言事御史となり、仁宗は「卿は貶謫以来一度も私書を京師に送っていない、節を曲げなかった」と称えた。唐介は拝謝して退き、以前同様言事に躊躇しなかった。揚州知事、江東転運使を経て、御史の呉中復が召還を請う際、唐介の言路が正しかったことを弁じ、潞公(文彦博)が再び当国したときも唐介が御史として言ったことは的中していたと述べ、召還された。(劉忠肅、神道碑を撰す)
仁宗晩年への諫言
至和以後、仁宗が朝に臨んで沈黙がちになると、唐介は「君臣は天地のごとく交泰を治とする」として、時に群下に諮問し徳音を発するよう求めた。また賞罰は貴賤によって軽重すべきでないとし、孫沔・呂溱の放縦を厳しく責めるべきと論じた。宮禁が私に恩沢を求め中書を経ない人事(斜封)を戒め、後宮の冗員を削減し不経の祈祷を罷めるよう求めた。士節が立たないことを憂い、大臣は敦厚忠朴の士を進め、聚斂の文法吏を抑えて刻薄浮競の風を消すよう求めた。
治平年間の言行
治平元年、侍御史中丞に召され、英宗から「卿は先朝で直言の名があり、今回は朕自ら選んだ、側近の推薦ではない」と告げられた。唐介は「先帝在位40余年、天下が安楽だったのはただ仁政のためであり、聖度を広げ恩徳を広めれば善き継承となる」と述べた。
濮議での言動
外に出ていても常に朝廷を憂え、濮議が起こって多くの言者が罪を得ると、唐介は憂色を見せ、密かに疏を上げて貶謫された台諫の復帰を請うた。
参知政事としての姿勢
参知政事を拝すると、直道により昇進したことに感慨を深め、君に仕える誠を尽くした。人材登用では才の適否を明言し、恩を立てず怨みを避けず、同僚と政事を論ずるときも祖宗の法に阿らなかった。近臣の進退にも慎重を極め、帝前でも是非を徹底的に論じ、帝はますます信頼を寄せ、天下はその風采を仰いだ。
王安石との論争
王安石とともに参知政事を務めたが議論はほとんど合わなかった。安石が馮道を「屈身して人を安んじる菩薩行のような人物」として好んだことについて、唐介は「馮道は宰相の座を易くし四姓十主に仕えた、これが純臣と言えるか」と反論した。安石は伊尹が湯・桀のもとを五度行き来した故事を引いて弁護したが、唐介は「伊尹の志があれば別だが」と切り返し、安石は色を変えた。
子への教え
「私は政府に位し、知って言わぬことはなかった。お前たちのために桃李を植えたことはないが、荊棘は多く残しただろう。しかし窮達はすべて天命、ただ自ら努めるほかない」と子に語った。
熙寧初年の政局
熙寧初、富弼・曾公亮が宰相、唐介は趙抃・王安石とともに参知政事となった。安石が神宗の信を得て新法を鋭意進める中、同僚のうち誰一人これに賛同せず、台諫の弾劾も絶えなかった。呂誨・范純仁・銭顗・程顥らの非難は特に激しく、天下は安石を「生事」の徒と見た。鄭獬(鄭公)は病、曾公亮(魯公)は老齢を理由に退き、唐介は上前で争い続けるも勝てず、まもなく背中の腫瘍で死んだ。趙抃(少師)は力及ばずただ終日嘆息し、事が改まるたびに数十度嘆いたという。当時、中書には「生老病死苦」があると言われ、安石が「生」、韓絳(明仲)が「老」、富弼(彦国)が「病」、唐介(子方)が「死」、趙抃(閲道)が「苦」に当たると評された。
人物評
唐介は簡潔剛毅な性格で敢言をもって恐れられ、言官の欠員があれば衆はいつも唐介をその任に推した。神宗はその直名により重く用いたが、政府にあった時期はちょうど新法の時代で発言の余地が限られ、諫官・御史時代ほどの名声は上がらなかった。
孫抃の推薦
参知政事の孫抃が御史中丞のとき、唐介と呉中復を御史に推薦した。「両者と面識もないのに推薦するとは」と問われた孫抃は、「昔の人は自ら御史に名乗り出ることを恥じた、今さら面識を求める必要があろうか」と答えた。後に両人とも風力ある人物として天下に知られ、孫抃は晩年執政となった際「私が政を輔けた功はなにもないが、この2人の台官を推薦したことだけは恥じない」と述べた。