宋名臣言行錄後集卷十四 劉敞

出自と生い立ち

劉敞、字は原夫。吉州臨江の人。進士甲科に及第し、仁宗・英宗に仕えて集賢学士に至った。

大楽議定への諫言

直集賢のとき、大楽の議定に天子が中貴人(宦官)を関与させようとした。劉敞は「王事で楽ほど重いものはなく、今や朝廷には十分な学識と議論があるのに、趙談のような者を介在させれば袁盎の笑い物になる」と諫めた。(弟の劉攽、行状を撰す)

古渭州の放棄を巡る建策

秦州が羌人と古渭州を争った際、劉敞は「新城が秦州を守るのに十分でも際限なき胡族の脅威を招くなら国を傾けても守るべきだが、地形や利害が釣り合わないなら国財と民力を損なってまで争うべきではない」と論じたが、意見は通らず秦州は古渭州を保持し続け、そのため多事となり財用も枯渇した。

夏竦の諡号を巡る論争

考功を判じていたとき、夏竦が薨じ「文正」の諡が下ろうとした。劉敞は「これは我が職務」として上疏し、諡は有司の事であり竦の行いは法にかなわないと論じ、疏を3度上げた末に、天子はその守職を嘉し諡を「文荘」に改めた。(陳公、墓誌を撰す)

知制誥としての諫言

陳丞相が「脩注に就いて未だ1ヶ月」と難じた際、仁宗は「官資日月を計るものか」と退けた。その後、朝廷が礼院からの問い合わせに対し礼生が擅に印状を発した事件で、知礼院事の呉充が禮生を罰し出官に処したことについて、劉敞は「朝廷が久安に慣れ吏が因循し、些細な振作に対して過重な処罰を科すのはおかしい」と上疏、また馮京が言事により職を奪われた際も「呉充は職務を果たしただけ、馮京にも他意はなかったのに、中書がその率直さを憎み容認しなかった」と論じ、人主が直言を容れないことの害を説いた。5日後、鎮戎軍で地震が起こり、都でも雪の後に太陽が昏濁するなど劉敞の言った通りの異変が続き、上は威権を収め聡明を蔽われぬよう法令を行うことに深く納得した。

正臣の外補を止めるよう進言

両制の諸公が郡への補任を求める中、劉敞は邪臣正臣の別を論じ、正臣は進みにくく退きやすい、邪臣は進みやすく退きにくいとし、呂溱・蔡襄・欧陽脩・賈黯・韓絳らは真の資質を持ち私心のない有益な人材であるとして、その外補を容易に許すべきでないと進言し、仁宗は欧陽脩らを留めた。

石全彬の観察使昇進を阻止

宦官の石全彬が功労により宮苑使から観察使に転じようとしたが、劉敞は詞頭を封じ返し草制せず、その人事は止まった。

契丹使節としての機知

契丹への使者となった際、契丹の道案内は古北口を回って千余里、都河に至る遠回りの道を取ったが、劉敞は松亭から柳河へ直行すればより近く早いはずと問い質した。契丹側は道を迂回させて険阻さを誇示しようとしていたが、劉敞の指摘に驚き実情を認めた。また順州の山中にいる異獣(虎豹を食う馬に似た獣)について問われた際、劉敞は「駮」だとしてその形状・鳴き声を説明し、契丹人を感服させた。

揚州・鄆州での治政

揚州の前任者が苛政を敷いていたため民が不安であったが、劉敞は寛簡な政治で民心を和らげた。鄆州では赴任1ヶ月余りで境内の治安が回復し盗賊も収まった。西路が旱魃で鄆州で特に蝗害がひどかったが、劉敞が入境すると雨が降り、蝗は数日で境外へ去った。

虚名の辞譲の風潮を戒める

士大夫が虚名を競い、任官を辞退しては褒められることを求める風潮が広がり、四五度どころか七八度に及ぶ辞譲や、布衣の陳烈らまでこれに倣う有様であった。劉敞はこれを「偽りによって名を求め上を惑わすもの」として、諸官の辞譲は一度か再度に限り、それ以上は旧典に基づき認めないよう建言した。

尊号加上への諫言

太廟での大祫祭に際し丞相が尊号を加えようとし、劉敞は礼部を兼ねる立場からこれを止めるよう説いた。「陛下は宝元以来20年間徽号を受けておらず、天下は陛下の持盈好謙を知っている。今さら数字を加えても聖徳を増すことはなく、かえって以前の美徳を損なう」と論じたが、富弼は「すでに上奏済みで上の意向である」として止めなかった。劉敞は退いて子弟に「臣下として可否を献ずるべきで、権門に得罪してでも主上に虚名を負わせてはならない」と語り、疏を4度上げた末、天子は「私の考えも元よりそうであった」と述べ尊号加上を断り、劉敞はこれにより時の宰相の意に逆らう形となった。

博識と予言

劉敞は書物に通じ、浮屠・老子から山経地誌・陰陽卜筮・医薬・天文まで究めた。太乙宮に斎した際、内弟の王欽臣に「歳星が虚危の間を往来し色が明るく盛んで、これは斉の地に興る者があるしるしだ」と語り、1年余り後、英宗が斉州防禦使から皇統を継いで即位した。