宋名臣言行錄後集卷十四 王素
出自と生い立ち
王素、字は仲儀、懿敏公。父の王旦の遺恩で官に補せられ、試を受けて同進士出身を賜り、仁宗に仕えて端明殿学士に至り、工部尚書で致仕した。
諫官としての建言(教育・財政・褒賞)
仁宗が政事の得失を聞こうとし、欧陽脩・余靖・王素・蔡襄が相次いで登用された頃、王素は「礼部の取士は行実を問わず文辞のみを見ており実務に応じない」として、郡国に学を置き明師を選び経術に通じさせるべきと論じた。また景徳以来、内外の無名の費用が数倍に増えたとして、三司に一年の収入を計量させ急務でない支出を省くよう求めた。皇子誕生の際、百官の進官・諸軍への大賞賚が議論されたが、元昊の叛乱で財用が不足しているため金繒を辺費に留め、官爵で戦功を賞すべきと論じ、この議は止まった。仁宗が天章閣で治乱興廃の方策を問うた際も、姑息な時政10余事を疏して人が言いにくいことをはっきり述べた。(王禹玉、墓誌を撰す)
富弼を宰相に推薦
仁宗が「大臣の中で誰が相たり得るか」と問うた際、王素は「宦官・宮妾でさえ姓名を知らぬ者でなければならない」と答え、帝が「富弼のみだ」と言うと拝礼して「陛下は人を得られました」と応えた。この人事が発表されると士大夫は皆祝った。(聞見後録)
求雨の諫言
慶暦中、京師が旱魃に見舞われた際、諫官として親ら雨乞いに赴くことを願い出た。太史が「2日に雨が降る」と予言していたが、王素は「今日必ず雨は降らない、陛下が雨が降ると期待して不誠実に祈っても天は動かない」と述べ、実際に雨は降らなかった。仁宗は西太乙宮での祈祷を求め、王素は「醴泉観は近すぎて暑さを避けているように見える」と諫めた。翌日禱に随行し、瓊林苑まで至ると西太乙宮上に香煙のような雲気が起こり、間もなく雷電を伴う大雨となった。仁宗は感激し「朕は卿によって雨を得た」と喜び、龍脳香17斤を焚いて夜半まで体が濡れるほど拝礼したと語ったが、王素は「天への畏敬は当然だが、陰気による病も慎むべき」と諫めた。
王徳用の女口献上事件
王徳用が女性を宮中に進めた事について仁宗に問われた際、王素は宮禁の事情をどこから知ったか詰問されても屈せず答えた。仁宗は「朕は真宗の子、卿は王旦の子、旧誼があるから他人とは違う」と言い、王徳用の女口を返して銭300千ずつを与え内東門から送り出したことを涙ながらに告げた。王素は「臣が憂うるのはまさに陛下の側近にこそある」と述べ、仁宗はその後、実際に女性が退出したとの報告を聞いて感動した。(聞見後録)
成都府での善政
成都府知事のとき、牙校が毎年供給する酒坊銭が年々増額され民の負担となっていたため、これを裁約した。また鉄銭が両川でのみ流通し年々鋳造されるため銭が軽く物価が高騰していたのを、鋳造を止めて10年で物価を平定させた。利州路で飢饉が起きた際は詔を待たず廩を開いて賑救し、流民を出さなかった。政事は常に民情に即して行われ、蜀人はその行いを記録している。(王公異、断ず)
御史としての気骨
出仕以来能吏と称され、台に昇ってからも風力は衰えなかった。同僚と上前で議論が合わないとき、皆が退いても王素だけは是非を論じ続け、勅命を得てから退いた。仁宗は「真の御史である」と評し、議者は王素を「独撃鶻」と呼んだ。(名賢詩話)