宋名臣言行錄後集卷十四 蔡襄

出自と生い立ち

蔡襄、字は君謨、忠恵公。興化軍の人。進士甲科に及第し、仁宗・英宗に仕えて端明殿学士に至った。

「四賢一不肖」詩

范仲淹が饒州に貶められた際、余靖が上疏して連座を願い出、尹洙も同罪を請い、欧陽脩は司諫の高若訥を書状で責めていずれも貶謫された。蔡襄は「四賢一不肖」の詩を作りこの事を記した。四賢とは仲淹・靖・洙・脩、不肖とは若訥を指す。この詩は都下に広まり、士人が争って書き写し、書肆で売る者は厚利を得た。

諫官任命を祝う詩

慶暦初め、欧陽脩(永叔)・余靖(安道)・王素が相次いで諫官に任じられた際、蔡襄は祝いの詩を贈り、忠良の士が困難な中で登用されたことを喜び、必ず帝を助けるだろうと詠んだ。3人はこの詩を上に推薦し、間もなく蔡襄自身も諫官に任じられた。

諫官としての働き

元昊の反乱で師が久しく功を上げず、天子が兵を厭い百度を正して太平を求めようとした頃、朝廷は諫官を4名増置した。蔡襄はその才名により選ばれ、権貴の不正を恐れず法を正した。翌年たびたび詔を下して農桑を勧め学校を興し弊制を改めるなど、天下は上の治を求める姿勢を実感した。この間、諫官として日々上奏し、蔡襄の補益するところが最も多かった。(欧陽脩、墓誌を撰す)

詞頭を封じ返す

御史の呂景初・呉中復・馬遵が梁丞相を論じて台職を罷免され他官に移された際、蔡襄は詞頭を封じ返し草制しなかった。以後も不当な除授があれば同様に封じ返し、仁宗はますます蔡襄を重んじ「このような子を持つ母は賢いに違いない」と冠帔を賜って母を讃えた。

陳執中の参政起用に反対

陳執中が参知政事に任じられようとした際、蔡襄は孫甫とともに「執中は剛愎で才なく、政を任せれば天下の不幸となる」と上言したが聞き入れられず、蔡襄は求めて福州知事に出た。

福州での善政

福州では閩人の風俗をよく理解し、賢を礼し学を勧めて弊害を除いた。従来閩の士人は学を好みながら専ら賦のみで科挙に応じていたため、周希孟という先生を得て経術を教授させ、学ぶ者数百人に達した。蔡襄自ら学舎に赴き経典を講じて諸生の模範となった。

文章・書画の評

蔡襄は文章清麗にして書画にも巧みだったが、みだりに人のために書かなかった。仁宗はこれを愛し、御製の元舅隴西王碑文を蔡襄に書かせた。後に温成皇后の碑文を撰した学士がこれも蔡襄に書かせようとしたが、蔡襄は「これは待詔の職務である」として辞退した。

欧陽脩との対比

蘇子容(蘇頌)は「欧陽脩は文章を語らず政事を好んで論じ、蔡襄(君謨)は政事を語らず文章を好んで論じた。それぞれ自らの得意とするところを誇らなかった」と評した。