宋名臣言行錄後集卷十三 趙槩

出自と経歴

  • 趙槩、諡は康靖公。字は叔平。応天府の人。進士に及第し、仁宗・英宗・神宗に仕えて参政に至った。

欧陽脩との関係

  • 趙槩は欧陽脩とともに館職にあり、また共に起居注を修めた。趙槩は性格が重厚で口数少なく、欧陽脩はこれをやや軽んじていた。欧陽脩が知制誥に任じられた頃、韓琦・范仲淹が中書にあり、趙槩を文才に乏しいとして天章閣待制に任じたが、趙槩は淡々として気に留めなかった。韓琦・范仲淹が朝廷を去ると、趙槩は再び知制誥に任じられた。ちょうどその頃、欧陽脩の姪が嫁いだ先で、欧陽脩の従子の張晟の妻となった女性が姦通の事件を起こし、これが発覚した際、話は欧陽脩にまで及んだ。欧陽脩は当時河北転運使であったが、韓琦・范仲淹を憎む者たちは皆欧陽脩に罪を着せようと図り、「甥と姦通した」と言い立てた。皇帝は怒り、群臣にはあえて発言する者がいなかった。趙槩はここで上書し「欧陽脩は文学をもって近臣の地位にあります。閨房の曖昧な事によって軽々しく汚名を着せるべきではありません。臣と欧陽脩との交わりは元来疎遠であり、欧陽脩の臣への待遇も薄いものですが、私が惜しむのはただ朝廷の大体であります」と述べた。この上書は快く思われなかったが、人々は皆趙槩のために恐れた。趙槩自身は平素と変わらず落ち着いていた。しばらくして欧陽脩は結局罪を得て知制誥から滁州の知事に降された。執政は密かに趙槩を諭し外任を求めさせようとしたため、趙槩は蘇州の知事として出た。喪に遭って官を去り、服喪を終えると翰林学士に任じられたが、趙槩は再び表を奉って「欧陽脩は先輩であり、これを超えて登用されるべきではありません」と辞退した。奏は聞き届けられなかったが、当時の世論はこれを美談とした。

母への孝養

  • 郊祀に際し官位が進み封爵を受けるべきところ、また一子を京官に任じることができる恩典があった。趙槩は「母を封じて郡太君とすること」を願い出た。宰相が「あなたはまさに学士に任じられようとしているのだから、その封爵はまもなく授かるだろう」と言うと、趙槩は「母はすでに八十二歳、明日をも知れません。今のうちに栄誉を得させてやりたいのです」と述べ、これが許された。後にこれは慣例となった。趙槩は審賢院の知事に転じ、秘閣を判じ、高若訥とともに流内銓を判じた。高若訥はかつて貢挙を掌っていたとき、母の病を聞いて出仕できずほとんど生きられないほどであったと語った。趙槩はこれを聞いて驚き、ただちに親の側にいられる地方官を求めようとした。宰相が「もうすぐ学士になるのだから、少し待つがよい」と述べたが、趙槩はこれを聞き入れず、ついに蘇州の知事に任じられた。

晩年の著述

  • 太子少師として致仕し、睢陽に十五年住んだが、なお読書と著述に励み、憂国愛君を旨とした。古今の諫諍の言を集めて『諫林』百二十巻を編み、これを上奏した。皇帝は大いに喜び、詔を賜って「大夫が老齢を理由に致仕して去る者は、皆その業績や事跡が朝廷に及ばないことを高しとするものだが、卿の奏上した書を見て、志ある愛君の士は、たとえ退いて山林にいても一日たりとも国を忘れないことがあると知った。座右に置いて折々に見直すことにしよう」と述べた。(蘇軾撰の神道碑)