宋名臣言行錄後集卷十三 文彦博
文彦博(諡は潞国忠烈公)。字は寛夫、汾州の人。進士に及第し、仁宗・英宗・神宗・哲宗の四朝に仕えて丞相に至り、太尉を授けられ太師として致仕した。貝州の乱を平定した功や、成都・永興軍などでの機知に富む民政で知られ、英宗擁立にも関わった。晩年は洛陽で「耆英会」を催すなど、長寿と度量の大きさで名高い北宋屈指の元老重臣。
年表(8件)
- 宝元年間河東漕運使の人選で評判となり、殿中侍御史から抜擢されて十年足らずで将から相へ至る端緒を得る
- 皇祐八年正月丁丑河北宣撫使として貝州の乱を督戦し、地下道を掘る奇策で城を陥落させ首謀者王則を捕らえる
- 至和の初め陳執中の後任として富弼とともに宰相に任じられる
- 嘉祐元年正月甲寅朔仁宗が発病した際、宦官に容態の逐一報告を命じ、両府で殿に宿直して事態を鎮める
- 熙寧二年枢密使として、宰相陳升之の上位に立つことを固辞し朝廷の序列を守る
- 元豊三年至和年間に英宗擁立を請うたことが明らかになり、神宗より功績を称えられる
- 元豊五年西都洛陽で富弼ら耆宿を集め「耆英会」を開く
- 元祐の初め平章軍国重事として起用され、九十歳にして幼主に恭しく仕える
出自と経歴
- 文彦博、諡は潞国忠烈公。字は寛夫。汾州の人。進士に及第し、仁宗・英宗・神宗・哲宗に仕えて丞相に至り、太尉を授けられ、太師として致仕した。
幼少期の逸話
- 幼い頃、仲間の子供たちと毬を打っていたところ、一人の子が毬を柱の穴に打ち込んでしまい取り出せなくなった。文彦博は水を穴に注ぎ、毬を浮かび上がらせて取り出した。司馬光も幼い頃、仲間と遊んでいた際、一人の子が大きな水甕に落ちて水に沈みかけ、他の子供たちは驚いて逃げ出し助けることができなかったが、司馬光は石で甕を割り、その子を助け出した。見識ある者は、この二人の仁と智が並外れていることを知った。(『聞見後録』)
若き日の評判
- 宝元年間、河東で漕運使が欠員となり、朝廷でその適任者を選ぶのが難しいと議論していたとき、章郇公(章得象)は「搢紳の間で文彦博という人物が磊落(度量が大きい)と評判だと聞いている」と述べた。呂夷簡(許公)は「まだ会ったことがないのが残念だ、召して面談してみよう」と言った。翌日召見し、退出後、呂夷簡は「これは大いに福のある人物だ、どのような役職にも用いられよう」と嘆じた。そこで殿中侍御史から任用が始まり、翌年には待制に昇進した。十年を出ずして将から相へと至った。(趙旦『萊公録』)
成都での米価対策
- 成都にあったとき、米価が高騰した。文彦博は城門近くの十八の役所すべてに命じて価格を下げて米を売らせ、数量を限らなかった。街の要所に高札を掲げると、米価はまもなく下がった。以前は升や斗単位で数量を制限して売ったり、市場の価格を抑えたりしていたが、それはかえって商人の勢いを増長させるだけで、結局価格を安定させることができなかった。これにより事に臨むには方策が必要であることが分かる。(『東斎記事』)
兵の統率における寛容と厳格
- 益州の知事であったとき遊宴を好み、あるとき鈐轄の役所で宴を催して夜遅くまでやめなかった。従卒たちが馬小屋を勝手に壊して薪にしてしまい、止められなかった。軍校がこれを報告すると、座にいた客たちは震え上がった。文彦博は「天が実に寒いのだから、壊して薪にしてやるがよい」と言い、表情も変えず宴を続けた。兵たちの気勢は削がれ、それ以上の乱れは起こらなかった。
貝州の乱の平定
- 樞密直学士の明鎬が貝州を討伐していたが長らく落とせず、皇帝は深く憂慮し両府に相談した。参知政事の文彦博は自ら赴いて督戦することを願い出た。(皇祐)八年正月丁丑、文彦博は河北宣撫使として諸将を監督し貝州を討伐した。当時、枢密使の夏竦は明鎬を憎み、明鎬の上申の多くを中傷して妨害していたが、文彦博は「今、軍中にあって便宜に従って事を決めることをお許しください」と上奏し、皇帝はこれを許した。文彦博は貝州に到着すると明鎬とともに諸将を指揮して城を包囲する土塁を築き攻めたが、十日余りたっても落ちなかった。牢城の兵卒の董秀・劉炳が地下を掘って城を攻める策を願い出て、文彦博はこれを許した。貝州の城は南に御河を臨んでいたので、董秀らは夜のうちに岸辺に穴を掘り、土を水に捨て、昼はその穴に隠れていたので城上からは見えなかった。しばらくして穴が完成し、練兵場から出てくると、董秀らはこれを褐色の袍で塞ぎ、文彦博に報告した。敢死の兵二百人を選び指使に統率させ、口に枚(さるぐつわ)を含んで音を立てずに穴から入らせた。虞候の楊遂がこれに従うことを願い出て、楊遂は「軍中には咳をする病人が数名いる、これを連れて行くわけにはいかない、交代させてほしい」と申し出て、これが許された。穴を出て城壁に登ると守備兵を殺し、綱を垂らして城外の兵を引き入れると、城内は驚き混乱した。ついに王則(乱の首謀者)を生け捕りにした。
永興軍知事時代の危機対応
- 永興軍の知事であったとき、起居舎人の毋湜(鄠の人)は至和年間、陝西の鉄銭の廃止を上言していた。朝廷はこれに従わなかったが、その郷里の人々の多くはこの噂を知り、こぞって鉄銭で物を買おうとし、売る側は受け取ろうとしなかった。長安ではこのために混乱が生じ、多くの店が閉められた。属官は禁令を出すよう請うたが、文彦博は「これではかえって民の疑いと動揺を助長するだけだ」と述べ、絹布を扱う商人を召し、その家から数百匹の絹布を出させて売らせるよう命じ、「代金はすべて鉄銭で受け取り、銅銭は使わないように」と告げた。これにより人々は鉄銭が廃止されないことを知り、市場は再び落ち着いた。
宰相への抜擢の経緯
- 至和の初め、陳執中(恭公)が宰相を罷められると、文彦博と富弼が共に宰相に任じられた。制を宣する際、皇帝は密かに小宦官を百官の列の中に紛れ込ませてその議論を聞かせた。両者は長く人望を集めていたが、一朝にして再び用いられることになり、朝士たちは互いに祝賀し合った。宦官はこれを詳しく報告し、皇帝は大いに喜んだ。私(記録者)はその後、学士として垂拱殿で奏事をした際、皇帝から「新たに任じられた文彦博らについて世評はどうか」と問われ、朝士が互いに祝賀していたことを答えた。皇帝は「古の君主は人を用いるのに夢占いや卜占によることもあったが、人物を知らなければ人望に従うのがよい。夢占いや卜占などどうして頼りになろうか」と述べた。それゆえ私(記録者)が文彦博への詔の返答を起草した際「思えば殷・周の記録には、夢や卜占によって賢を求めたとあるが、それは搢紳の公論に従い、内外の人望に従うことに及ぶだろうか」と記したのは、この皇帝の言葉を述べたものである。
宰相としての人材登用
- 文彦博は宰相として対面のついでに「かつて陛下から、搢紳の多くが功名を求めて走り回っており、これを抑制しなければ風俗を厚くすることができないとの仰せを聞いたことがあります。むしろ恬退(謙虚に身を引く)の人を表彰すれば、功名を焦る者たちも自ら恥じ入るでしょう」と進言し、王安石・韓維・張瓌をいずれも抜擢して用いた。龐籍が枢密使であった頃、文彦博はこれと共に兵の削減を協議し、民に落とした兵六万を、さらに給与の半分を削減する者を二万人加えた。
唐介の弾劾とその後
- 唐介が御史として文彦博を専権・党を植え宮中と結託していると弾劾した際、仁宗は怒って両府にその疏を示した。唐公(唐介)の言葉はますます激しくなり、樞密副使の梁適は唐公を叱りつけ殿を降ろさせ、詔をもって台に送り弾劾させた。文彦博だけはその場に留まり再拝して「御史が事を言うのはその職分です。どうか罪を加えないでください」と述べた。これにより唐公は貶謫され、文彦博もまた宰相を罷められた。その後、文彦博が再び宰相に入った際、まっさきに唐公を推薦し、再び召し用いた。
仁宗発病時の対応
- 嘉祐元年正月甲寅朔、皇帝は大慶殿に出御し朝会に臨み、百官が列に着き、簾が巻かれた後、皇帝は突然風〇の病に感じ、かろうじて礼を終えて退いた。己未の日、契丹の使者が辞去の挨拶に来て、紫宸殿で酒宴を設けたが、皇帝の病がまた発作を起こし、左右の者が支えて宮中に入れた。文彦博は内侍都知の史志聡・鄧保吉を召して、皇帝が宮中に入ってからの様子を問うたが、彼らは宮中の事は厳重に秘され漏らせないと答えた。文彦博は怒って叱りつけ「主上が急な病を得た事は社稷の安危に関わる。あなた方だけが宮禁に出入りできるからといって、宰相にも天子の起居を知らせないとはどういうつもりか。今後、病状に少しでも変化があれば、必ず一つ一つ来て報告するように」と命じ、さらに直省官に命じて彼らを中書へ連れて行かせ軍令状を取らせた。史志聡らはもとより慎み深い性格であったが、夕方になると各宮門の閉鎖を報告し、史志聡は「あなたたちは自分で宰相に報告せよ、私は責任を負わない」と述べた。両府はこれを聞き、皇帝の体調が不安定であることを考え、宮中に宿泊しようとしたが名目がなかった。辛酉の日、文彦博は大慶殿で祈祷の醮を設けることを建議し、両府は昼夜香を焚き、殿の西廊に幄を設けて宿泊した。史志聡らは「慣例では両府が殿中に宿泊することはありません」と告げたが、文彦博は「今、故事など論じている場合か」と述べた。戊辰の日以降、皇帝の意識が次第に清明になったので祈祷を止め、両府は交代で自邸に帰るようになったが、帰らない者はそれぞれ自らの役所に宿泊した。
枢密使としての謙譲
- 熙寧二年、文彦博が枢密使であったとき、陳升之が宰相を拝命した際、文彦博は宗室出身の大臣であるとして詔により陳升之の位を文彦博の下に置くこととされたが、文彦博は「国朝では枢密使が宰相の上に位したことはなく、ただ曹利用だけがかつて王曾・張知白の上にあったが、最後には禍いを招き敗れました。臣は文臣として粗方道理を心得ております。あえて朝廷の序列を乱すことはできません」と述べ、皇帝はこれに従った。
慶州軍乱への対応
- 慶州で軍乱が起こった際、両府が召集されて議論した。文彦博は「朝廷の施策は人心に合わせることを務め、静かで重厚であることを第一とすべきです。陛下が偏った意見を採用すべきではありません。陛下が即位されて以来、精励して治世を求めておられますが、人情がまだ安定しないのは、改革が行き過ぎたためです。祖宗の法は必ずしも行えないものではなく、ただ廃れて振るわなくなった部分があるだけです」と述べた。王安石(荊公)は「この改革を行うのは民の害を除くためです。なぜいけないのですか。もしすべてが西晋のように崩れ果てれば、それこそますます乱れることになります」と反論した。これは王安石が文彦博の言葉が自分に向けられたものと知り、力を尽くしてこれを排斥しようとしたためである。
韓琦との協調
- 韓琦(魏公)が北京(大名)の留守であった頃、李稷は国傅(皇太后の一族)の身分で漕運使を務めており、韓琦に対して傲慢な態度をとっていたが、韓琦はこれを咎めず、礼をもって厚遇していた。まもなく文彦博が韓琦に代わって留守となる際、「李稷の父の李絢は私の門下の士であった。稷が韓魏公に無礼を働いたと聞くが、父が早世して教えが行き届かなかったためであろう。私は稷をわが子のように見ている。もしこの悪癖を改めなければ、庭にてこれを訓戒しよう」と言い触らした。文彦博が着任すると、李稷が謁見に来た。文彦博は座の脇でしばらく待たせた後に出て、「あなたの父は私の客人であった」とだけ言って、李稷にわずか八回の拝礼を求めた。李稷はやむを得ずその回数だけ拝礼した。
汪輔之への処遇
- 文彦博が北京を判じていたとき、新任の運判・汪輔之という者がいた。人となりは激しく気短であった。初めて謁見した際、文彦博はちょうど役所で執務中であり、謁見の名簿を机上に置いたまま取り上げず、私邸に入って長らく出てこなかった。輔之はすでに耐えられなくなっていたが、対面すると文彦博は非常に簡略な礼をもって接し、「家人がちょうど髪を洗わせていて、運判に会うのを忘れていた、失礼を許されよ」と述べた。輔之は大いに落胆した。旧例では監司が着任して三日以内には府が必ず宴会を催すものであったが、文彦博はこれをわざと取りやめた。輔之は文書をもって日を定め府庫を検査しようとしたが、通判以下がこれを文彦博に報告しても答えがなかった。その日、文彦博の家で宴会があり、内外の事は一切取り次がないよう命じられていた。輔之は都庁で座っていたが、吏が「侍中(文彦博)の家で宴会中で、匙や鍵をお渡しできません」と告げた。輔之は怒って架閣庫(記録保管庫)の錠を壊させようとしたが、検査するものもなかった。輔之は密かに文彦博を「政務を怠っている」と弾劾した。神宗は輔之の上奏に批答を付けて文彦博に届けさせ、その中に「侍中の旧徳は貴く、北門の細務を煩わせる必要はないので、心を悩ませることはない。輔之のような下級の臣がこのように無礼を働くとは、別途処置を講じる」との言葉があった。文彦博はこれを得ても何も言わなかったが、ある日、監司たちを集めて「老いぼれで治績も見るべきものがないが、皆さんはご寛容ください」と言い、皇帝の批答を取り出して輔之に示した。輔之は恐れ入り逃げるように帰り、視察を口実に部下の巡察に出たまま、まもなく罷免された。ああ、神宗が大臣を眷顧しつつ小人を抑制する様は、まさに聖明と言うべきである。
立太子の内証を告げられて
- 元豊三年、王堯臣の子・王同老が「至和三年、仁宗の病が重くなり、内外は寒心しました。亡父(堯臣)は朝政に参与し、文彦博・富弼とともに英宗を皇嗣に立てる大計を請い、これが定まりました」と上言した。文彦博がちょうど北京から帰り、関を通って参内すると、神宗はこれについて文彦博に問うた。文彦博は「至和以来、内外の臣で皇嗣を立てることを願い出た者は多くいました。臣らも請願しましたが、その事はすぐには実行されませんでした。嘉祐の末になって、韓琦らがついにこの大事を成し遂げたのです。これは韓琦らの功績であります」と答えた。これにより皇帝は中書に手詔して「文彦博は徳を深く蓄え、善事をしても自ら誇ることがない。この大功を胸に秘め、口をつぐんで語らなかったので、内外の搢紳は誰もこれを知らなかった。今、旧臣の子がその父の功を明らかにしたことによって、初めてその本末を知ることになった。援立の功はこのように帰するところがあったのだ」と述べた。文彦博には河東・永興軍の節度使が加えられたが、文彦博は再び力を尽くしてこれを辞退した。瓊林での宴には輔臣が皆参加し、両度にわたり中使を遣わして詩を贈りその赴任を寵愛した。「その功を報じても語らない」という言葉があり、当世はこれを栄誉とした。
唐義問との交わり
- 元豊年間、文彦博が太尉として西京の留守であった頃、まだ印を交わさないうちに私邸で監司や府の官員と面会した。唐介(参政)の子である唐義問は運判であったが、退いてその客の尹渙に「先父はかつて台官であり、文彦博を弾劾したことがある。潞公(文彦博)は今、恨みを抱いているのではないか。避けた方がよいだろう」と語った。尹渙は「あの方のなさりようには必ず理由がある。しばらく様子を見ましょう」と答えた。翌日、文彦博が府の事務を引き継ぐと、順に監司や府の官員に面会したが、通常の儀礼と変わりなかった。ある人がこれを文彦博に問うと、文彦博は「私はまだ府の事務を視ていなかった時は、三公として庶僚に会う立場だった。今、印を引き継いだので、河南知府として監司に会う立場になったのだ」と答えた。唐義問はこれを聞いて再び尹渙に「あなたは潞公の器を見誤っていたようだ」と語った。ある日、文彦博は唐義問に「仁宗の朝、あなたの父上(唐参政)が台官として私を弾劾する言葉を述べ、私は貶謫され宰相を罷めて許州の判官となりました。まもなく私は再び召されて相位に戻ることになった際、私は『唐某の言はまさに臣の罪に当たるものです。臣を召される前に、まず唐某を召されないのですか』と上言しました。仁宗は私の言に従い、参政(唐介)を起用して潭州の判官とされ、まもなく大いに用いられるようになったのです。彼と私が執政として深く相知る仲になったのはこの経緯によるものです」と語った。唐義問はこれを聞いて感涙し、それ以降文彦博の門下に出入りするようになり、後に集賢殿修撰として荊南の帥に推薦された。文彦博の徳と度量は人並み外れたものであった。
耆英会の開催
- 元豊五年、文彦博が太尉として西都(洛陽)の留守であった頃、富弼(韓公)が司徒として致仕していた。文彦博は唐の白居易の「九老会」の故事を慕い、洛陽の公卿大夫で年齢・徳望の高い者を集めて「耆英会」を開いた。洛陽の風俗は年齢を尊び官位を尊ばなかったので、資聖院に大きな堂を建てて「耆英堂」と名付け、閩人の鄭奐に堂内に肖像を描かせた。当時、富弼は七十九歳、文彦博と司封郎中の席汝言はいずれも七十七歳、朝議大夫の王尚恭は七十六歳、太常少卿の趙丙・秘書監の劉几・衛州防禦使の馮行己はいずれも七十五歳、天章閣待制の楚建中・朝議大夫の王慎言はいずれも七十二歳、大中大夫の張問・龍図閣直学士の張燾はいずれも七十歳であった。当時、宣徽使の王拱辰は北京の留守であったが、文彦博に書を送って参加を願い出た。彼は七十一歳であった。ただ司馬光だけはまだ七十歳に満たなかったが、文彦博は日頃から彼を重んじており、唐の九老会に狄兼謩を加えた故事に倣ってこれを参加させることを求めた。司馬光は「晩進の身であり、文・富の二公の後に列することはできません」と辞退したが、文彦博はこれを聞き入れず、鄭奐に幕の後ろから司馬光の像を伝写させ、さらに北京に行かせて王拱辰の像も伝写させた。こうして参加者は合わせて十三人となった。文彦博は主催者としてまず妓楽を伴って富弼の邸に赴き最初の会を催した。富弼の番が来ると羊肉と酒を届けるだけで自らは出席せず、他の者は順番に会を催した。洛陽には有名な庭園や古寺が多く、水と竹、林や亭の美しい景色があり、老人たちは皆白髪白眉で衣冠も立派であった。宴が催されるたびに都の人々が集まってこれを見物した。文彦博はまた「同甲会」を催し、司馬旦(郎中)・程珦(大中)・席汝言(司封)はいずれも丙午年生まれであったので、その像もまた資聖院に描かれた。その後、司馬光は数人の公とともに「真率会」を開き、「酒は五巡を超えず、料理は五味を超えないが、野菜だけは限りなく」との約束を定めた。楚建中(正議)はこの約束を破って飲食の数を増やしたため罰として一会を催すこととなった。これらはすべて洛陽の太平な時代の盛事であった。洛陽の士庶はまた文彦博(潞公)の生祠を資聖院に建て、司馬光は神宗が文彦博に贈った「河南判官に赴くを送る」詩を榜に取って「竚瞻堂」と名付け、その中に文彦博の塑像を安置した。冠と剣を帯びた威風堂々たる姿に、都の人々は厳粛にこれに仕えたという。
契丹使者との対面
- 文彦博が朝廷にあったとき、契丹の使者・耶律永昌と劉霄が来聘した。蘇軾(軾)は詔を奉じて客の接待にあたり、使者とともに参内すると、殿門の外に文彦博の姿を見て立ち止まり、表情を改めて「これが潞公(文彦博)ですか、まさに『徳をもって人を服させる』という人物ですね」と述べた。年齢を問うと蘇軾は答え、使者は「なんとご壮健な」と言った。蘇軾は「使者は彼の容貌を見ただけで、まだその言葉を聞いていません。彼が庶務を総理し事物に応対する精練さは、若く優れた者でも及ばないほどであり、古今の事に通じ、博学強記であることは、専門の名家であってもかなわないほどです」と述べた。使者は拱手して「天下の異人です」と述べた。文彦博は洛陽に戻り、西羌の首領の温渓心という者が辺境の役人に、文彦博に良馬を献上したいと請い、辺境の役人がこれを上申すると、詔によって許された。
程頤との関わり
- 元祐の初め、文彦博は平章軍国重事として起用され、程頤(正叔)を崇政殿説書に召した。程頤は師道を自任し、侍講のたびに表情はきわめて厳粛で、続けて諷諫を行い、皇帝はこれを畏れた。文彦博は皇帝に対して非常に恭しく接し、進士の唱名の際には終日立って侍立していた。皇帝がしばしば「太師よ、少し休まれよ」と言っても、文彦博は頓首して謝すのみで立ったまま動かなかった。当時、年齢はすでに九十歳であった。ある人が程頤に「あなたが潞公に対して傲慢なのに、潞公はこれほど恭しいのはなぜか、議論する者は理解に苦しんでいる」と言うと、程頤は「潞公は三朝に仕えた大臣であり、幼主に仕えるのだから恭しくないわけにはいかない。私は布衣(無位無官)の身でありながら皇帝の師傅を務めているので、あえて自らを重んじないわけにはいかない。私と潞公とではこの点で異なるのだ」と答えた。識者はこの言葉に感服した。
陳執中に代わる宰相選び
- 至和年間、陳執中が宰相であったとき、台官の趙抃らは「陳執中には才も行いもなく、任に堪えません」と述べ、欧陽脩もまた上書して陳執中の罷免を求めた。この議論は長らく決しなかった。左右の者は仁宗が遊興を少なくし黙って何かを考え込み、憂いと焦りを表情に見せることを怪しんだ。一月余りこの状態が続いたので、皇帝に「陛下は陳執中の後任をお考えなのではありませんか」と問うと、皇帝は「そうだ」と答えた。左右の者は「後任を得ることは容易ではありませんか、どうしてそこまで悩まれるのですか」と言うと、皇帝は「この老人(陳執中)はなかなか他人を軽んじられない人物なのだ」と述べた。しばらくして文彦博と富弼を代わりに用いることになり、朝議は皆適材を得たと評した。数日後、皇帝が欧陽脩に問うと、欧陽脩は朝議の様子をそのまま答えた。皇帝は「文彦博は才があるが胆力もある。富弼は以前政府にあった頃、大変良い働きをしたが、今回はまた顧慮するところが多いのではないかと心配だ」と述べた。しばらくして「富弼は以前、深く人に中傷されたが、今回はどうして顧慮せずにいられようか。しかし以前の志を守って変えない方がよいだろう」とも述べた。まもなく文彦博は慎み畏れる姿勢を保てなくなり、後に郭申錫・李縦の黄河改修をめぐる論争の際、文彦博の意見に偏りが見られたことから、皇帝はこれによって彼を罷免した。富弼もまた結局は顧慮するところが多く建言することが少なかった。いずれも皇帝の予想通りであった。(『南豐雜識』)
若き日の県令時代の逸話
- 文彦博は私(記録者)に語ったことがある。初めて及第して大理評事・絳州翼城県の知事に任じられたが、まだ赴任していない頃、李本という客が三度訪ねて来て、ようやく面会が叶った。李本は「私の娘婿がこの県の巡検を務めています。どうかご庇護ください」と述べ、さらに「私はただお願いするだけでなく、お役に立つこともできます」と続けた。李本はその邑の戸口の状況をよく知っており、狡猾で治めがたい民について文彦博に一つの策を伝えた。その文書には「景跡人」(要注意人物)とされる者の姓名が列挙されており、その筆頭は張という姓の者であった。文彦博が着任する頃には、この張という者はすでに事が発覚して失脚しており、県ではまだ正簿・尉に補充がなく、皆「私どもはここに一年余りいますが、過ちを犯さなかったはずがなく、この人物に握られているのではないでしょうか。あなたが着任されたからには、必ずこれを解明していただきたい」と述べた。そこで文彦博はその不正の実態をすべて明らかにし、州に上申してこれを流罪に処した。邑の人々は皆畏れ入った。