出自と経歴
- 蘇洵、号は老泉先生。字は明允。眉州の人。かつて進士や茂材異等の科に応じたが及第せず、欧陽脩がその著書を朝廷に献じ、韓琦もまた重ねて推薦したことで、校書郎に任じられた。
発憤して学問に励む
- 蘇洵は若い頃学問を好まず、年齢がすでに壮年になってもなお書を知らなかったが、ついに大いに発憤し、日頃の交友をすべて絶ち、部屋にこもって書を読み文を作った。一年余りで進士に挙げられたがまたも及第せず、退いて「これでは私の学問とするに足りない」と嘆じ、それまでに作った文数百篇をすべて焼き捨て、さらに門を閉ざして書を読み、五、六年もの間文章を全く作らなかった。学識が蓄えられ満ち溢れ、抑えられて発せられずにいたが、久しくして「もうよい」と慨然として述べ、これより筆を執れば瞬く間に数千言に達するようになった。その文章は縦横に上下を巡り、自在に馳せ巡りながらも必ず深奥に至って止まった。それは彼の資質が厚かったので発するのが遅く、志が真摯であったので得るところが精緻であったためである。京師に来てからは、当時の学者は皆その賢を尊び、その文を学んで師法とした。父子(蘇洵・蘇軾・蘇轍)が共に名を知られていたので「老蘇」と号して他と区別した。(欧陽脩撰の墓誌)
文名の確立
- 欧陽脩(永叔)は蘇洵の『権書』『衡論』を一目見て「荀子のようだ」と評し、その書を宰相に献じた。これによって蘇洵の名は天下に轟き、士人は争ってその文章を誦じ、当時の文体は一変した。時の宰相韓琦(琦公)はかつて蘇洵と天下の事を論じ、「賈誼も及ばない」と評した。かつて仁宗の昭陵の礼が廃れて欠けていたとき、韓琦が大礼使となり、その事に厚く従い調達を急がせたため州県は騒然となった。蘇洵は書を送って韓琦を諫め、再三に及び、宋の華元が不臣の礼をとった故事まで引いて責めた。韓琦は顔色を変えたが、大義を顧みて過度な部分をやや改めた。蘇洵が没すると、韓琦もまた大いに自らを咎め悔い、詩を作って弔い「賢を知りながら早くにこれを用いなかったのは、私より他にない」と詠んだ。(張方平撰の墓表)
王安石批判「辨姦論」
- 嘉祐の初め、王安石の名が高まり始め、党友は一時を傾けるほどであった。欧陽脩もまた王安石と親しく、蘇洵に彼と交遊するよう勧め、王安石もまた蘇洵と友になることを望んだ。蘇洵は「私はその人となりを知っている。これもまた人情に近づかぬ者であり、天下の患いとならぬ者は少ない」と述べた。王安石の母が死んだとき、士大夫は皆弔問に赴いたが、蘇洵だけは行かず、「辨姦」一篇を作った。蘇洵が没して三年後、王安石が政権を握り、その言葉は的中したことになった。「辨姦論」の概要は次のようなものである。「山濤(巨源)は王衍を見て『天下の民を誤らせるのはきっとこの人物だ』と言い、郭子儀(汾陽)は盧杞を見て『この人物が志を得れば、私の子孫は一人も生き残らないだろう』と言った。今からこれを言えば、その道理には確かに見て取れるものがある。私(蘇洵)が観察するに、王衍の人となりは、容貌・言語には確かに世を欺き名を盗む要素があった。しかしもし晋に恵帝がいなければ、王衍が百人千人いても、どうして天下を乱すことができようか。盧杞の姦悪は確かに国を敗るに足るものであったが、無学無文であって、徳宗の暗愚がなければ、どうして用いられえたであろうか。これによって言えば、山濤・郭子儀の二人による王衍・盧杞への評価も、必ずしもそうとは言えない面がある。今、ある人物がいて、口では孔子・老子の言葉を誦し、身には伯夷・叔斉の行いを実践し、名を好む士や志を得ない者を集めて呼び寄せ、互いに語り合って私かに『顔淵や孟軻が再び世に現れた』と称しているが、内には陰険で狠猛な心を隠し、人とは異なる趣を持つ。これは王衍と盧杞が合わさって一人になったようなものであり、その禍いは計り知れない。顔の垢を洗うことを忘れず、衣の垢を洗うことを忘れないのは、人の当然の情である。ところが今、この者は違う。粗末な着物を着て豚や犬のような食事をとり、髪を乱し憂い顔をして詩書を語る。これがどうしてその真の情であろうか。おおよそ人情に近づかぬ事は大姦悪とならないものは少ない。世を蓋うほどの名声を利用して未だ形をなさぬ悪事を成就させる。たとえ治世を願う君主や賢を好む宰相がいても、なおこの者を挙げて用いるであろう。そうなればこの者が天下の患いとなることは必然であり疑いない。これは王衍・盧杞などの比ではない」。
制科での評
- 蘇軾が制科に及第した際、王安石は呂公著(申公)に「蘇軾の制策を見たか。まったく戦国時代の文章のようだ。もし私が試験官であれば必ずこれを落としただろう」と問うた。それゆえ王安石は後に『英宗実録』を修めた際、蘇洵を「戦国縦横の学」と評したという。
『権書』『衡論』への論評
- 蘇洵の『権書』『衡論』について、ある人は「その著書の名を見ただけですでにおかしい。山林に隠れる逸民ならば、後世に立言を残すべきなのに、これほど用兵の事に汲々としているのはなぜか。これでは王安石に軽んじられるのも当然だ」と論じた。これに対しては「蘇洵(大蘇)は、当時に西夏・契丹という二つの異民族の患いを取り除かなければ天下は治まらないと考えていた。また彼の『審敵篇』は晁錯が漢の景帝に諸侯の封地を削るよう説いた策を引いて『今日の夷狄の勢いは、まさに七国の勢いと同じである』と述べており、その意図は二つの異民族を掃討した後に太平をもたらそうとするものであった」と反論する声もあった。また「才ある者が用兵ばかりを事とすれば、ただ騒擾を招くだけで、いつ天下が安らぐ時が来るだろうか。仁宗の御世をもってこの二つの異民族の脅威を見れば、戦国時代よりまさっているではないか。しかし孟子は戦国時代にあってなお、その論はすべて兵を先にすることはなかった。虚名を崇めて実害を受けるべきではない」という意見もあった。ここにもまた一つの道理があろう。(〇山語録)