宋名臣言行錄前集卷十 石介

出自と経歴

  • 石介、号は徂徠先生。字は守道。兗州の人。進士に及第し、直講に至った。

苦学の逸話

  • 石介が挙人であった頃、南都に寓居して学んでいた。その困窮の中での勤勉さは世に比類がなかった。王瀆はその勤倹ぶりを聞き、客をもてなす機会に食事を贈った。石介は辞して「甘美なものは私も願うところですが、毎日それを供されるならばよいが、もし一度だけであれば、明日はどうして続けられましょうか。朝に膏粱を食べ夕には粗末な食事を嫌うのは人の常情ですが、それゆえ私はこの賜りものを受けるわけにはいきません」と述べ、食物を返した。王瀆はこれを聞いて彼を重んじた。

慶暦聖徳詩

  • 慶暦三年、呂夷簡が宰相を罷め、夏竦が枢密使を罷められ、杜衍・章得象・晏殊・賈昌朝・范仲淹・富弼・韓琦が同時に執政となり、欧陽脩・余靖・王素・蔡襄がそろって諫官となった。石介は喜んで「これは盛事である。頌歌を作るのは我が職分ではないか」と言い、『慶暦聖徳詩』を作った。その概要は「衆賢の進むことは茅を抜くがごとく、大姦の去ることは足かせを脱するがごとし」というもので、「衆賢」とは杜衍らを指し、「大姦」とは夏竦を斥けたことを指す。この詩がまだ世に出る前に、孫復(泰山先生)がこれを見て「あなたの禍はここから始まるだろう」と言った。石介は自らも不安を覚え、外任を求めて濮州の通判となった。(欧陽脩撰の墓誌)

詩中の評価

  • 『慶暦聖徳詩』には「これ范仲淹は一夔一契(古の名臣)なり」とあり、また「韓琦の器量は魁偉であり、どうして扃楔(つっかい棒)のような些事に留まろうか、大事を委ねるに足る、勃(周勃)のように重厚である」とある。その後、富弼・范仲淹は宋の名臣となり、韓琦(魏公)は両朝で国家の大計を定め、天下を泰山のごとく安泰にしたので、人々は初めて石介の人を見る目の確かさに感嘆した。

徂徠先生と呼ばれた理由

  • 石介は隠者ではなく、かつて朝廷に仕えていた。しかし魯の人々はその官職を称えず、その徳を称えて「徂徠は魯の望む先生である」と言った。魯の人々が彼を尊んだので、その住んでいた山にちなんで、その徳ある人物への呼び名として「徂徠先生」と称した。事に遭うと憤りを発して文章を作り、古今の治乱・成敗を極めて論じ、当世の賢愚・善悪を鋭く指摘し、是を是とし非を非として憚らなかった。世俗はその言葉に大いに驚き、これによって非難が沸き起こり、とりわけ小人たちは彼を憎み嫉み、力を合わせて必ず彼を死に追いやろうとした。石介は平然として動じず、「私の道はもとよりこのようなものだ。私の勇気は孟子を超えている」と述べた。

古文復興の中での役割

  • 天聖年間以来、穆修(伯長)・尹洙(師魯)・蘇舜欽(子美)・欧陽脩(永叔)が初めて古文を唱えて西崑体を改めようとし、学者はこぞってこれに従った。それでもなお楊億・劉筠風の文体を用いる者がいると、人々はこれを戯れて「まだ崑(西崑体)を止めていないのか」と言った。石介はこれを深く嫌い、孔門の大害であると考え、「怪説」三篇を作った。上篇は仏教・老荘思想を排し、下篇は楊億を排した。これにより新進の後学は西崑体を作ることも仏老を語ることもしなくなった。その後、欧陽脩・蘇軾は再び楊億(大年)を評価するようになった。

死後の疑惑と検証

  • 石介が没した後、夏竦(英公)は仁宗に「石介は実は死んでおらず、北の胡地に逃走したのだ」と讒言した。まもなく詔があり、石介の妻子は江淮に編管(居住制限を伴う配流)とされ、さらに中使を京東部の刺史のもとに遣わして石介の棺を掘り起こし、真偽を検証させた。当時、呂夷簡は京東転運使であったが、中使に「もし棺が空で石介が果たして北に逃亡していたなら、たとえその妻子を戮しても酷とは言えない。だが万一石介の遺体があり、決して背いていなかったのなら、それは朝廷が理由もなく人の墓を暴いたことになり、後世に何を示すことになろうか。石介の死には必ず遺体を棺に納めた者があり、内外の親戚や葬儀に会葬した門人も数百人はいるはずだ。柩を運び棺を移すには必ず葬儀屋の者を用いる。今、これらの者を皆呼び集めてこの場で問い質し、もし異論がなければ、皆に軍令状を書かせて保証させればよい。それでも十分に詔に応えられよう」と述べた。中使は大いにこれをもっともだと思い、数百人の証言をまとめてすべて罪状を保証させた。中使はこれを持って上奏すると、仁宗もまた夏竦の讒言に気づいた。まもなく詔があり、石介の妻子は郷里へ帰された。世人は呂夷簡を長者と称えた。夏竦が死んだとき、仁宗は弔問に赴こうとしたが、呉奎が「夏竦は多く人を欺きました。今死んでしまいました」と述べると、仁宗は憮然とした表情になった。その家に至り弔問を終えると、しばらく躊躇した後、宦官に命じて夏竦の顔にかけられた覆いを取らせて確かめた。世人はこの「棺を暴く」ことと「顔の覆いを取る」こととは、いずれも君主が疑いを抱いたことにおいては同じであると評した。これもまた報応というものであろうか。

張方平の評

  • 張方平(安道)はもとより石介を好まず、狂僻で名を盗む者だと評し、欧陽脩・范仲淹らと十分に交わろうとしなかったので、人々は彼を姦邪と見なした。ある日、曽公亮の祖父(曽致堯)の子である曽公亮(子容)の書斎を訪れた際、石介の書を見て「私の弟はどうしてこのような狂人と交わっているのか」と言い、また「黄景微はどこにいるのか」と問い、「先日、あの狂生(石介)が羔鴈(贈り物)をもって招聘したのに受けなかった」と言うと、「羊を食べてしまい絹を着てしまえばそれでよく、どうなろうと構わない、彼と辞退・受納の道理を較べる必要があろうか」と言った。曽公亮の祖父が御史中丞に任じられた際固辞して拝命しなかったが、石介はこれを非として書を送り、「御史中丞(内相)は名臣であり、あなた(子容)は賢子である。天下の期待が寄せられているのに、辞退を廉潔とすることができようか」という趣旨を述べた。張方平が見たのはこの書であった。(『蘇氏談訓』)