宋名臣言行錄前集卷九 孫甫

出自と経歴

  • 孫甫、字は之翰。許州の人。二度挙げられて及第し、仁宗に仕えて天章閣待制兼侍読に至った。

益州交子務での判断

  • 益州の交子務(紙幣発行機関)を監督した。蜀では鉄銭を用いていたが、民は取引の際の重さに苦しみ、紙を書いて銭に代える法を設けて取引の便とした。転運使は偽造による犯罪者が多いことからこれを廃止しようとしたが、孫甫は「交子は偽造できるが、銭もまた私鋳できる。私鋳による犯罪があるからといって銭を廃止できようか。ただ厳しく取り締まればよいのであって、小さな仁のために大きな利を廃してはならない」と述べた。その後結局、交子は廃止されなかった。(欧陽脩撰の墓誌)

諫官としての進言

  • 章得象(祁公)が枢密副使として朝廷に推薦し、秘閣校理を得た。当時、天子はまさに大臣二、三人を更迭する意向を強め、一時の知名の士を極めて選び、諫官を増置して欠失を補わせようとした。孫甫は右正言として諫院にあり、皇帝は諫諍を好んで受け入れ、言事の者を退けることがなかった。宮禁の事に及ぶ話題は他の者はなお言葉を選んで遠回しに諷諫していたが、孫甫だけは「いわゆる后というのは正嫡のことであり、その他は皆婢(はしため)に過ぎません。貴賤には等級があり、物の用い方は分に過ぎてはなりません。古来、女色への寵愛を初めに制さず、後になって制せなくなった者は、その禍は取り返しがつかなくなります」と直言し、皇帝は深くこれを嘉納した。
  • 保州の兵変が起こる前に、これを告げる者があったが、大臣は速やかにこれを取り上げなかった。孫甫は力説して、枢密使副はその責を負うべきだと述べたが、その枢密使とは杜衍(祁公)であった。辺将の劉滬が渭州の水洛城を築いた際、部署の尹洙は劉滬が節度に違反したとしてこれを誅殺しようとし、大臣もいくらか尹洙の議論を支持していた。孫甫は「水洛城は秦州と渭州を通じさせるもので国家の利益になる。劉滬を罪に問うべきではない」と述べ、これによって尹洙は罷免され劉滬は釈放された。尹洙は孫甫が平生親しくしていた者であった。
  • 孫甫が諫院にあって述べた進言はとりわけ益するところが多く、この三件のうち一つは他人が言いにくいこと、二つは他人が処しにくいことであった。その後、ある宰相を「某事によって退けるべきである」と述べると、皇帝はただちにこれを罷めた。これにより陳執中を参知政事とすることになったが、孫甫はまた「執中は用いるべきではない」と述べたため、皇帝はこれに困惑し、孫甫は結局自ら職を辞することを求めた。

晏殊・陳執中への諫言

  • 慶暦年間、孫甫と蔡襄は諫官となり、宰臣晏殊が官兵を使役して自邸の建物を治めさせ、安逸をむさぼり国事に向かう心が無いと言上した。これにより晏殊は政事を罷められ、孫甫らはこれを機に富弼を晏殊に代えるよう推薦した。皇帝は「宰相の進退登用は人主の任であり、臣下がとやかく指図すべきものではない」と怒り、結局陳執中を宰相とした。孫甫らは執中を用いるべきではないと極言したが聞き入れられず、辞職を求めた。(南豐雜識)

石介との議論

  • 慶暦年間、皇帝は杜衍・范仲淹・富弼・韓琦を用いて政事に当たらせ、欧陽脩・蔡襄および孫甫らを諫官とし、諸事を改めて太平の功を致そうとした。范仲淹らも力を尽くしてこれに応え、皇帝の知遇に報いようとしたが、同を好み異を憎む傾向があり、公平無私であることはできなかった。孫甫がかつて自邸にいたとき、石介がこれを訪れた。孫甫が「どこから来たのか」と問うと、石介は「今しがた富弼公のもとに立ち寄ってきた」と答えた。孫甫が「富公は何と言っていたか」と問うと、石介は「富公は、滕宗諒が慶州の知事として公使銭を用いて法に触れたことについて、杜衍は滕宗諒を重罪に処そうとしており、そうしなければ杜衍自身が退かねばならないと言い、范仲淹はその罪を軽くしようとし、そうしなければ自分(范仲淹)が辞めると言っている。富公は滕宗諒を重罪に処せば范仲淹の意に背くことを恐れ、罪を軽くすれば杜衍の意に背くことを恐れ、決めかねている」と語った。孫甫が「あなた(石介、字守道)はどう思うか」と問うと、石介は「私もひそかに憂えているところだ」と答えた。孫甫は歎じて「法とは人主が握るべき権柄である。今、富公が滕宗諒を重罪に処すことを憂えるのは范仲淹に背くことを恐れるためであり、罪を軽くすることを憂えるのは杜衍に背くことを恐れるためである。これでは法があることを知らず、人主の意にあることを考えていないのと同じだ。守道殿は平生議論を好み自ら正直だと言っているのに、どうしてこのようなことを言うのか」と述べた。

兵の増員に反対

  • 初め、元昊が河西で反乱を起こし、契丹もまた兵を辺境に近づけたため、朝廷は約定を棄てることを謀り、事に当たる者は西方でさらに禁兵二十万を増やし、北方でも土兵二十万を増やし、さらに禁兵四十指揮を増やした。また盗賊の張海らが京西・江淮を脅かし、いずれも警戒を要する事態となっていた。当時すでに大臣は更迭されていたが、なお天下に禁兵を増やすよう命じようとした。孫甫は「天下が大いに困窮している原因は浮費(無駄な出費)にあり、浮費の中で最も大きいのは兵である。今、これを減らすことができないのに、さらに増やしてよいものか。すでに兵は百万に及ぶのに、盗賊を止めることができず、ただ兵を増やそうとするだけでは、物事の先後をわきまえているとは言えない」と述べたが、聞き入れられなかった。そこで孫甫は古今の養兵の多寡による利害を極論して上聞し、大臣を詆るところが特に厳しかった。

両浙転運使として范仲淹に対す

  • 両浙転運使になった。范仲淹が杭州の知事として便宜の裁量で事を行うことがあったが、孫甫は「范公は貴い身分の大臣である。私がここで屈すれば、彼はどこであれ思うようにはできなくなる」と述べ、これにより一切を法によって律し、常に監司としての立場を保った。范仲淹は孫甫を厭う様子もなく接したが、退いてからは恨みなしとしなかった。孫甫は范仲淹に対して少しも譲らなかったが、退いてからはいつもその賢を称えていた。

硯を求めず

  • ある人が孫甫に価三十千の硯を勧めた。孫甫が「硯に何の違いがあってこれほどの値がするのか」と問うと、客は「この硯は石が潤沢で優れており、息を吹きかければ水が流れ出るほどです」と答えた。孫甫は「一日で一担分の水が汲めるのに、わずか三銭しかかからない。これを買って何になろうか」と言い、結局受け取らなかった。

唐代史への通暁と『唐史記』

  • 孫甫は博学で記憶力に優れ、とりわけ唐代の事に詳しく、君臣の行動の本末を語って当時の治乱を推し量ることができた。人に語るたびその場に身を置いているかのようで、聞く者は目の当たりにするかのようにはっきりと理解できた。それゆえ学ぶ者は「一年間史書を読むより、孫甫殿の話を一日聞く方がまさる」と言った。著した『唐史記』七十五巻は議論が広く豊かであったが、書き終える前に孫甫は没し、詔によってその書は取り上げられ秘府に収蔵された。

司馬光の跋

  • 司馬光は孫甫の『唐史記』の後に跋文を記して次のように述べた。孫公は昔この書を著すことを非常に大切にし、常にその草稿を箱に別に封じ、必ず手を清めてから開いた。家人に「もし万一水火や刀兵の急難があれば、他の財貨はすべて棄ててもよいが、この箱だけは失ってはならない」と語った。公私の暇があるたびに増減改訂を行い、手放すことがなかった。江東の転運使であったときも、管内を巡視する際にはこれを携え、駅亭に休むときにはすぐに取り出して手を入れた。あるとき宣州に急変があり、駅馬で急いで駆けつけねばならず、これを携えていく暇がなかった。出発したのち、金陵で大火が起こり転運使の役所にまで延焼したが、弟子の察はその箱を自ら背負い沼の中の島に避難させた。孫甫は宣州でこれを聞くと急いで戻り、「唐書はあるか」と問うと、察は「あります」と答え、孫甫は喜び、他に何も問わなかった。若い頃から白髪になるまでかけて完成させたが、人に見せることはなかった。文彦博(潞公)が執政であったとき、かつて孫甫にこの書を借りようとしたが、孫甫は与えず、ただ姚崇・宋璟の論評だけを記して与えた。まして他の人には見せることはなかった。

蘇軾の評

  • 蘇軾(内翰)は李薦への返書に「示された孫之翰(孫甫)の『唐論』を私は面識が無いが、これを読んで凛然としてその人となりを知った。至極の議論として、褚遂良が劉洎を讒訴しなかったこと、太子瑛の廃位は張説によること、張巡の敗北は房琯によること、李光弼が史思明を図るべきでなかったこと、宣宗には小さな善行はあっても人君としての大きな見識は無かったことなど、いずれも旧史の及ばぬところである」と述べた。