出自と経歴
- 王質、字は子野。文正公(王旦)の甥にあたる。蔭補で官を得、召試により進士及第を賜り、仁宗に仕えて天章閣待制に至った。
蘇州通判時代
- 蘇州の通判であったとき、州の知事の黄宗旦は新進の身で王質を軽んじる傾向があり、政事を議論する際「若造がこの老人と事を争うのか」と言うことがあった。王質は「命を受けて君に佐(たす)ける身、事に当たっては争うべきものは争うのが職分です」と答えた。黄宗旦はしばしば言い負かされたが、政事はいつも過ちなく行われ、次第に王質の助けに恩義を感じるようになった。黄宗旦が私鋳銭を犯した盗百余人を捕らえ、王質にこれを託そうとしたところ、王質は「事件が発覚したのに痕跡が無いなら、どうやってこの者たちを見つけたのか」と問うた。黄宗旦が「策略を用いて引き出したのだ」と答えると、王質は表情を改め「仁者の政において、策を用いて人を釣り出し死に至らしめて、それを喜んでよいものでしょうか」と述べた。黄宗旦は恥じ入って服し、その獄をゆるやかに処理することにした。これにより初めて王質を大いに称え「君子である」と言った。
湖北転運使としての施政
- 湖北転運使に転じた。ちょうど西方への出兵で財用が逼迫していた時期であったが、王質独り余分な租税を進上せず、租税の徴収を寛やかに保ち通常の法に従って治めた。そのため他の路(行政区)は弊害に苦しんだが、荊湖の民は平常のままであった。
吏部流内銓での公正
- 吏部流内銓を判じ、称職と評判であったが、選法(人事登用の規則)についてはかつて変更したことがなかった。ある人がその理由を問うと、王質は「選法は既に完備しており、秤(はかり)のように、これを執る者がその軽重を欺かなければよいだけだ。何のためにしばしば法を変える必要があろうか」と答えた。
范仲淹を送る
- 范仲淹が言事によって饒州に貶謫され、朋党への処分がまさに厳しく行われようとしていた時、王質は独り病を押して子弟を率いて東門で餞別を行い、数日にわたり見送った。大臣の中には王質を「あなたのような長者もこのようなことをするのか、何を苦しんで自ら朋党の疑いに陥ろうとするのか」と責める者があった。王質は「范仲淹殿は天下の賢者です。もし彼に党する者となれるなら、それは私にとって厚い恵みです」と答え、これを聞いた者は皆首をすくめた。(欧陽脩撰の神道碑)
王旦の清廉を継承
- 王旦(文正)が中書舎人であった頃、家はたいへん貧しく、人から金を借りて兄弟を養っていたが、期限までに返せず、乗っていた馬を売って返済に充てたことがあった。王質は家蔵の書物を調べていてその借用証文を見つけ、家人を呼び集めて示し、「これは先人の清廉の証しである。我らはこれを奉じて堕とすことのないようにすべきであり、大切に秘蔵すべきである」と言った。また、顔真卿(魯公)が尚書であった頃、李大夫に米を乞うた墨帖を見つけ、これを石に刻んで模写し、あまねく親戚・友人に贈った。王質は生涯貪ることなく、赴任先ではどこでも清廉の評判があった。(范仲淹撰の墓表)