宋名臣言行錄前集卷九 尹洙

出自と経歴

  • 尹洙、字は師魯。河南の人。進士に及第し、仁宗に仕えて起居舍人に至った。

范仲淹への連座を願う

  • 范仲淹が饒州に貶謫された際、諫官・御史はあえて発言しようとしなかったが、尹洙は上書して「范仲淹は臣の師友です。共に貶謫されることを願います」と述べ、自ら郢州の監酒税に貶された。(欧陽脩撰の墓誌)

劉湜の糾問に動じず

  • 慶暦年間、尹洙は范仲淹らと親しく交わっていた。范仲淹らが朝政を罷められると、尹洙もまた当時の宰相に迎合しない者と見られ、渭州にいたときの事を取り上げられて糾問され、獄が設けられ劉湜が糾問にあたった。ある日、劉湜は尹洙に「龍図閣(尹洙)は銀を偏提の形に鋳造し、銀の支給には記録があるのに偏提の受領には帳簿が無い。龍図閣は死罪に当たるだろう」と告げた。尹洙は「これでは私を罪に問うには足りません。銀を偏提に鋳造したのは某の工匠が担当し、某の帳簿に付けてあります。取り寄せてご覧ください」と答えた。劉湜が帳簿を調べると果たしてその通りであり、尹洙を害することができないと知って歎息するのみであった。
  • その後、尹洙が随州にいた頃、孫甫が安州の知事として随州を通り、二人は親しく語り合い、幾月も語り尽くしたが、尹洙は一言も劉湜のことを口にしなかった。孫甫が「劉湜はあなたを死に追いやろうとしたのに、あなたは一言もそのことを言わないのはなぜか」と問うと、尹洙は「劉湜と私にはもともと不足に思うことは何も無かった。用事を望む者が私を害そうとし、劉湜がそれに乗じて自ら立場を守れなかっただけだ。私が劉湜を恨む理由がどこにあろうか」と答えた。孫甫はその見識の深さに深く感服した。孫甫はまた「尹洙は自ら、平生善を好む心は悪を憎む心より強いと言っていた」と語り、孫甫も「まことにその通りだ」と述べた。(南豐雜識)

范仲淹の臨終に立ち会う

  • 尹洙が均州に左遷されていた頃、范仲淹(希文)は鄧州の知事であった。尹洙が病を得ると、勝手に官を離れて鄧州に赴き、後事を范仲淹に託した。范仲淹は毎日その病を見舞った。ある朝、尹洙は急いで范仲淹を呼びにやった。范仲淹が着くと、尹洙は「私は今日必ず死ぬだろう。人は死に瀕する者は必ず鬼神を見ると言うが、これは信じられない。私には何も見えず、ただ気息が奄々として尽きようとしているのを感じるだけだ」と語り、机にもたれて座り、しばらく范仲淹と語らった後、「あなたは出て行くがよい。私はもうすぐ逝くだろう」と言った。范仲淹が出て役所に着くと、すでにその家から哭泣の声が聞こえていた。范仲淹は力を尽くしてその葬儀を執り行い、妻子を洛陽へ送り届けた。

兵事への通暁

  • 尹洙は天下無事の時にも独り兵事を論ずることを好み、「叙燕」「息戍」の二篇を著して世に行われた。西方での戦事が起こってから五、六年、常にその中にあり、西方の事情に特に通じていた。土着の兵で戍卒に代えて辺境の費用を減らし、防禦を長く保つ策を講じようとしたが、いずれも実施される前に元昊が臣従して西方の兵の警戒が解かれ、尹洙もまた職を去って罪を得るに至った。

人柄

  • 尹洙は天性慈愛深く、内は剛強で外は温和であった。小さくとも憐れむべき事があれば必ず心を痛め表情に表れたが、大事に臨み大事を決断するときは心は金石のように動じず、鼎鑊(釜茹での刑)に処されようとも変わることがなかった。

古文復興における位置

  • 文章は唐の衰退以来、日に日に浅薄俗悪となり、はなはだ弊害が甚だしくなった。宋朝では柳開(仲塗)が初めて古道をもってこれを発揚したが、結局大いに振るうことはできなかった。天聖の初め、尹洙は独り穆修(伯長)と共に当時の風潮を正し、力を尽くして古文を主とし、次いで欧陽脩(永叔)を得て、その雄渾な言葉で人々を鼓舞させたことで、後学は大いに悟り文風は大きく変わった。(韓琦撰の墓表)

春秋学に基づく文章

  • 尹洙は『春秋』に深く通じていたので、その文章は謹厳で言葉は簡約、道理は精緻であった。上奏・疏議には大いに風采が見られ、士林はこれを仰ぎ慕った。(范仲淹撰の文集序)

古文運動における尹洙の位置づけ

  • 宋朝の古文は、柳開(仲塗)・穆修(伯長)が初めてこれを唱え、尹洙兄弟がその後を継いだ。欧陽脩(文忠公)は若い頃、駢儷の文を得意としていたが、河南に官として赴いてから初めて尹洙を得て、韓愈(韓退之)の文を学ぶようになった。欧陽脩と尹洙とは文章の趣は異なるが、欧陽脩が古文を為すようになったのは尹洙より後であった。『五代史』のように、欧陽脩はかつて尹洙と分担して撰することを約束していたが、その後尹洙は子がないまま死に、今欧陽脩の『五代史』が学官に頒布されて世に広く行われているが、その中に果たして尹洙の文があるのか、それとも欧陽脩が自ら著したものなのか。欧陽脩は尹洙の墓誌を撰してその文を論じ「簡にして法有り」と述べ、また人に「孔子の六経の中では『春秋』のみがこれに当たる」と語ったというから、欧陽脩は尹洙を軽んじてはいなかったのである。崇寧年間、『神宗正史』を改修した際、欧陽脩伝には「同時代に尹洙という者もまた古文をなしたが、洙の才は欧陽脩に及ばない」と記されているが、これは史官が皆学問浅く若輩で、先輩の文章の淵源にはおのずと順序があることを知らなかったためである。

潁州西湖の楼館記

  • 天聖・明道年間、銭惟演(文僖公)が枢密使から西都(洛陽)の留守となったとき、謝絳(希深)が通判、欧陽脩(永叔)が推官、尹洙(師魯)が掌書記、梅堯臣(聖俞)が主簿を務め、皆天下の名士であった。銭惟演は府邸に双桂楼を建て、西城に臨園駅を造営し、欧陽脩と尹洙に記を作らせた。欧陽脩の文が先に成り、千余言に及んだが、尹洙は「私はわずか五百字で記すことができる」と言い、文が成ると欧陽脩はその簡潔で古雅なことに感服した。欧陽脩はこれ以降、初めて古文を作るようになったという。(聞見録)

韓琦の評

  • 韓琦(魏公)は「范仲淹(希文)は常に、身を安んじてこそ国家を保てると勧めていたが、尹洙(師魯)はそうではないとし、まさしく国家に臨んでは自分の身を顧みるべきではないと述べていた。范仲淹はその説を重んじていたが、性分として好むところは尹洙の方に適っていた」と語った。