宋名臣言行錄前集卷八 吳育

出自と経歴

吳育、諡は正粛公。字は春卿。建州の人。進士甲科に及第し、賢良方正科に挙げられ、仁宗に仕えて位は参政に至った。

簡厳な治政

吳育は政を行うに簡にして厳であった。開封を治めるにあたりとりわけ豪猾(横暴な有力者)を先に取り締まり「私にはこの人々に対して何をなすことがあろうか、その害をなす者を取り除くだけだ」と語った。以上欧陽公が撰した墓誌による。

元昊の反乱を予見

宝元の初め、元昊の傲慢な国書が届いたとき、張鄧公(張士遜)が宰相になったと聞くとすぐに和議を絶ち罪を問うべきと議論された。当時西辺の備えは久しく緩んでおり兵事に疎かった。識者はこれを憂えた。吳育は当時諫官として「夷狄は礼義を知りません、彼らと争うべきではなく、その求めるところを許して口実を与えないようにすべきです。事が起こってから密かに辺境の臣に命じて戦備を整えさせれば、一、二年のうちに戦守の計が立ち、元昊が妄動しようとしても深く害をなすことはできないでしょう」と上言した。奏文が入ると、張鄧公は笑って「人は吳舎人(吳育)を風変わりな性格だと言うが、まさにその通りだ」と言った。まもなく和議が断たれると、元昊は無人の境を行くように侵攻した。数年後、力尽きて和を求め、毎年の賂を増やし、名を「兀卒」と改め、朝廷も結局それ以上問わなかった。世人はここに至って吳育の言葉が正しかったと認めた。

職を賭して争う

吳育はかつて賈丞相(賈昌朝)と皇帝の前で議論を争った。殿中の人々は皆恐れて顔色を変えたが、吳育は議論をやめなかった。まもなく「私が争うのは職務のためです、ただ力及ばないのであれば、どうか私の職を罷めてください、あえて争いません」と述べた。皇帝は吳育の正直さを多く認め、再び枢密副使とした。一年余りの後大旱があり、賈丞相が罷免された。御史中丞の髙若訥は洪範の説をもって「大臣が朝廷で争論することは不粛であり、それゆえ雨が時に降らないのだ」と言い、吳育もあわせて罷めさせようとした。

親子ともに朝廷に仕える謙譲

吳育が両府(枢密院)にあったとき、その父の太保公も列卿として朝請(朝廷への参内)を奉じており、父子ともに朝廷にあることを士大夫は栄誉と考えたが、吳育は落ち着かず「子が父の前に班を連ねるのは、人に法を示すべき道ではありません」と自ら言い、あえて人の子として私意で朝廷の制度を乱すことはできないと、罷免を願い出たが許されなかった。

山東の盗賊への対処

吳育が参政であったとき、山東で盗賊が起こった。仁宗は中使を派遣して視察させたが、戻って「盗賊は憂うるに足りません、ただ兖州の杜衍と鄆州の富弼が山東の民心を得ていることこそ憂うべきです」と奏した。皇帝は二人を淮南に移そうとしたが、吳育は「盗賊はまことに憂うに足りませんが、小人がこれに乗じて大臣を陥れようとするのは、国家の福ではありません」と述べた。皇帝はかつて輔臣に「吳育は剛正で用いるべきだが、悪を嫉むことが過ぎるきらいがある」と語った。

心疾のために大用されず

陳執中が宰相を罷めるとき、仁宗が「誰が代わりになれるか」と問うと、陳執中は吳育を挙げた。皇帝は直ちに召し闕下に赴かせた。ちょうど乾元節の宴に侍していたとき、吳育はたまたま酔って座ったまま眠り、突然驚いて振り向き、寝台を叩いて従者を呼んだ。皇帝はこれに驚き愕然とし、そのまま西京留台に任じた。これによって見れば、陳執中は俗吏ではあったが賢と言うべきである。吳育が宰相にならなかった運命はこのようなものであった。それにしても晩年に心の疾を得たのでは、大用は難しかった。仁宗は決して人材を見捨てる君主ではなかった。以上『東坡志林』による。