宋名臣言行錄前集卷六 宋庠
出自と経歴
宋庠、諡は鄭国元献公。字は公序。安州の人。進士に挙げられ、開封試・礼部試いずれも第一で及第し、仁宗の宰相となった。
陝西の軍制についての進言
元昊が反乱を起こし、劉平・石元孫がともに軽率に軍を失った。当時諸将のうち官の重い者が互いに陝西四路を領し、号令が統一されていなかった。加えて兵の多くが分散して堡障に駐屯していた。宋庠は「大帥に重兵を内地に収めさせ、他の将は各々一道を担当し、緩急あって警報があれば兵を分けて四方に出て援けるべきです」と進言した。この議は久しく決しなかったが、後に結局宋庠の計画どおりとなった。
天章閣での対応
皇帝が両府(中書・枢密院)を天章閣に召して書を観覧させ、詔を出して天下の利病を自ら問うた。宰相は突然のことで誰も敢えて答えなかったが、宋庠は参政としてひとり進み出て「私どもは皆二府にあり、既に万事を総べて共に謀っております。今急に諸生と同じく対策を答えるようなことはすべきではありません。中書に至って条項を上申したく存じます」と言った。退いてから数千言の文を草して奏し、後にすべて施行された。
禁兵についての建言
宋庠は「祖宗が方鎮の権を収めたとき、畿甸(都周辺)に禁兵三十万を蓄えようとした。今蓄えられている兵は精鋭ではなく、また多くが外地への戍役に補されており、根本を強くする体制ではない」と論じた。以上神道碑による。
帯の落とし物への鷹揚な態度
宋庠がかつて奏事の際、帯が緩んで文書を地に落としたが、振り向かずに歩き去った。仁宗は内侍を呼んでこれを拾わせて宋庠に渡させた。議論する者は「仁宗には人君の風格があり、宋庠には大臣の風格があった」と評した。
改名の経緯
宋庠はもと名を郊、字を伯庠といい、その弟の祁とともに布衣の頃から名声が天下に鳴り響き、「二宋」と呼ばれた。宋庠が知制誥のとき、仁宗は急速にその奨め寵愛を加え、大いに用いようとしたが、その先んじた昇進を妬む者があり、これを讒言して「その姓は国号(宋)に符合し、名(郊)は郊天(郊祀)に応じる。また『郊』とは『交』であり、『交』とは代わって取って代わるという意味だ。宋が交わるとはその言葉が不吉である」と言った。仁宗は急ぎ改名を命じ、宋庠は快くはなかったがやむを得ず名を庠、字を公序と改めた。宋庠は後に両府を歴任すること二十余年、司空をもって致仕し、福も寿もともに享受して世を終えた。一方、讒言した者は結局用いられずに終わった。これは小人への戒めとするに足るものである。
人材登用の心得
宋庠はかつて「人を傷つけることを才と誇り、あらかじめ人を疑い、聡明さを恃みにすることは、私は生涯行わない」と語った。宋庠が言官に才が足りないと斥けられ枢密相を罷めて洛陽の知事となったとき、ある挙人の行李の中に無税の物があると僕から告発された。宋庠は「挙人が試に赴くのに、誰しも何がしかの品を持たぬ者はいない、深く罪すべきではない。もし奴が主人を告発すれば、この風潮は助長すべきではない」と言った。僚属が「告発した者は実は言官の子です」と言うのは、宋庠を煽ってその者に報復させようとする意図であったが、宋庠は答えず、ただ税院に送って倍の税を科し、あわせてその奴の罪を問うて追い払った。
温厚な人柄
宋庠は雍雍として徳ある君子であった。大政に参与してからも朝廷に事がなければ廟堂の上で日々文史を閲した。後に登用され天下が太平の日が久しくなると、ますます清浄を務め特に事を為さないよう心がけたが、事を為そうとする者はこれを病とした。宋庠はかつて自ら「当時の賢者の多くは私を才なしと誹る」と語り、自詠の詩を作った。「我はもとより無心の士、終には済世の材にあらず。虚舟(からの舟)に人怒るなかれ、疑いあれば虎石も開かれん。蚊は山を負うて憂い重く、葵は日に傾きて喜び来たる。嘲りをもって強いて解こうとすれば、真意はかえって悠かなるものよ」。