宋名臣言行錄前集卷六 晏殊
出自と経歴
晏殊、諡は元献公。字は同叔。撫州の人。神童として召され試みられ、仁宗の宰相となった。
神童として召される
晏殊の父はもと撫州の手力節級(下級役人)であった。晏殊は幼くして文才があり、楊大年(楊億)がこれを朝廷に報じた。時に十二歳、真宗が面前で詩賦を試したところ、あらかじめ作っておいたものではないかと疑われたため、翌日改めて試した。その文采はますます優れ、皇帝は大いにこれを奇とし、即座に祕書省正字に任じ、龍図閣で読書させた。以上『温公記』による。
誠実さで見出される
晏殊が童子であったとき、張文節がこれを朝廷に推薦し、闕下に召された。ちょうど御試進士があり、晏殊も試験に加えさせられた。晏殊は試題を一目見て「私は十日前に既にこの賦を作ったことがあります、その草稿がまだ残っています、別の題を命じてください」と言った。皇帝はこの正直さを大いに愛した。館職にあったとき、天下は無事であり、臣僚が良い場所を選んで宴飲することが許され、当時の侍従・文館の士大夫は各々宴会を開き、市の楼や酒肆までもがしばしば設けを整えて遊興の場となっていた。晏殊は当時貧しくてそのような場に出ることができず、独り家にいて兄弟と学問を講じていた。ある日、東宮の官を選ぶにあたり、突然中書からの批(皇帝直筆の指示)で晏殊が執政に任命されたが、その理由が分からなかった。翌日皇帝に対面して確かめると、皇帝は「近頃聞くところ、館閣の臣僚は皆遊興・宴賞に明け暮れているというのに、晏殊だけは門を閉ざして兄弟と読書していると聞く。このように謹厚な者こそ東宮の官にふさわしい」と諭した。晏殊は任命を受けて対面し、任命の意図について皇帝の説明を受けた。晏殊は言葉も飾らず「私は宴遊を楽しまないわけではありません、ただ貧しくてそのための費用がないだけです。私にもし金があれば必ず出かけたでしょう、ただ金がないので出られないだけです」と答えた。皇帝はますますその誠実さを喜び、君に仕える心得を知る者として日々厚く目をかけた。仁宗の代に至り、ついに大いに用いられた。
学校の興隆
晏殊は南京の留守であったとき、学校を大いに興し諸生を教えた。五代以来天下の学校が廃れていたが、それが再興したのは晏殊から始まった。
章懿の志文をめぐる進退
章懿(李宸妃)の崩御にあたり、李淑が葬儀を護った。晏殊は志文を撰する際「生まれた子は女一人、早くに亡くなり、男子はいなかった」と記した。仁宗はこれを恨みに思い、親政の後、内府から志文を取り出して宰相に示し「先后は朕を生んだのに、晏殊は臣子として知らぬはずがなかろう。それなのに『一人の公主を生んだが育たなかった』と記している、これはどういうことか」と言った。呂文靖(呂夷簡)は「晏殊は確かに罪がありますが、宮中の事は秘され、私も宰相の位にありながらこの当時は概略しか知らず詳細を知りませんでした。晏殊が慎重を欠いたのはあり得ることですが、当時は章献太后が臨御しており、もし先后が実に陛下をお生みになったと明言していれば、その身の安否が保てたかどうか」と述べた。皇帝は黙してしばらくの後、晏殊を金陵の知事に出すことを命じ、翌日さらに遠地とみなして南都の知事に改めた。晏殊が宰相となったころ、八大王の病が重くなったとき、皇帝が自ら見舞いに行くと、八大王は「叔父は久しく官家(皇帝)に会っていない、今誰が宰相か知らない」と言った。皇帝が「晏殊です」と答えると、八大王は「その名は図讖(予言の書)に載っているのに、なぜこれを用いるのか」と言った。皇帝は帰って図讖を調べ、成敗に関わる語句を見出し、また志文の一件も思い出して、重く晏殊を処罰しようとした。宋祁が学士としてその白麻(詔書)を草するにあたり争論し、結局二官を降して穎州の知事とすることとなった。その詞には「広く産を営み資を殖やし、多く兵を役して利を規る」と記され、他の罪を理由に罪状を仕立て上げることで、晏殊は重い処罰を免れた。これは宋祁の力によるものであった。
西方の防衛策
晏殊が再び召し用いられてから、元昊が反乱し軍が陝西に出て、天下は兵事に疲弊していた。晏殊はしばしば利害を建議し、監軍の廃止を請い、あわせて陣図を諸将に授けて臨機応変に対応できるようにし、財用の出入りの要を制するなど、すべて法にかない、天子はことごとくこれを施行した。
私利を求めぬ人柄
晏殊は子弟のために恩沢を求めたことがなかった。陳州にあったとき、皇帝が宰相に「晏殊は地方にあって未だ何も請うたことがない、彼にも何か望みがあるのだろうか」と問うた。宰相がこれを晏殊に伝えると、晏殊は自ら安否を尋ねる表を奉っただけであった。それゆえ晏殊が薨去したとき、皇帝はことのほか哀しんだ。