出自と経歴
- 楊億、諡は文公。字は大年、建州の人。神童として召し出され、太宗・真宗に仕えて翰林学士に至った。
神童ぶりと立身
- 十一歳の時、太宗自ら賦一篇・詩二篇を試したところ、たちどころに作り上げた。喜んだ帝は中書へ送って再度試させ、執政が「喜朝京闕」の詩を課すとこれもすぐに完成させ、「願秉清忠節、終身立聖朝」の句を含んでいたため、宰相が表を奉って祝賀したという。
驚異的な速筆と博識
- 楊億は文章を作る際、門人・賓客と双六や投壺、談笑を交えながらも、小さな方形の紙に細筆で瞬く間に書き上げ、一字の訂正もなく仕上げた。一枚書き終えるごとに門人が書き写す係を務め、彼らが追いつけないほどの速さで数千言を成したという、当代随一の文豪であった。
- 文章に用いる故事の典拠は、常に門下の書生に調べさせて小片の紙に記録させ、書き上がった文にそれらを貼り合わせて保存したため、当時の人々はこれを「衲被(つぎはぎの布団)」と呼んだ。
契丹への国書を巡る硬骨さ
- 楊億が翰林学士として契丹への返書の草稿に「隣壌交歓」と書いたところ、真宗が自ら傍らに「朽壌・鼠壌・糞壌」と書き足して戯れに批評したため、楊億はすぐに「隣境」と改めた。翌朝、唐の故事(学士の文書が改められれば職を辞すべしとの慣行)を持ち出して辞職を求めたため、真宗は宰相に「楊億は融通が利かないが、まことに気骨がある」と語ったという。
讒言への対応(帰田録)
- 楊億は文章で天下に名高い一方、剛直で人と合わぬところがあり、これを憎む者から讒言を受けた。ある夜、禁中深くの小さな部屋に密かに召された楊億は、茶を賜られた後、真宗自身の草稿数箱を示され「これはすべて朕自身の起草で、臣下に代作させたものではない、そなたは朕の筆跡を知っているか」と問われ、恐懼して拝礼して退いた。これにより、讒言があったことを察したという。
母への孝と讒言への忍耐(青箱雑記)
- 母の病により陽翟へ帰る際、王文正(王旦)は楊億の身に害が及ぶことを恐れ、真宗に薬の下賜を求めたが、言事者(言官)はなお弾劾を続け、ついに亜卿分司に降格された。真宗が「楊億は時政を謗っていると聞くが」と問うと、王文正は「楊億は文人ゆえ諧謔が過ぎることはあっても、時政を謗ることはないと私が保証する」と弁護した。
- 執政に疎まれた楊億は、母の病により朝命を待たずに帰郷し、弟の倚と韓城で一年余りを過ごした。親友への手紙には「介子推の母子は綿上の田に帰ることを願い、伯夷兄弟は首陽山で甘んじて餓えを受けた」との句を記した。後に汝州の知事に任じられても弾劾はやまず、「既に溝壑に落とされてなお石を投げられ、蒺藜(いばら)に苦しみながらなお弓で射られるようなものだ」と嘆く書簡を親友に送ったという。
丁謂との対立と隠棲
- 丁謂が参政となった際、楊億は同僚に「賽子(さいころ)で選ばれたようなものか、それにしても大した出世だ」と皮肉り、まもなく親の病を理由に陽翟の別荘へ身を引いた。
機知に富む応酬
- 楊億は道理を独り貫く姿勢で知られ、佞弁を弄する者に「君子は知微・知章・知柔・知剛(微妙も明白も、柔も剛も知る)」とからかわれた際、即座に「小人は不恥・不仁・不畏・不義(恥じず仁ならず畏れず義ならず)」と切り返したという。
范仲淹による評価
- 范文正(范仲淹)は楊億の画像に賛を寄せ、「公は当代随一の才を持ちながらその地位は十分でなかった、それゆえ天下は公の文を知っても公の道を知らぬのだ」と述べた。かつて王文正公(王旦)が宰相府に二十年近くありながら愛憎の跡を見せなかったことを天下は「大雅」と称え、萊公(冦凖)が澶淵の危機に山のごとく動ぜず社稷を守ったことを「大忠」と称え、樞密の馬公(馬知節)が朝廷で臆せず直言したことを「大直」と称えた。范仲淹は、楊億がこの三君子と深く交わり金石のごとき信義で結ばれていたことをもって、楊億自身の道の正しさを証すものだとした。