宋名臣言行錄前集卷四 冦凖
冦凖(追封は萊国忠愍公)。字は平仲、華州の人。進士に及第し、真宗の宰相となった。契丹の澶淵侵攻に際し真宗の親征を促して和議に導いた功で知られる剛直な名臣。晩年は太后廃立の謀議が発覚して失脚し、雷州へ配流され没したが、後に仁宗が冤罪を雪いだ。
出自と経歴
- 冦凖、追封は萊国忠愍公。字は平仲、華州の人。進士に及第し、真宗の宰相となった。
若き日の剛直
- 太宗が魏に行幸した際、まだ十六歳であった冦凖は父が異民族の地で捕らわれた身の上を訴えて上書し、その言葉遣いと態度に一切の臆する色がなかったため、太宗はその名を記させ、二年後に進士に及第した。
- 十九歳で進士に挙げられた際、太宗は年少者をしばしば退けていたため、ある人が年齢をごまかすよう勧めたが、冦凖は「これから仕えようとする身で、どうして君を欺けようか」と拒んだ。
帰州巴東県での善政
- 帰州巴東県の知事であった頃、租税や賦役の期日は符令を出さず県門に人名を掲げるだけで、民は誰も遅れなかったという。「野水無人渡、孤舟盡日横」の詩句を作ったことでも知られ、庭に手植えした双柏は今も民から「萊公柏」と呼ばれ甘棠に例えられている。
太宗への直諫と刑罰偏頗の指摘
- 員外郎であった頃、奏事が太宗の意に逆らい太宗が席を立って禁中に入ろうとした際、冦凖は自ら太宗の衣を引いて座らせ、事を決してから退出させた。太宗は後に「朕が冦凖を得たのは、唐の太宗が魏鄭公を得たようなものだ」と評した。
- 大旱の年、太宗が原因を臣下に問うた際、多くは「天数であり為す術がない」と答えたが、冦凖だけは「朝廷の刑罰が偏っているからです」と述べた。太宗が理由を問うと、冦凖は両府の面前で、贓罪千万以上の参政・王沔の弟が死罪を免れた一方、少額の罪で死刑になった者がいる事例を挙げて偏頗を証明し、太宗は王沔らを罷免した。その日の夕方、大雨が降ったという(劉貢父撰萊公傳)。
忠朴で直言の人柄
- 冦凖は忠実で率直、直言を好み憚らなかったため、当時の人は「冦凖が殿に上れば百官が震え上がる」と評した。
太子擁立の進言
- 冦凖が青州にあった頃、太宗が病篤くなり呼び戻されて後事を問われた際、「我が子を知るのは父に如くはない、臣には及ばぬこと」と再三固辞したが、重ねて問われ「私が見るところ、寿王(真宗)が最も人心を得ています」と答え、太宗は大いに喜んでこれを太子と定めた。太廟参拝の帰路、百姓が両手を合わせ額に押し当てて歓喜し「少年天子である」と喜んだという。
澶淵親征を促す
- 契丹が澶淵に急迫した際、一夜に急報が五度届いたが、冦凖は封を開かず酒を飲み談笑していた。翌日、同僚がこれを真宗に伝えると帝は驚愕し、封を開かせると全て急報であった。真宗が「どうすればよいか」と問うと、冦凖は「陛下は事を終わらせたいのか、まだ続けたいのか」と切り返し、「終わらせたいなら五日を待たずに済む」と述べて澶淵への行幸を勧めた。同僚が乗り気でないと見るや、冦凖は「畢士安らはすでに車駕を発する用意をしています」と押し切った。真宗が宮中へ戻ろうとすると、冦凖は「陛下が内に入れば臣は再びお目にかかれず、大事は失われます、戻らず行かれるべきです」と諫め、そのまま六軍・百司を率いて北へ進んだ。
澶淵北門での指揮と将士の士気
- 天子が澶州に至った際、敵の騎兵は既に魏府を越えていた。真宗は南澶州にとどまろうとしたが、冦凖は北渡を強く勧め、陳堯叟・王欽若がそれぞれ蜀・金陵への避難を勧めていたことを知ると、「誰がこの策を進言したのか、まず斬って天下に示すべきだ」と一喝し、「先帝が都を建てて五十年、天下の財と兵はここに集まる、これを捨てれば陛下のものではなくなる」と説いた。真宗が席を立って厠に行った隙、殿前都指揮使の高瓊に「太尉はなぜ一言も発しないのか」と迫ると、高瓊は「相公が廟堂で決めたことに従うだけです、ただ相公が陛下に何と申し上げたのか知りたい」と応じ、冦凖は「渡河すれば河北は労せず定まる、渡らねば敵の勢いは増すばかりだ」と説明した。高瓊が「陛下、冦凖の言葉をお聞きください」と大声で呼びかけると真宗は北渡を決め、冦凖は高瓊に先に軍を渡らせ、自ら馬を牽いて真宗を奉じた。城の北門で真宗が黄色の旗(黄屋)を掲げると将士は万歳を叫んで士気百倍となった。冦凖は真宗の全権を委ねられ、号令を専決し、押し寄せた敵の騎兵数千を撃退した。
澶淵中の泰然自若
- 澶淵在陣中、冦凖は毎夜楊億と酒宴・双六・謳歌に興じ、時に高鼾で寝入っていた。真宗が様子を窺わせると、その泰然ぶりを喜び「あれほど落ち着いているならば安心だ」と語った。
和議の方針と歳幣の統制
- 契丹が講和を求めた際、真宗が「そなたの策を用いれば数百年安泰か」と問うと、冦凖は「臣の策を用いれば数百年事無し、さもなくば四、五十年後にまた戎心が生じましょう」と答えたが、真宗は「民の苦しみに耐えられぬ、しばらく講和し、四、五十年後に備える者がいると信じたい」として和議を受け入れた。
- 曹利用が講和の使者として遣わされた際、冦凖は「勅旨があっても歳幣は三十万を超えてはならない、超えれば戻ってきても私に会わせぬ、斬る」と厳命した。曹利用は震え上がり、果たして歳幣は絹銀合わせて三十万で成約した。
追撃を戒め盟好を保つ
- 和議成立後、諸将が敵を伏撃してせん滅すべきと請うたが、冦凖はこれを退け、敵をそのまま帰国させて盟約を守ることを勧めた。
天雄軍の守将選任と王欽若の脱出劇
- 真宗が澶淵に留まっていたある日、天雄軍が敵の背後に孤立した場合を憂えて「誰を守将にすべきか」と問うと、冦凖は「智将よりも福運のある将こそがふさわしい、参政の王欽若が適任でしょう」と答え、即座に勅を出させ王欽若に赴任を命じた。王欽若が驚き言葉を失う間もなく冦凖は「陛下親征のこの時、臣下が難を避けてはならない、参政は国の柱、馹馬はすでに用意した、直ちに出立せよ」と押し切り、自ら大杯(上馬盃)を酌んで飲ませた。王欽若は魏に入って以後、危機の中を守り抜き、講和後に樞密の次席に召し戻された(東軒筆録)。
些事にも厳格な吏務
- 両府がある人物を馬歩軍指揮使に選ぼうとした際、吏が先例簿を持参すると、冦凖は「一介の牙官の任命に先例を調べる必要があるのか、それでは我々の存在意義がない、国政を損なうのはまさにこうしたことだ」と叱った。
讒言による寵の衰え
- 真宗が帰還後もたびたび冦凖の功を称えたが、これを妬む者が「双六の孤注(有り金すべてを賭ける最後の一手)」に例え「陛下にとって冦凖は孤注のようなものです」と讒言し、真宗はこれを聞いて驚き、以後冦凖への眷顧は衰えたという。
天書事件と再拝相
- 大中祥符元年、天書が宮中に降ったとして改元、その後泰山でも降ったとされ封禅・汾陰祭祀が行われるなど、朝廷を挙げて天書を尊崇する事態となった。冦凖はこの時期外官にあり、天書を信じずにいたため疎んじられていたが、後に朱能が天書を献じた際、王旦は「もともと天書を信じないのは冦凖だ、彼に上げさせれば人々も疑わず服するだろう」と真宗に進言し、宦官が冦凖に迫った。冦凖の婿の王曙が宦官の周懐政と親しかったこともあり、冦凖は最終的にこれに応じ、天禧三年に中書侍郎同平章事として再び相位に就いた。
天禧末の廃立謀議と失脚・雪冤
- 天禧末、真宗の病が篤くなり章献太后が朝政に関与し始めると、冦凖は密かに太后を廃して仁宗を立て、真宗を太上皇と尊し丁謂・曹利用らを誅すべく、李迪・楊億・曹瑋・盛度・李遵勗らと謀議し、詔誥の起草は楊億に任せて準備を進めていた。ところが冦凖が酔って計画を漏らし、朱能が丁謂に急報したことから発覚し、曹利用も太皇太后に密告して冦凖は矯詔により罷免された。真宗崩御後、冦凖は謀反の疑いをかけられ海南に流される道すがら投海させられるという上官儀に似た悲運に遭い、天下はこれを冤罪と見なした。楊億は死に際して当時の詔誥・経緯を記した書を李遵勗に託し、章献太后崩御後、李遵勗はこれを仁宗に献じた。仁宗はことの本末を知って感嘆し、詔を下して冦凖の冤を雪ぎ、中書令を追贈し「忠愍」と諡した。
好士楽善と丁謂との確執
- 冦凖は士を好み善を楽しんで倦まず、丁謂や种放らはみなその門下から出た。冦凖は近しい者に「丁生(丁謂)はまことに奇才だが、重責には堪えない人物だ」と語っていた。あるとき都堂の会食で羹が冦凖の鬚を汚した際、参政であった丁謂が起って拭おうとすると、冦凖は「執政たる者が宰相の鬚を拭くとは何事か」と正色して咎め、丁謂は恥じ入り堪えられなかったという。冦凖は自らの正直さを頼み、佞人の危険を見誤ったために、後に丁謂に陥れられることとなった。
曹利用との不和と劉氏立后への反対
- 冦凖は樞密使、曹利用は副使であった頃、武人の曹利用を軽んじ「そなたは一介の武夫、この国の大体を解するはずがない」と言い放ったため、曹利用は深く恨みを抱いた。真宗が劉氏(後の章献太后)を皇后に立てようとした際、冦凖・王旦・向敏中はみな出自の低さから諫めたが聞かれず、劉氏の一族が蜀で塩井を横領する事件が起きても真宗は皇后の縁故ゆえに見逃そうとした。冦凖は法の執行を強く求めたが、この頃真宗は病がちで政務の多くを宮中で裁可しており、丁謂は曹利用と結んで冦凖の罷免を働きかけ、太子太傅への転出という形で政事を退かせた。真宗はしばらく事情を知らずにいたが、後年ふと「近頃冦凖を見ないがどうしたのか」と問うても左右は誰も答えなかったという。真宗崩御後、太后の摂政のもとで冦凖は雷州へ再貶された。
道州・雷州への貶謫と民の敬慕
- 冦凖が初めて道州司馬に貶された際、もとより邸宅を持たなかったが、百姓は督促されずとも競って瓦や木材を運び、たちまち立派な邸を建てたという。これが朝廷に伝わり、さらに海康(雷州)への再貶を招いたとも言われる。
- 雷州貶謫の際、丁謂は錦の袋に剣を収めて馬の前に掲げた使者を遣わした。冦凖が郡官と宴の最中にこの知らせを受け、迎えに出した郡官を中使が避けて伝舎に籠り、事情も告げず動かなかった。上下が惶惑する中、冦凖だけは平然と「朝廷が死を賜るなら見せよ」と使いに言わせ、中使はやむなく詔書を差し出した。冦凖は庭で拝受し、階を昇って再び宴に戻り夕暮れまで飲み続けたという。
- 冦凖が雷州で没した後、遺骸を洛陽に還葬する道中、公安を通ると民が皆迎えて祭り哭泣し、地に竹を挿して紙銭を掛けて焚いた。その竹が後に根付いて林となったため、人々はこれを神として祠を建て「相公竹」と呼んだ(麈史・名臣傳)。同様の逸話は貶謫の道中に自ら竹を挿して「朝廷に背いていなければこの竹は必ず生きる」と誓ったともいい、両説の異同があるが、後説を正しいとする見解もある。
幼少期の逸話と晩年の清貧
- 冦凖は若い頃素行に締まりがなく鷹狩りや犬追いを好んだため、厳格な太夫人(母)が怒って秤の重りを投げつけ足から血を流させたことがあり、以後改心して学問に励んだ。母の死後もその傷跡に触れるたびに涙したという。
- 樞密直学士となった当初、多額の金帛を賜った際、乳母が「太夫人が生前貧しく、亡くなった時の衣すら整えられなかった、今日の富貴を見せたかった」と泣くと、冦凖はこれを聞いて慟哭し、その金帛をすべて分け与え、生涯財産を蓄えなかった。私生活は質素で、寝室には青い帳を二十余年使い続け、破れても修理しつつ使い続けたという。
詩文にまつわる逸話
- 処士の魏野が冦凖に贈った「有官居鼎鼐、無宅起樓臺」の詩は広く知られ、真宗即位後、北使が両府の宴で「無宅起楼台」の相公はどれかと尋ねた際、誰も答えず、丁謂が通訳を通じ「朝廷が即位したばかりで南方鎮撫の重責を担い、間もなく戻る」と取り繕ったという。
鄧州の花蝋燭伝説と張詠との交誼
- 鄧州の花蝋燭は天下に知られる名産で、都でも作れないと言われるほどであったが、これは冦凖に由来する製法という伝説がある。冦凖は若くして富貴となって以来、油灯を用いず宴を好み、寝室にも夜通し蝋燭を灯した。官を去った後の役所の厠にまで蝋燭の垂れた跡が堆積していたという。対照的に杜祁公は清廉で官の灯油さえ用いず、客と静かに語らうのみであった。両者はともに名臣でありながら奢倹の違いは対照的で、杜祁公は長寿を全うしたが冦凖は晩年に南遷の禍にあったことが、後の戒めとして語られる。
- 王元之(王禹偁)の子・王嘉祐は表向き愚鈍を装っていたが冦凖はその才を知り親しく語らった。開封府知事であった冦凖が「世間は私を近く宰相になると噂している、どう思うか」と尋ねると、王嘉祐は「私見では、良い相を務めるには君臣が魚水の如くに理解し合わねばならない、あなたが明主と魚水の関係になれるか懸念しています」と答え、冦凖はその言葉に感じ入って手を取り「元之は文章では天下第一だが、見識・思慮の深さではそなたに及ばぬ」と讃えたという。
- 張忠定(張詠)は蜀の任にあった頃、冦凖の拝相を聞き「冦凖は真の宰相だ、ただし蒼生(民)に福が薄いのが惜しい」と語った。門人の李畋が理由を尋ねると「他人は千言尽くしても伝わらぬことを、冦凖は一言で言い尽くすが、任官が早すぎ登用も早すぎたため学問が足りない」と評した。二人は布衣の頃からの兄弟のような交わりで、張詠は貴顕となった冦凖にも遠慮なく面と向かって過ちを指摘した。冦凖が岐にあった頃、蜀から帰る張詠が別れ際に「霍光伝を読んだか」とだけ言って去ったため、冦凖が取り寄せて読み「不学無術」の句に至って「これは私を評したのだ」と笑ったという。張詠は別の場面でも「冦凖に蜀を治めさせても私(張詠)ほどには成せまい、澶淵での大胆な決断も私にはできなかった」と評したと伝わる。
- 冦凖が南方へ流される道中、雷陽の地図を見て、郡の東南門から海岸まで十里とあるのを見て、若き日に自ら詠んだ「到海秖十里、過山應萬重」の句を思い出し「人生の得喪とはこうしたものか」と嘆じたという。丁謂と馮拯が中書で貶謫の地を定める際、当初丁謂が崖州を、馮拯が雷州を案としていたが、丁謂自ら「崖州は再び瘴海を渡らせるのは酷ではないか」とためらい、雷州へ変更した結果、馮拯の案であった崖州へ丁謂自身が後に流されることとなり、当時の人々は「雷州で冦司戸(冦凖)に遭うとは、人生いずこで再会するか分からぬものだ」と語り合ったという。冦凖はさらに道州へ移された際、丁謂の来訪を聞くと蒸し羊を境まで送って迎え、家の僮僕を退け門を閉じて出迎えなかったが、これを分別ある態度と評する声も多かった。
附 高瓊
- 高瓊、追封は衛国烈武王。燕の人の家系で亳州に移り、太宗・真宗に仕えて太尉に至った。曾孫女は英宗の后・宣仁聖烈皇后となった。
- 澶淵で真宗が南城にとどまっていた際、高瓊は「陛下が北城に赴かれなければ百姓は父母を失ったように悲しみます」と諫言し、馮拯が「高瓊、何と無礼な」と咎めると、高瓊は怒って「あなたは文章で大臣となった身、これほど敵の騎兵が迫る中で無礼を咎めるくらいなら、詩の一つでも詠んで敵を退けてみせよ」と切り返した。真宗はついに北城へ赴き、浮橋の手前でなお躊躇う輦を、高瓊が撾(つえ)で輿夫の背を打って進ませた。北城の門楼で黄龍旗を掲げると将士は万歳を唱え、たまたま敵将の達蘭が矢に当たって死んだこともあり、敵は退いた。後日、真宗は冦凖に高瓊を中書に召させ「そなたは元来武臣だ、無理に文人の真似をして書などせずともよい」と戒めたという。
- 太祖は文臣と語る際にも文事を避け、専ら士気の鼓舞に努めた(漢の高祖が儒冠に溺れた故事に通じる態度)が、太宗は戦時にも詩賦を好み群臣に唱和させたため武事が振るわなくなり、潘美の敗北や澶淵の危機を招いたとされる。真宗が澶淵で浮橋を渡る際、高瓊が輿の轡を執って「ここは宰相方に詩の一つも詠ませるのにふさわしい場面ですな」と皮肉ったのは、当時詩賦を好んだ宰相の王欽若・陳堯叟らへの日頃の不満によるものであったという(元城語録)。
- 真宗が子の人数を尋ねた際、高瓊は「臣には子が十四人おりますが、愚か者なりに皆に読書を教えております」と答え、真宗は経史の書を賜った。高瓊は常々子らに「権勢にこびて出世を求めるな、私が節を尽くして将となったのは他人の力によるものではない」と戒めたという(王禹玉撰神道碑)。