宋名臣言行錄前集卷一 李昉

出自と経歴

  • 李昉、諡は文正公。字は明遠、深州の人。後漢の代に進士に挙げられ、太宗の宰相となった。

後周への義理立て

  • 李昉は後周の代に開封府を治め人望を得ていたが、太祖が天下を取った後も一人だけ帰順の朝賀に出ず、道州司馬に貶された。三年後には延州別駕に移されたが、内地へ戻ることを望まず、さらに二年後、宰相が「大用に足る」と奏上して召し戻された。太祖が労うと、李昉は「以前は後周に事えるように、今は同じ真心で陛下に事えます」と答え、太祖は「宰相の推薦は誤らなかった」と喜んだ。

太宗への諷諫

  • 太宗が「朕は唐の太宗と比べてどうか」と近臣に尋ねた際、他の者は太宗を持ち上げたが、李昉だけは何も言わず、ただ白居易の「諷諫七徳舞」の詞――「怨女三千放出宮、死囚四百来帰獄」の句を口ずさんだ。太宗は驚いて立ち上がり、「朕には及ばぬところがある、そなたの言葉は朕を戒めるものだ」と語った。

時政記の復興

  • 太宗の代、李昉は宋琪とともに「時政記」を月末に史館へ送る制度の復活を建議し、あわせて時政記を天子の御覧に供してから所司に付す慣行も李昉から始まった。

盧多遜への信義

  • 盧多遜と李昉は親しく、李昉は疑うことなく接していた。盧多遜が政務を執る中で李昉を誹る者があったが、李昉はこれを信じなかった。のちに太宗が盧多遜の悪事に触れた際、李昉はなお弁護しようとしたが、太宗は「盧多遜がそなたを誹ったことなど一文の値打ちもない」と言い、李昉は初めて事実を知った。太宗はこれにより李昉を「善人」と評した。

人材登用の公正さ

  • 李昉は宰相として人事を求める者があると、真に才があれば収める前は敢えて厳しい態度を取り、逆に用いる見込みのない者には和やかに接した。理由を問われると「賢者を用いるのは君主の仕事であり、私がその要望を安易に受ければ私恩を売ることになる。だから厳しくして恩を上に帰す。用いない者にも和やかに接すれば、失望させても恨みは残らない」と語った。

王旦への期待

  • 李昉はかねて王旦を将来の宰相と見込み、下級官のうちから推挙していた。病に伏した際、見舞いに来た王旦を励まし、退出後に子弟へ「この人は将来必ず太平の宰相となるだろう。ただし東封西祀(天書封禅の事)だけは救えぬだろう」と語った。