出自と経歴
- 竇儀、字は可象、薊州の人。後晋の代に科挙に及第し、宋の代に再び翰林に入った。弟の竇儼・竇偁・竇僖もみな続けて科挙に及第した。
乾徳の年号と鏡の逸話(劉貢父詩話)
- 太祖が改元にあたり「古来使われたことのない年号を」と求め、宰相は「乾徳」を提案し前代に無いと述べたが、蜀平定後、蜀の宮女の鏡の背に「乾徳四年鋳」の銘が見つかり、太祖は驚いて宰相たちに問うたが誰も答えられなかった。学士の陶穀・竇儀が「蜀の少主も同じ年号を用いたことがある」と答えると、太祖は大いに喜び「宰相は読書人でなければならぬ」と嘆じ、以後儒臣を重んじるようになったという。
翰林学士への再任(金坡遺事)
- 王著が酒の失態で貶官となり後任を選ぶ際、太祖は范質らに「前朝の学士で清廉篤実なのは竇儀だ」と述べたが、竇儀は既に端明殿学士から尚書に転じており復召しにくいと言われた。太祖は「禁中にはこの者以外にふさわしい者はいない、朕の意を伝え出仕を勧めよ」と命じ、竇儀は即日翰林学士に再任された。
趙普への評価と讒言の顛末
- 竇儀が翰林学士であった頃、趙普が専権をふるっていることに帝が不満を持ち、竇儀を召して趙普の不法を暗に問うたが、竇儀は逆に趙普の開国の元勲としての忠誠を盛んに称えた。竇儀は帰宅後、家族に「私は宰相にはなれぬだろうが、流罪にもならぬだろう」と語った。その後、盧多遜が趙普への恨みから重用され趙普の短所を攻めて罷免に追い込んだが、趙普は勲旧の功により難を逃れた。のちに盧多遜自身も参知政事から宰相となった趙普により崖州に流され、竇儀の予言が的中したという。
滁州での廉直と太祖の惜別
- 太祖が滁州を攻略した際、世宗の命で竇儀が城の財貨を記録していた。太祖が親吏を遣わして絹を取ろうとすると、竇儀は「すでに帳簿に記した以上、詔がなければ官物には手をつけられません」と拒んだ。太祖は後年もその節操を称え宰相に据えようとしたが、趙普がその剛直さを忌んで薛居正を参知政事に引き入れた。竇儀の死に際し、太祖は「天はなぜかくも早く竇儀を奪うのか」と驚き嘆いた。
弟・竇儼の建言と学識
- 竇儼は後周顕徳年間、明礼・崇楽・煕政・正刑・勧農・経武の六綱を上疏した。太祖がある夜、竇儼を殿に召したが、便服のまま出向くのを憚って屏樹の間に控えていたところ、太祖はその律義さに笑って正装を命じ、竇儼はようやく進み出た。
- 竇儼は天文星暦にも通じ、盧多遜・楊徽之とともに「丁卯の年に五星が奎宿に集まり天下太平の兆しとなる、二君はそれを見るだろうが自分は見られまい」と語ったが、乾徳年間に果たしてその通り五星が奎宿に集まったという(玉壺清話)。
弟・竇偁の直言
- 竇偁が晋王府の記室であった頃、判官の賈琰が諸王との宴でへつらいの言葉を弄するのを厳しく叱責した。太宗(当時晋王)は怒って竇偁を涇州に左遷させたが、即位後にこれを思い出して枢密直学士に召し戻し、「そなたの直言を身近で聞きたいからだ」と語った。
家法の厳粛(晋公談録)
- 竇儀は性格が厳格で家法も整然としており、客と対座する際には侍郎・起居・参政・補闕の身分順に子弟を控えさせたという。