宋書卷九十七 列傳第五十七 夷蠻

総説

  • 南夷・西南夷は概ね交州の南及び西南、大海中の洲上に位置し、互いに3千~5千里、遠いものは2、3万里も離れる。船に乗り帆を挙げて進むため道里は詳らかにできず、外国諸夷の言う里数も実数とは限らない。

林邑国

  • 高祖永初2年(421年)林邑王范陽邁が使者を送り貢献し、除授を受けた。太祖元嘉初め、陽邁は日南・九徳などの郡を侵し、交州刺史杜弘文が討伐の構えを見せると謝罪した。8年(431年)陽邁は楼船百余で九徳に寇し、交州刺史阮彌之が隊主相道生3千人で区粟城を攻めたが陥落させられず撤退、林邑はさらに扶南に借兵を求めたが応じられなかった。10年(433年)交州を領することを求めたが道が遠いと拒否された。12~18年頻繁に貢献するも侵寇は絶えず貢物も薄かったため、太祖は23年(446年)龍驤将軍・交州刺史檀和之に討伐を命じ、太尉府振武将軍宗慤を副将とし府司馬蕭景憲を前鋒とした。
  • 陽邁は討伐を知ると掠奪した日南の民戸の返還と献物を申し出たが太祖は許さず、和之の軍は朱梧戍に至り姜仲基らを遣わし宣諭したが陽邁は仲基ら28人を拘束した。景憲は区粟城を攻め5月に攻略、扶龍大を斬り金銀雑物を数え切れぬほど得て、勝ちに乗じて林邑を陥落させ陽邁父子は逃走した。太祖は檀和之・蕭景憲らの功を詔で褒め、龍驤司馬童林之を交州刺史・鬱林寧浦二郡督軍とし、戦死した九眞太守傅蔚祖には給事中を贈った。
  • 世祖孝建2年(455年)林邑は長史范龍䟦を遣わし貢献、大明2年(458年)林邑王范神成は長史范流を遣わし金銀器・香布などを献じ、太宗泰豫元年(472年)も方物を献じた。檀和之はもと豫章の乱平定と林邑討伐の功で雲杜県子・食邑400戸に封ぜられたが、南兖州刺史のとき酣飲・貨を貪り獄中の女子を私邸に入れた罪で免官禁錮され、まもなく没した(諡は襄)。
  • 広州の山地には俚・獠の種族が多く侵暴を繰り返した。世祖大明中、合浦の大帥陳檀が帰順し龍驤将軍を拝したが、征討軍が付かぬまま高興太守に任じたところ将軍費沈・武期を殺して反した。

扶南国・西南夷諸国の朝貢

  • 扶南国は太祖元嘉11・12・15年(434・435・438年)国王持黎跋摩が使者を送り献上した。
  • 訶羅陁国は元嘉7年(430年)王堅鎧が使者毗紉・婆田を遣わし、仏塔荘厳の国情を述べつつ大宋皇帝への帰依と鄰国の侵陵からの保護を求める上表を送った。
  • 呵羅単国(治は闍婆洲)は元嘉7年金剛指鐶・赤鸚鵡鳥・天竺国の白疊・古貝葉波国の古貝などを献じ、10年(433年)国王毗沙跋摩が仏徳を称える上表を送った。のち子に簒奪され、13年(436年)再び上表し復権への支援と武具の購入許可を求めた。26年(449年)太祖は訶羅単・媻皇・媻達三国に策命を下し、29年(452年)呵羅単はさらに長史媻和沙彌を遣わし方物を献じた。
  • 媻皇国は元嘉26年国王舎利媻羅跋摩が方物40種を献じ太祖は策命を下した。28年(451年)再び貢献、世祖孝建3年(456年)長史竺那媻智を遣わし表を献じ振威将軍に任じられ、大明3年(459年)赤白鸚鵡を献じ、大明8年・太宗泰始2年(466年)も貢献した。
  • 媻達国は元嘉26年国王舎利不陵伽跋摩が使者を遣わし太祖の策命を受け、26・28年再び貢献した。
  • 闍婆婆達国は元嘉12年(435年)国王師黎婆逹陁阿羅跋摩が使者主佛大陁婆・副使葛抵を遣わし、宋への遥かな臣属の誠を上表した。
  • 師子国は元嘉5年(428年)国王刹利摩訶南が上表し「四道人・二白衣を送り牙臺像で信誓とする」と述べ、12年(435年)再び貢献した。
  • 天竺迦毗黎国は元嘉5年国王月愛が使者主父天魔悉達・使主尼陁達を遣わし、国土・臣民の帰属を誓う上表を送った。
  • 蘇摩黎国は元嘉18年(441年)国王那隣那羅跋摩が方物を献じ、斤陁利国は世祖孝建2年国王釈婆羅那隣陁が長史竺留陁及多を遣わし金銀宝器を献じた。後廃帝元徽元年(473年)婆黎国も貢献した。天竺迦毗黎国は泰始2年再度貢献し使主竺扶大・竺阿彌を建威将軍とした。

仏教の隆盛と統制

  • これら諸国は皆仏道に仕えており、仏道は後漢明帝の代に東流して以来次第に広まり、帝王から民庶まで帰依し経誥は深遠な一学派をなした。元嘉12年(435年)丹陽尹蕭摩之は「仏教が奢侈に流れ塔寺の濫造が甚だしい、今後は鋳造・造営に許可制を敷くべき」と奏し許され、沙門も数百人が還俗させられた。
  • 世祖大明2年(458年)道人曇標が羌人高闍と謀反したのを機に、詔で「仏法が訛替し沙門が混雑している、精しく沙汰せよ」として条禁を設けたが、尼が宮掖に出入りして妃后と交わる慣行は改まらなかった。晋の庾冰・のち桓玄も沙門に王者への敬礼を求めたが果たせず、大明6年(462年)世祖は有司に「沙門も接見の際は本俗の礼を尽くすべき」と奏させ許可した。前廃帝の初めに旧に復した。
  • 世祖の寵姫殷貴妃が薨じると新安寺が建てられたが、貴妃の子子鸞を前廃帝が殺した際に新安寺・中興寺・天寳寺も毀廃、僧徒は追われた。太宗は乱を定めると「先帝建立の中興寺・新安寺を復興し僧を招集せよ」と令した。
  • 宋代の名僧に道生(彭城の人、法大の弟子で頓悟義を立てた)がおり元嘉11年(434年)廬山で没し、慧琳(秦郡秦県の人、冶城寺住)が誄を作った。慧琳は「均善論」(白学・黒学の問答形式で仏道と儒道の優劣を論じる)を著したが、旧僧はこれを釈氏の貶黜と見て排斥を図った。太祖はこの論を評価し、慧琳は元嘉中に政治にも関与し賓客の車が常に数十両集まるほどの権勢を得た(孝経・莊子逍遥篇の注釈も世に伝わる)。
  • また慧厳・慧議ら東安寺の道人は学行精整で世に推され「鬬塲禅師窟、東安談義林」と京師で称された。大明4年(460年)中興寺(のち天安寺と改称)に異僧が現れ姿を消した奇譚も伝わる。大明中、外国沙門摩訶衍は多くの新経を訳出し勝鬘経が特に重んじられた。

東夷諸国――高句驪・百済・倭

  • 高句驪国は今の漢の遼東郡に治する。王高璉は晋安帝義熙9年(413年)長史高翼を遣わし赭白馬を献じ、使持節都督営州諸軍事・征東将軍・高句驪王・楽浪公を授けられた。高祖践阼の詔で璉は征東大将軍、百済王映は鎮東大将軍に進められ、少帝景平2年(424年)璉は長史馬婁らを遣わし方物を献じた。
  • これに先立ち鮮卑慕容宝が中山を索虜に破られ東走黄龍したが、義熙初め弟の熙が下の馮跋に殺され、跋が自立し燕王を称し(黄龍国)、跋の死後子の宏が立ったが度々索虜に攻められ、元嘉15年(438年)敗走して高句驪の北豊城に奔り、璉は将孫漱・高仇らを遣わし宏を殺させた。璉は宏の南進を望まなかったためという。璉は毎年使者を遣わし、16年太祖の北討の際は馬800匹を献じ、世祖孝建2年(455年)長史董騰を遣わし国哀を慰め方物を献じ、大明3年(459年)肅慎氏の楛矢石砮を献じた。7年(463年)太祖は璉を車騎大将軍・開府儀同三司に進号した。太宗泰始・後廃帝元徽中も貢献は絶えなかった。
  • 百済国はもと高驪と共に遼東の東千余里にあったが、後に高驪が遼東を、百済が遼西を略有し、その治所を晋平郡晋平県と称した。義熙12年(416年)王餘映は使持節督百済諸軍事・鎮東将軍・百済王に任じられ、高祖践祚で鎮東大将軍に進み、少帝景平2年長史張威を遣わし貢献、元嘉2年(425年)太祖の詔慰があった。以後毎年貢献、7年(430年)王餘毗が貢職を修め、27年(450年)餘毗は易林・式占・腰弩を求め太祖は与えた。餘毗の死後子の慶が立ち、世祖大明元年(457年)除授を求め許され、2年(458年)慶は上表し文武良輔11人への官爵を求め、餘紀・餘昆・餘暈・餘都・餘乂・沐衿・餘爵・餘流・糜貴・于西・餘婁がそれぞれ冠軍将軍以下を授けられた。太宗泰始7年(471年)再び貢献した。
  • 倭国は高驪の東南の大海中にあり世々貢職を修めた。高祖永初2年(421年)倭讃が万里貢献したことを嘉す詔があり、太祖元嘉2年讃は司馬曹達を遣わし方物を献じた。讃の死後弟の珍が立ち、自ら使持節都督倭百済新羅任那秦韓慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭国王と称し正式除正を求め、安東将軍・倭国王を授けられ、倭隋ら13人にも平西・征虜・冠軍・輔国将軍号が許された。
  • 20年(443年)倭王済が貢献し安東将軍・倭国王とされ、28年(451年)使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事・安東将軍を加号、部下23人にも軍郡が授けられた。済の死後世子興が貢献、世祖大明6年(462年)安東将軍・倭国王を授けられた。興の死後弟の武が立ち自ら使持節都督倭百済新羅任那加羅秦韓慕韓七国諸軍事・安東大将軍・倭国王と称し、順帝昇明2年(478年)上表して東夷西夷を征した歴代の功業を述べ、百済経由の朝貢が高句驪の妨害で滞ったこと、亡父済の遺志を継ぎ討伐を志すことを述べ自ら開府儀同三司を仮称した。詔で武を使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭王とした。

荊雍州蠻・豫州蠻

  • 荊雍州蠻は槃瓠の後裔で種落は諸郡県に分布し、荊州には南蛮校尉、雍州には寧蛮校尉が置かれ統轄した。世祖初め南蛮府を大府に併せたが寧蛮はそのままとした。順附する蛮民は一戸ごとに穀数斛を輸すのみで雑調はなく、宋の民の賦役が過酷なため貧民が多く蛮に逃げ込み、強者は官税も納めず結党して州郡の力が弱いところでは盗賊化した。武陵の雄谿・樠谿・辰谿・酉谿・舞谿は「五谿蛮」と呼ばれ、宜都・天門・巴東・建平・江北の諸郡蛮も深山重阻を拠点とし歴代の患であった。
  • 少帝景平2年(424年)宜都蛮帥石寧ら123人が詣闕上献、元嘉6年(429年)建平蛮張雝之ら50人、7年(430年)宜都蛮田生ら113人が詣闕、その後沔中の蛮が大動し天門漊中令宗僑之の過重な傜賦のため18年(441年)田向求らが叛乱、荊州刺史衡陽王義季が曹孫念を遣わし討破し生口500余人を得た。24年(447年)南郡臨沮当陽蛮が反乱し臨沮令傅僧驥を縛したが荊州刺史南譙王義宣が王諶を遣わし討破した。
  • 雝州刺史劉道産は蛮を善く撫し多くが順服したが、道産の死後再び叛乱、世祖の雍州出鎮時にも大破された。28年(451年)龍山雉水蛮が湼陽県を寇し南陽太守朱曇韶が討伐、滍水蛮も険を頼み寇したが雝州刺史随王誕が説諭し帰順を促した。蛮帥魯奴子は龍山に拠り辺患となったが子の爽は帰国し奴子も内附を求めた。世祖大明中、建平蛮向光侯が峡川を寇し巴東太守王濟・荆州刺史朱修之が討伐、大明中には桂陽蛮・臨賀蛮の反乱もあった。
  • 豫州蛮は廩君の後裔で、西陽の巴水・蘄水・希水・赤亭水・西歸水は「五水蛮」と呼ばれ北は淮汝、南は江漢に及ぶ広大な地に割拠した。元嘉28年西陽蛮が南川令劉臺とその家族を殺し、29年(452年)新蔡蛮2千余人が大雷戍を破り、亡命司馬黒石が加わり寇盗、太祖は沈慶之に討伐させ、世祖大明4年(460年)再び慶之が西陽蛮を討ち黒石の徒党(自称太公の智黒石、譙王の安陽、梁王の続之)を制圧、蛮の文小羅らが世財を斬った。豫州刺史王元謨は郭元封を遣わし諸蛮を慰労した。
  • 世祖初め四方反乱の際、西陽蛮田益之・田義之・成邪財・田光興らが起義し郢州を攻略、益之は輔国将軍・都統四山軍事、義之は宋安太守、光興は龍驤将軍・光城太守となり、益之は辺城県王・食邑411戸、成邪財は陽城県王・食邑3千戸に封じられた。晋熙蛮梅式生も起義し晋熙太守閻湛之を斬り、晋安王子勛の典籤沈光眀は髙山侯に封じられた。

史論

  • 史臣は次のように論じる。漢代の西域交通は険路を越えて万里に及んだが、晋室の南遷後は河隴が隔絶し夷戎に道が塞がれた。大秦・天竺は漢代でさえ通交が困難であったが、商貨は交部を経て海路で運ばれ、犀角・翠羽・蛇珠・火布などの珍品が世に集まった。太祖が南方の珍宝が至らぬことを憂い師旅を送った戦捷で未名の宝が府庫に入ったこともある。
  • 四夷の患は自古より深く、蛮僰の種族は繁多で華氓(漢民)に近接して狡毒を働き財を掠め土を拠って年月と共に勢いを増した。元嘉の半ば以後、寇慝は数州にまたがり邦邑を揺るがしたため軍を発して誅討し、江漢以北・廬江以南の山谷は兵で覆われ、囚俘は数百万を数えるに至った。幼老を問わぬ殺戮は積怨への報復とはいえ、張奐の言う「流血于野、傷和致災」の言葉こそ仁者の戒めというべきであろう。