索頭虜(拓跋氏)の由来
- 索頭虜は姓を託跋(拓跋)氏といい、その先祖は漢の将軍李陵の子孫という。李陵が匈奴に降った後、匈奴には数百千種の部族が生まれ各々名号を立てたが、索頭もその一つである。
- 晋初、索頭種は雲中に部落数万家を有した。恵帝末、并州刺史嬴公司馬騰が晋陽で匈奴に包囲された際、索頭単于猗駞が軍を遣わして騰を助けた。懐帝永嘉3年(309年)、駞の弟盧が部落を率い雲中から鴈門に入り、并州刺史劉琨に楼煩など五県を求めた。琨は制しきれず盧を援けとしようと、駞の救援の功を上言して五県の民を新興に移しその地に盧を置くことを請い、盧を代郡公に封じるよう表した。愍帝の初め、盧はさらに代王に進み常山郡を食邑に加えられたが、その後国内が乱れ、盧の死後、子はまだ幼弱で部落は分散した。盧の孫什翼鞬は勇壮で衆が再び附き、上洛公と号し、北は沙漠、南は陰山に拠り衆数十万となったが、後に苻堅に破られ長安に連行され、のち北帰を許されて死んだ。
拓跋開(道武帝)の興起と暴虐
- 什翼鞬の子開(字は渉珪、道武帝)が代わって立った。当時鮮卑の慕容垂が中山で僭号していたが、晋孝武帝太元21年(396年)垂が死ぬと、開は十万騎を率いて中山を包囲し翌年4月にこれを陥落させ、王として中州を領有し自ら「魏」と号し、年号を天賜とした。都は代郡桑乾県の平城に置き、学官を立て尚書曹を設けるなど学問にも通じていたという。
- 風俗として4月に天を祀り、6月末には大衆を率いて陰山に至り「却霜」と称した。陰山は平城から600里、樹木深く霜雪が絶えぬため暖気で寒を却けようとしたのだという。死者は棺柩のみ立てて実際には虚設で葬送し、生前の車馬器用は皆焼いて亡者に送った。
- 開は暴虐で殺戮を好み、民は堪えかねた。ある神巫が「開に暴禍あり、ただ清河を誅し万民を殺せば免れうる」と誡めたため、開は清河一郡を滅ぼし自ら手ずから人を殺してその数を万人に満たそうとした。愛妾の万人だけがその居所を知っており、万人は開の子清河王と私通し発覚を恐れて開を殺そうと図り、清河王を内応とさせ夜に開を殺させた。開は死に際し「清河・万人の言とはお前たちのことか」と言った。この歳は安帝義熙5年(409年)であった。
- 開の次子で斉王と号した嗣(字は木末、明元帝)が清河王を捕え「人の最も重んじるものは父なのに、なぜ逆に自殺を迫るのか」と号泣させた上で嗣は代わって立ち、開に道武皇帝と諡した。13年(417年)高祖(劉裕)が西のかた長安を伐つと、嗣は先に姚興の娘を娶っていたため十万騎を河北に屯結して救おうとしたが高祖に大破された(事は朱超石らの伝にある)。以後使者を送り和を求め毎年通交した。
明元帝(嗣)期の河南争奪戦
- 高祖が崩じると嗣は和親を絶ち、太祖(文帝)即位後にようやく和親を再開した。永初3年(422年)10月、嗣は自ら方城に至り、鄭兵将軍・揚州刺史・山陽公達奚斤、呉兵将軍・広州刺史・蒼梧公公孫表、尚書滑稽ら歩騎2万余人を滑臺西南の東燕県界で石済から南渡させた。滑臺戍主・寧遠将軍・東郡太守王景度は虎牢を守る冠軍将軍・司州刺史毛徳祖に急を告げ、徳祖は司馬翟広に歩騎3千を率いさせ卷県土楼で拒んだが虜は滑臺城東2里に移営して攻具を造った。
- 徳祖は寧遠将軍劉芳之ら、討虜将軍・弘農太守竇応明500人、建武将軍竇覇250人らを次々投入したが、虜は滑臺を陥落させ王景度は出奔、司馬陽瓚は抗節して降らず殺された。竇応明は石済で虜の輜重を破ったが、虜は虎牢に迫り徳祖は各地に守備を配置した。虜将黒矟公が河陽から金墉を狙い、竇晃・王瑜・張季ら数百人ずつを各地に配して防いだが、鄭兵の騎兵に攻められ晃らは重傷を負った。
- 少帝景平元年(423年)正月、鄭兵は洛陽を攻め小壘の竇晃は陥落、河南太守王涓之は金墉を棄てて逃げた。徳祖は虎牢で穴を掘り地道戦を行うなど奮戦し数百級を斬ったが、虜将渉歸・薛道千・張模らは青州へ転じ、冠軍将軍・青州刺史竺夔が東陽城で固守、済南太守垣苗も虜に備えた。虎牢はついに200日囲まれ守将・士卒の死傷は甚大で、4月ついに陥落し徳祖・翟広・竇覇ら諸将佐は虜に捕えられた。徳祖は「この城と命運を共にする」と言い、嗣もその節を重んじ殺さなかった。
- 司空徐羨之・尚書傅亮・領軍将軍謝晦は表を上げ「河南司州刺史臣徳祖は誠を尽くし孤城を守ったが、救援が遅れ陥落した。責は臣らにある」と述べたが許されなかった。徳祖は滎陽南武陽の人で、もと道規の荊州幕府から高祖の太尉参軍を経て、北伐では王鎮惡の龍驤司馬として栢谷・梨城・涇水で戦功を立てた。長安平定後は龍驤将軍・扶風太守、のち秦州刺史、司州の河東・平陽二郡諸軍事・輔国将軍・河東太守、京兆太守などを歴任し冠軍に進号、観陽県男・食邑400戸に封ぜられた。太祖元嘉6年(429年)虜中で死去、時に65歳。世祖大明元年(457年)徳祖の弟の子熙祚の第二子詡之が爵を嗣いだ。
- 陽瓚は寧遠司馬・濮陽太守として滑臺の危機に節を守り殉じたため、少帝は追贈給事中とし遺孤を存恤せよと命じ、尚書令傅亮の議で彭城の家に絹100匹・粟300斛が給され、顔延之が誄を作った。滎州刺史徐琰・東陽太守王景度は失守の罪で鉗髠居作に処された。李元徳は許昌で防戦し朝廷は劉粹に援軍を送らせた。虜は許昌・鍾離城を破壊して撤退し、嗣は死んで明元皇帝と諡された。
太武帝(燾)の即位と赫連氏・柔然の平定
- 嗣の子燾(字は佛貍)が代わって立った。母杜氏は冀州の人で入宮して燾を生んだが、燾は嗣に厚遇されず、正妃・娘の子でなかったため僕隷のごとく扱われた。壮健で筋力に優れ戦闘を好み残忍で殺戮を好んだという。元嘉5年(428年)大将吐伐斤を遣わし長安を西伐させ赫連昌(中山王・安定王)を生け捕り、公に封じ妹を娶らせた。昌の弟赫連定は隴上にあったが吐伐斤は騎兵3万で討ち、定は隴山の弾筝谷に伏兵し吐伐斤を斬りその軍を全滅させたが、後に定率いる軍は東還し、燾は長安を再攻略、定は西走して吐谷渾の慕璝に捕えられた。
- 赫連氏は衛臣という祖を持ち朔方塞外に部落千余戸を有し、苻堅の時に塞内に寄田した縁で恩を感じ臣従した。子の佛佛は驍猛で姚興と抗争し、高祖の長安入城後も恐れて動かなかったが東還後に北地に侵寇した。義真の帰還時、佛佛は子の昌に青泥で撃破させ長安を有し自ら尊号を称し年号を眞興元年とした。京兆の隠者韋元は姚興・高祖・佛佛いずれの招聘にも応じず、佛佛はこれに怒り殺した。元嘉2年(425年)佛佛が死に昌が立ったが、燾に併呑された。
元嘉七年の河南回復戦とその失敗
- 太祖は北方経略を志し、元嘉7年(430年)3月「河南が久しく異民族に占められ黎民が苦しんでいる、今こそ回復すべし」と詔し、右将軍到彦之に安北将軍王仲徳・兖州刺史竺霊秀の水軍5万を統べさせ、驍騎将軍段宏の精騎8千で虎牢を直指させ、豫州刺史劉徳武・後将軍長沙王義欣を節度とした。使者田奇を遣わし「河南は旧宋土であり回復するだけで河北には関わらない」と告げたが、燾は激怒し「われは生まれてまだ河南を我が地と聞いているのに何を言うか」と応じ、冬の氷結を待って再攻略すると宣言した。
- 長沙王義欣は司・兖二州に檄を発し高祖の武功を称え帰順を勧めた。彦之が進軍すると虜は河南の一戍を悉く河北に引いたが、11月に虜の大軍が南渡し彦之は洛陽に敗退、滑臺・虎牢も陥落した。前征虜司馬・南広平太守尹沖は虎牢を守ったが降らず塹に投じて死んだ(沖は天水冀の人、太祖はその節を悼み詩を作った)。太祖は燾に強い言葉の書を送り続け、燾もまた傲然たる返書で「河北に人を戻せ」「揚州を割いて渡せ」等と応酬した。
- 17年(440年)燾は年号を太平眞君と改めた。19年(442年)虜の鎮東将軍武昌王宜勒庫莫提が益梁二州・徐州に移書し仇池(南秦王楊難当)への非を鳴らし、魏の威勢を誇示して南朝を威嚇したが、徐州は「楊氏は晋以来の藩臣であり、魏こそ信を違えて牢洛(河南)へ侵した」と反駁する移書を返した。
太武帝との書信往還・盖吳の乱
- 20年(443年)燾は太子(晃)に位を譲る詔書を発したが、実権は保持したままであった。23年(446年)燾は柔然(芮芮)を大破し、また北秦州(安南平南府)が兖州に移書し僑置州の非を難じたが兖州は義理を挙げて反論した。
- このころ虜中に「滅虜者は呉なり」との謡言があり燾はこれを憎んだ。23年、北地瀘水の人盖吳が杏城の天台で挙兵し戎夷が響応、衆10余万に達し燾軍を度々破った。呉は太祖に上表し忠誠を誓い、太祖は詔して呉を使持節都督闗隴諸軍事・安西将軍・雝州刺史・北地郡公に任じ雍梁の兵で援護させたが、燾自ら大軍で攻め、呉は流矢に当たり死んだ。弟の吾生は木面山に逃れたが破散した。
- 同年、太原の民顔白鹿が虜に捕えられ司徒崔浩の書を携え帰投、これに乗じ虜が太原に侵入したが杜驥の軍がこれを撃退した。太祖は「区宇未一、師饉代有」と詩を作り群臣に思いを述べた。25年(448年)虜の寧南将軍・豫州刺史北井侯若庫辰樹蘭が豫州に移書し境界の盗賊禁圧を提案、右将軍豫州刺史南平王鑠がこれに応じる返書を送った。
元嘉二十七年の汝南侵攻
- 27年(450年)燾自ら歩騎10万で汝南に侵寇した。虜は当初梁川での狩猟と称していたが、実際には辺境に侵入し陳・南頓二郡太守鄭緄、汝南潁川二郡太守郭道隠らは棄城して逃走、虜は淮西六郡を掠奪し懸瓠城を包囲した。汝南新蔡二郡の軍事を代行する陳憲が城を固守し、燾自ら攻めたが陥落せず42日にして死者多数を出して撤退した。
- この間、燾の従弟永昌王庫仁眞が歩騎万余で汝陽に屯した際、世祖(当時彭城に鎮する)は劉泰之を元帥とする5軍で夜襲を敢行し大勝したが、後続部隊の混乱で泰之は戦死、程天祚は捕えられるなど損害も出た。太祖は詔して陳憲を龍驤将軍・汝南新蔡二郡太守に抜擢し布1万匹を賜って将士を慰労した。
- 燾は太祖への書で「彼前使間諜」など傲慢な言辞を連ね、江北への割譲や決戦の威嚇を述べたが、その後また通好・求婚を持ちかけるなど態度は一定しなかった。太祖はその年大挙北討を決意し、寧朔将軍王元謨・鎮軍将軍蕭斌を先鋒に、太尉江夏王義恭を都督に、豫州刺史南平王鑠・司空南譙王義宣らを動員し十万を超える大軍を発した。何尚之の議で富民・富僧尼にも資産に応じ供出させ軍用に充てた。
太武帝の大挙南侵(瓜歩の役)
- 王元謨は滑臺を攻めたが陥落させられず、燾自ら渡河して元謨は敗走した。燾は永昌王庫仁眞・髙梁王阿斗埿らとともに南下し鄒山(戍主崔耶利敗没)、蕭城・留城など各地で宋軍と衝突、世祖遣わした馬文恭・嵇元敬らはいずれも苦戦した。虜は劉康祖を尉武で破り、南平王鑠が守る夀陽を脅かしつつ馬頭・鍾離を焼掠、燾自身は12月盱眙を渡淮し彭城を経て𤓰歩(瓜歩)に至った。
- 建康では防備が固められ、皇太子は石頭城に出戍し、劉遵考・尹宏・劉興祖・蕭元邕・沈曇慶・禇湛之ら諸将が要地を分守、船艦は採石から曁陽まで六七百里に連なった。斬殺者への懸賞(仏狸=燾を斬れば食邑8千戸開国県公)も出された。燾は瓜歩の山に盤道と氈屋を築き、河北の水を駱駝で運ばせ河南の水を飲まなかったという。太祖に駱駝・名馬を贈り和親・婚姻を求めたが、翌年正月2日、六夷の焼掠を伴って撤退した。
- 撤退の途上、盱眙を包囲し30日攻めたが陥落させられず攻具を焼いて退いた。燾はこの南征で南兖・徐・兖・豫・青・冀の6州を破ったが自軍の死傷も過半に及び、国人はこれを非難したという。この歳(元嘉29年、452年)燾は病死し、太武皇帝と諡された。
太武帝死後の後継争いと文成帝の即位
- 燾には6子があった。長子晃(字天真)は太子であったが、次子晋王が疾雷に撃たれ死を賜り、次子秦王烏奕肝は太子晃と国事を分掌したが晃に讒言され鞭200を受け枹罕に遣鎮された。燾が汝南・瓜歩に出征中、晃は密かに戦利品を横取りしたが発覚を恐れ燾を殺そうと謀った。燾はこれを察知し詐死して晃を呼び寄せ、迎喪の途上で捕え鉄籠に入れ間もなく殺した。
- 烏奕肝が武勇により太子とされたが、燾の死に際し嬖人宗愛が烏奕肝を後継に立て、烏奕肝はこれを恐れ矯殺され、宗愛が自立し年号を承平とした。しかし烏奕肝が国人に支持されなかったため、晃の子濬(字烏靁、直懃)を燕王が「博眞は正統でなく、直懃の嫡孫である濬こそ立つべし」と主張し、博眞・宗愛を殺して濬を立て、年号を正平とした。
明帝期の索虜と薛安都らの内附
- これより先、虜の寧南将軍魯爽兄弟が宋に帰順した。29年、太祖は張永・王元謨・魯爽らに再北伐させたが、青州刺史劉興祖の「偽帥(燾)死せる今こそ河北を長駆すべし」との献策は容れられず、王元謨は碻磝を落とせず退いた。
- 世祖(孝武帝)即位後、索虜は互市を求め、江夏王義恭・竟陵王誕・建平王宏・何尚之・何偃らは許可を主張、柳元景・王元謨・顔竣・謝荘・檀和之・禇湛之らは反対したが、結局互市は許された。大明2年(458年)虜は青州に侵寇したが刺史顔師伯に撃退された。前廃帝永光元年(465年)濬(文成皇帝)が死し、子の弘(字弟豆胤)が代わって立った(献文帝)。
- 景和年間、北討中の徐州刺史義陽王昶が単身で虜に奔った。太宗(明帝)泰始初め、江州刺史晋安王子勛が反すると四方も呼応し、徐州刺史薛安都・青州刺史沈文秀・冀州刺史(歴城鎮主)崔道固らも挙兵、虜はこれに乗じて義陽王昶を擁立しようとする詔を発し、九路の大軍で南征を号令したが、実際には晋安王子勛の乱平定後、太宗は張永・沈攸之に薛安都討伐を命じ、安都は恐れて虜を引き入れ、虜は万騎で救援、宋軍は敗退し青冀二州も陥落、沈文秀・崔道固が捕えられた。
- その後も虜は詔を発して薛安都・司州刺史常珍奇の帰誠を称え、天安2年(467年)正月30日以前の淮北三州の死罪以下を曲赦するなど宣撫策を取った。以後虜との和親・互市は続いた。
泰豫年間の義陽攻防と芮芮国
- 太宗泰豫元年(472年)虜の狹石鎮主白虎公・安陽鎮主莫索公貞陽鎮主鵞落生・襄陽王桓天生らが山蠻馬歩2万余で義陽県を包囲したが、司州刺史王贍が従弟の司空行参軍思遠・撫軍行参軍王叔瑜を遣わし大破し虜は退いた。
- 芮芮虜は匈奴の故地北庭にあり、一号大檀、また檀檀といい匈奴の別種で西路より京師まで3万余里、僭称して大号を立て部衆は殷強で毎年使者を京師に送り中国と対等な礼を交わした。西域の焉耆・鄯善・亀茲・姑墨など東道諸国もこれに服属した。城郭を持たず水草を逐って畜牧し氈帳に居し、常に索虜を南撃して世々仇敵であったため朝廷は常にこれを繋いだ(覊縻した)。その東に槃槃国・趙昌国・粟特国があり、太祖の代いずれも表を奉じて貢献した。大明中、粟特は生獅子・火浣布・汗血馬を献じようとしたが道中盗賊に遭い失われた。
史論
- 史臣は次のように論じている。匈奴と中国の抗争は漢代以前から久しく、魏の時代には種落が分散し数十年にわたり辺境は平穏であった。晋になると姦黠が漸く著しくなり、元康以後は五胡が相次いで中華を蹂躙、拓跋渉珪(道武帝)は鉄馬を率いて趙魏を席巻し上国と対峙するに至った。高祖(劉裕)の宏図により北狄は鋭を挫かれ一時は静まったが、高祖没後は牢洛(河南)を覆され、太祖はこれを憤り司兖の回復を図ったが功を成せず、以後兵は摧け勢は弱まり辺境の被害は絶えなかった。
- 拓跋開以来の歴代は賢才が多く戦術に長け、燾(太武帝)に至っては冒頓・檀石槐にも劣らぬ武略で西は河右、東は龍碣まで併呑し百万の兵で南征、瓜歩に迫った。宋朝は総力で防いだがなお足りず、虜が引き上げる際には淮州・江県を蹂躙し民は塗炭に苦しみ、江淮から清済に至る戸口は数十万を数えたが免れた者は百に一つもなかったという。太祖は再び北伐を試みたが再び敗北を喫し、以後は互市・和親に転じたものの侵掠は絶えず、泰始年間には辺将の叛から四州を喪うに至った。高祖は長年苦心し統一を目指したが克ちきれず、後主(後継の諸帝)は文武の徳を樹てられず司兖・徐方を相次いで失った。史臣は「地勢に便不便あり、用兵に長短あり、胡は駿足を頼み平原を得意とし、南は水戦・舟楫を得意とする」とし、南北の攻守はこの地の理によって勝敗が定まると総括している。