宋書卷八十八 列傳第四十八 崔道固

冀州刺史としての反乱と最期

崔道固は清河の人。世祖の代に才幹を認められ、太子屯騎校尉・左軍将軍を歴任。大明三年、斉北海二郡太守として出向した際、民の焦恭が古墳を暴いて玉鎧を発見すると、道固はこれを検分して献上させ焦恭を捕らえた。のち新安王劉子鸞の北中郎諮議参軍、永嘉王劉子仁の左軍司馬。景和元年、寧朔将軍・冀州刺史として歴城に出鎮した。泰始二年、輔国将軍、さらに征虜将軍に進号。徐州刺史薛安都が反乱に同調すると、上は道固の官号をそのまま徐州刺史とし安都に代えようとしたが、道固はこれを受けず、子の景微・軍主傅霊越に兵を率いさせ安都のもとへ送った。しかし現地の義軍にたびたび攻撃され戦況不利となり、門を閉じて自守した。四方が平定されると上は使者を派遣して説得し、道固は詔を奉じて帰順した。これに先立ち沈文秀とともに北魏に援軍を要請していたが、北魏軍到着後は籠城してこれを拒み、包囲を受けながらも北魏軍の攻撃をたびたび撃退していた。泰始三年、都督冀青兖幽并五州諸軍事・前将軍・冀州刺史・仮節に任ぜられ、さらに平北将軍に進号したが、その年のうちに北魏に城を陥落させられ桑乾へ送られ、異郷で没した。

史論

史臣曰く、春秋時代の列国の大夫は罪を得た際、まず自分の封邑を主君に返還してから国を去るのが常であったが、邾・莒の三臣だけは「叛」の語で記された、これは領地を持ったまま去ったことを重く見たからである。薛安都の勤王の功績は認められるものの、藩屏としての義を欠き、封地を持ったまま北方へ逃れた点は三叛の罪と同じである。詩経に「誰が禍の糸口を作ったのか、今なお災いの種となっている」とあるが、まさにこのことを言うのであろう。