宋書卷八十一 列傳第四十一 劉秀之

出自と初期の経歴

  • 劉秀之は字を道寳といい、東莞郡莒県の人。司徒劉穆之の従兄の子で、代々京口に住んだ。祖父劉爽は尚書都官郎・山陰令、父劉仲道は高祖劉裕の京城攻略に従軍して建武参軍となり、孟昶とともに留守を務め、事定まって余姚令となり任地で没した。
  • 秀之は幼くして父を失い貧しく育ったが志操があった。10歳ほどのとき仲間と川辺で遊んでいて大蛇が現れ皆が逃げ惑う中、秀之だけは動じなかったため人々に異とされた。東海の何承天がその器量を見込んで娘を娶らせた。兄の劉欽之は朱齢石の右軍参軍として従軍し敗死し、秀之は10年間喪に服して宴席に出なかった。
  • 景平2年(424年)、駙馬都尉・奉朝請となったが家が貧しく広陵郡丞を望み、のち撫軍江夏王義恭・平北彭城王義康の行参軍となり、無錫・陽羨・烏程の県令を歴任していずれも良吏として名を挙げた。

地方官としての治績

  • 元嘉16年(439年)、建康令に遷り尚書中兵郎を経て再び建康令となった。性格は細やかで隠れた不正を見抜くのに巧みで評判が高く、吏部尚書沈演之がたびたび太祖に推挙した。
  • 世祖(劉駿)が襄陽に鎮したとき撫軍録事参軍・襄陽令となった。襄陽には六門堰という良田数千頃を灌漑する堰があったが長らく決壊し公私とも困窮していた。世祖の命で秀之がこれを修復すると雍州一帯は大いに豊かになり、広平太守を兼ねた。
  • 元嘉25年(448年)、督梁南北秦三州諸軍事・寧遠将軍・西戎校尉・梁南秦二州刺史となる。漢川が飢饉で騒然としていたとき、秀之は倹約に努め、それまで絹を貨幣代わりにしていた漢川に銭の使用を限令し、百姓は長くその利益を受けた。
  • 元嘉27年(450年)、大挙して北伐が行われ、輔国将軍楊文徳・巴梓潼二郡太守劉弘宗らが秀之の節度を受けて汧隴を震撼させた。秀之は建武将軍錫千秋ら2000人を子午谷南口に、府司馬竺宗之3000人を駱谷南口に、威遠将軍梁尋ら1000人を斜谷南口に向かわせ、氐族の賊楊高を討って高の兄弟を斬った。
  • 元凶(劉劭)の弑逆の報が届くと秀之は即日挙兵して襄陽に赴こうとしたが、司空南譙王義宣がこれを許さなかった。事定まると使持節督益寧二州諸軍事・寧朔将軍・益州刺史に遷った。留めていた俸禄280万を梁州の鎮庫に納め、それ以外は清貧であった。梁益二州は豊かな地で歴代の刺史は蓄財に励み、随行の賓客も財を成したが、秀之の治めは整然として身をもって下を率い、遠近が安んじた。

南譙王義宣の反乱鎮圧と晩年

  • 南譙王義宣が荊州で反した際、参軍王曜を遣わして秀之に徴兵させようとしたが、秀之は即日王曜を斬って戒厳し、中兵参軍韋山松に1万人を率いさせ江陵を襲わせた。峡を出たところで竺超民の将席天生が迎撃したが山松は一戦で敵将を討ち取り江陵に迫ったが、魯爽に敗れ山松は戦死した。その年、征虜将軍に進号し、監に改め持節・刺史はもとのまま、起義の功で康楽県侯・食邑600戸に封ぜられた。
  • 翌年、監郢州諸軍事・郢州刺史に遷ったが赴任前に大明元年(457年)右衛将軍に徴され、翌年丹陽尹に遷った。かつて秀之の従叔劉穆之が丹陽にあったとき、子弟と庁事で酒宴をした際、柱の穴に栗を投げ入れさせたところ秀之だけが命中させ、穆之は「この郡を得るのはお前だ」と言ったという逸話がある。
  • 当時、賒売した物の代金を返さない風潮があり、市の道筋で人々が嘆いていたが、秀之は上奏して切実に諫めた。広陵王誕の乱では東城を守り、その年尚書右僕射に遷った。
  • 大明4年(460年)、制令を改定し、赦にあたる民の長吏殺害事件の扱いについて、秀之は「民が官長を殺した場合、赦にあっても徙送のみでは通常の殺人と変わらない。民が官長を敬うことは父母に対するのと同じであるから、身は赦にあっても尚方に長く留め、家族は補兵とすべし」と論じ、この意見が採用された。
  • 翌年、太子右衛率を兼ね、大明5年(461年)雍州刺史海陵王休茂が反して土地の者に誅されると、秀之が本官のまま現地に赴いて善悪を分別し、事終えて帰還した。使持節散騎常侍都督雍梁南北秦四州郢州之竟陵隨二郡諸軍事・安北将軍・寧蛮校尉・雍州刺史として赴任するとき、天子は新亭に出て見送り、まもなく左僕射に徴されようとしたが実現せぬまま、大明8年(464年)68歳で没した。
  • 上(世祖)は深く痛惜し、詔を下して「秀之は識量が明遠で才能も豊か、藩朝に功績があり、南征の際は義を首唱し職を尽くしたが、赴任してわずかな間に薨じた」と称え、侍中・司空・持節・都督・刺史・校尉を贈り食邑を千戸に増し、諡は忠成公とした。秀之は無骨で風采に欠けたが心力堅正であり、清廉で家に余財がなかったため、上は銭20万・布300匹を賜った。
  • 子の劉景遠が後を継ぎ前軍将軍に至り、その子劉儁のとき斉が受禅して爵を除かれた。秀之の弟劉粹之は晋陵太守となった。