宋書卷八十 列傳第四十 孝武十四王

孝武帝二十八子の母系

孝武帝には二十八人の子があった。文穆皇后は廃帝子業・豫章王子尚を生み、陳淑媛は晋安王子勛を、阮容華は安陸王子綏を、徐昭容は皇子子深を、何淑儀は松滋侯子房を、史昭華は臨海王子頊を、殷貴妃は始平孝敬王子鸞・(同生)永嘉王子仁を、何婕妤は皇子子鳳を、謝昭容は始安王子真を、江婕妤は皇子子𤣥を、史昭儀は邵陵王子元・(同生)斉敬王子羽を、江美人は皇子子衡を、楊婕妤は淮南王子孟・(同生)皇子子況を、(子𤣥と同生の母は)南平王子産・(子仁と同生)晋陵孝王子雲・(子鸞と同生)皇子子文・廬陵王子輿(子孟と同生)・南海哀王子師(子鸞と同生)・淮陽思王子霄(子𤣥と同生)・皇子子雍(子真と同生)・皇子子趨(子鳳と同生)・皇子子期(子衡と同生)・東平王子嗣(子真と同生)を生み、杜容華は皇子子悦を生んだ。安陸王子綏・南平王子産・廬陵王子輿は他家へ出継し、子深・子鳳・子𤣥・子衡・子況・子文・子雍は早世して封を受けず、子趨・子期・子悦は封を受けぬまま明帝に殺された。

豫章王子尚

字は孝師、孝武帝の第二子。孝建三年(456年)六歳で西陽王・食邑二千戸、都督南徐兗二州諸軍事・北中郎将・南兗州刺史、同年揚州刺史に遷る。大明二年(458年)撫軍将軍を加えられ、三年(459年)浙江西に王畿を立てるに際し都督揚州江州之鄱陽晋安建安三郡諸軍事・揚州刺史・鼓吹一部。五年(461年)豫章王に改封、会稽太守を領す。七年(463年)使持節・車騎将軍、のち散騎常侍・開府儀同三司。東土の大旱に際し鄞県の勧農のため上表し、左学を立てて生徒を召し儒林祭酒以下の学官を置いた。前廃帝即位後、王畿を廃して旧に復し、子尚は都督揚南徐二州諸軍事・領尚書令に召された。孝建中、世祖は子尚を太子の同母弟として重んじていたが、のち新安王子鸞が母の寵愛により重んじられるにつれ子尚の寵は衰え、成長した子尚の人柄は凡庸で凶悪、廃帝に似た性質があったという。太宗(明帝)が廃帝を廃した際、太皇太后の令により「子尚は頑凶にして悖逆、(姉の)楚玉も淫乱で人倫に背く」として共に自邸で死を賜った。子尚時に十六歳。楚玉は山陰公主で、廃帝により会稽郡長公主・食湯沐邑二千戸・鼓吹一部・班剣二十人を与えられていたが拝受前に廃帝が敗れた。楚玉は淫縦で、尚書吏部郎褚淵の美貌を見て十日間侍らせるよう求め廃帝も許したが、淵は命に従いつつも死を賭して身を守り、楚玉も制することができなかった。

晋安王子勛

字は孝徳、孝武帝の第三子。大明四年(460年)五歳で晋安王・食邑二千戸、都督南兗州徐州之東海諸軍事・征虜将軍・南兗州刺史。七年(463年)督江州南豫州之晋熙新蔡郢州之西陽三郡諸軍事・前将軍・江州刺史に改まり、八年(464年)使持節都督雍梁南北秦四州郢州之竟陵随二郡諸軍事・鎮軍将軍・寧蛮校尉・雍州刺史となるが拝命前に世祖崩御、鎮軍将軍のまま江州に戻った。眼病を患い世祖に疎まれた。景和元年(465年)使持節を加えられる。廃帝の乱行が激化する中、前撫軍諮議参軍何邁が太祖の娘新蔡公主を娶っていたが、帝が公主を偽って死んだことにして宮人を身代わりに葬り公主を後宮に納れたため、邁は禍を恐れ帝の外出中に子勛を迎立する謀を企てたが発覚、帝自ら宿衛の兵で邁を誅し、子勛にも「何邁が我を殺して汝を立てようとした、汝は孝武(世祖)のようになれるか、自ら身を処せ」との手詔と共に薬を送ったが、使者朱景雲は盆口で止まり、長史鄧琬に事情を伝えた。琬らはこれを機に子勛を擁して挙兵、廃立を名目に太宗の定乱に応じず、子勛を車騎将軍・開府儀同三司に進めるも従わず、京邑に檄を伝え、泰始二年(466年)正月七日、尋陽城で偽帝に即位、義嘉元年と改元し百官を備えた。四方が呼応し威は天下を震わせ、諸方の貢計は尋陽に集まった。左衛将軍孫沖之が赭圻に、豫州刺史劉胡が雀尾に、安北将軍袁顗が総統として出陣したが、台軍が銭谿で袁顗軍の糧道を断ち、劉胡の攻撃も大敗し焚営遁走、顗も南へ逃れた。沈攸之らの軍が尋陽に至り子勛とその母、同逆の者を悉く誅滅した。子勛死す時に十一歳、尋陽廬山に葬られた。

松滋侯子房

字は孝良、孝武帝の第六子。大明四年(460年)五歳で尋陽王・食邑二千戸、冠軍将軍・淮南宣城二郡太守。五年(461年)豫州刺史・淮南太守、六年(462年)宣城太守を領し、七年(463年)右将軍に進む。前廃帝永光元年(465年)東揚州刺史。景和元年、東陽州を廃止し督会稽東陽新安臨海永嘉五郡諸軍事・会稽太守。太宗即位後、都督に改め安東将軍に進み、のち撫軍・領太常に召されたが長史孔顗が命に従わず晋安王子勛に呼応して挙兵、子勛は子房を車騎将軍・開府儀同三司に進め三呉・晋陵は孔顗の命に従った。太宗は衛将軍巴陵王休若に呉喜らを督させ東討し連戦連勝、上虞令王晏が挙兵して顗を殺し子房を捕らえて京都へ送った。上はこれを宥し松滋県侯・食邑千戸に貶した。しかし司徒建安王休仁が子房兄弟を将来の禍と見て除くよう勧め、詔により(前後の反乱に加担した路休之・劉祗・厳龍らの罪状とあわせ)子房らは庶人に貶され遠郡に流されたのち殺された。時に十一歳。路休之らは崇憲太后崩御後の不安から、劉祗は南兗州で反意を抱いていたことから、厳龍は太祖・世祖に信任された中書舎人でありながら異心を抱いたことから、それぞれ誅に至った。

臨海王子頊

字は孝列、孝武帝の第七子。大明四年(460年)五歳で歴陽王・食邑二千戸、冠軍将軍・呉興太守。五年(461年)臨海王に改封、同年使持節都督広交二州湘州之始興始安臨賀三郡諸軍事・征虜将軍・平越中郎将・広州刺史となるが赴任せず荆州刺史に転じた。八年(464年)前将軍に進む。前廃帝即位後、都督荆湘雍益梁寧南北秦八州諸軍事のまま刺史を継続。明帝即位後、雍州の督を解かれ鎮軍将軍・丹陽尹となるも留任し督雍州・平西将軍に進んだ。長史孔道存が命に従わず晋安王子勛に呼応して挙兵、子勛は子頊を衛将軍・開府儀同三司に進めたが、雀尾での敗戦後、呉喜・張興世らの軍が至ると子頊は死を賜った。時に十一歳、巴陵に葬られた。

始平孝敬王子鸞

字は孝羽、孝武帝の第八子。大明四年(460年)五歳で襄陽王・食邑二千戸、東中郎将・呉郡太守、同年新安王に改封。五年(461年)北中郎将・南徐州刺史・領南琅邪太守。母の殷淑儀は後宮随一の寵愛を受け、子鸞も諸子中随一の愛顧を得た。南徐州刺史となった際には呉郡を割いてその府国に属させた。六年(462年)母の喪に服す際、淑儀は貴妃を追贈され皇后に亜ぐ班列とされ、諡は宣、葬儀は輼輬車・虎賁・班剣・鸞輅九旒・黄屋左纛・羽葆鼓吹という破格の礼をもって行われ、世祖自ら南掖門に臨んで喪車を見送り悲しみに堪えなかったという。世祖は漢武帝の李夫人賦になぞらえ、亡き淑儀を悼む長大な賦を自ら作った(原文は宮殿の荒廃・四季の移ろい・魂への呼びかけを主題とする哀悼の辞である)。あわせて有司に礼制上の議論(三夫人の制と貴妃の新廟建立の可否)を諮問し、尚書左丞徐爰之は貴妃の格別の待遇を根拠に新廟建立を主張、これに従い将作大匠級の官が廟堂の造営に当たった。葬儀ののち子鸞は本官のまま司徒を兼ね撫軍・司徒に進み鼓吹一部・都督南徐州諸軍事を加えられ、八年(464年)中書令・領司徒。前廃帝即位後、中書令・司徒を解かれ持節のまま鎮に赴いたが、帝はもとより子鸞の寵愛を憎んでおり、群公を誅した後に使者を遣わし死を賜った。時に十歳。臨終に子鸞は「願わくば身は再び王家に生まれざらんことを」と語ったといい、同母の弟妹も共に死に、京口に葬られた。

太宗即位後、詔により使持節都督南徐州諸軍事・撫軍将軍・南徐州刺史新安王子鸞に使持節侍中都督南徐兗二州諸軍事・司徒・南徐州刺史(王位は元のまま)が追贈され、同時に殺された第十二皇女・第二皇子子師にも県公主・南海王の追封と諡が贈られた。さらに詔により、建平王景素の子延年を子鸞の嗣子とし始平王に改封、食邑千戸、秣陵県龍山に改葬させた。延年、字は徳沖、泰始四年(468年)四歳で薨じ諡は沖王。翌年、長沙王纂の子延之を改めて始平王とし子鸞の後を継がせたが、順帝昇明三年(479年)薨じ国は除かれた。

永嘉王子仁

字は孝和、孝武帝の第九子。大明五年(461年)五歳で監雍梁南北秦四州郢州之竟陵随二郡諸軍事・北中郎将・寧蛮校尉・雍州刺史、永嘉王・食邑二千戸、のち東中郎将・呉郡太守に遷る。六年(462年)丹陽尹、七年(463年)衛尉を兼ねる。前廃帝即位後、征虜将軍・領衛尉・丹陽尹のまま、のち左将軍・南兗州刺史。景和元年(465年)南徐州刺史。泰始元年(465年)中軍将軍・領太常となるが拝命前に護軍将軍に転じ、四方平定後、使持節都督湘広交三州諸軍事・平南将軍・湘州刺史となった。太宗は主書趙扶公を遣わし子仁に長い訓誡の言葉を伝えさせた。要旨は、宗室が争えば社稷が傾く恐れがあること、太宗自身が徳を修めて三祖の基業を守っていること、諸弟が幼く経験に乏しいこと、桂陽・巴陵にはまだ後継がなく司徒(休仁)と自分二人でようやく国を保っている現状、子仁ら兄弟が互いに支え合い王室を軽んじさせぬよう努めるべきこと、朝廷を敬い徳を積めば爵禄も自然に進むこと、を諭したものである。時に司徒建安王休仁が南討からまだ帰らず、帰還後に上へ「将来社稷のためにならぬ」と進言し、子仁は拝命前に死を賜った。時に十歳。

始安王子真

字は孝貞、孝武帝の第十一子。大明五年(461年)五歳で始安王・食邑二千戸、輔国将軍・呉興太守。七年(463年)使持節監広交二州始興始安臨賀三郡諸軍事・平越中郎将・広州刺史となるが赴任せず、征虜将軍・南彭城太守・領石頭戍事に遷る。景和元年(465年)丹陽尹、のち南兗州刺史。泰始二年(466年)左将軍・丹陽尹となるが拝命前に死を賜った。時に十歳。

邵陵王子元

字は孝善、孝武帝の第十三子。大明六年(462年)五歳で邵陵王・食邑二千戸。八年(464年)度支校尉・秦南沛二郡太守、のち冠軍将軍・南琅邪泰山二郡太守。景和元年(465年)湘州刺史となるが赴任せず尋陽に至り、晋安王子勛の反乱に遭い留め置かれ、撫軍将軍に進んだ。事平後、死を賜った。時に九歳。

その他の早世・被害の諸子

斉敬王子羽、字は孝英、孝武帝の第十四子。大明二年(458年)生まれ、三年で卒し追封・諡を受けた。

淮南王子孟、字は孝光、孝武帝の第十六子。大明七年(463年)五歳で淮南王・食邑二千戸(当時世祖は豫州之南梁郡を淮南国に改めていたが、前廃帝即位後に旧に復し、子孟は淮南郡を食邑とした)。景和元年(465年)冠軍将軍・南琅邪彭城二郡太守。泰始二年(466年)安成王に改封するが拝命前に死を賜った。時に八歳。

晋陵孝王子雲、字は孝挙、孝武帝の第十九子。大明六年(462年)四歳で晋陵王・食邑二千戸となるが拝命前の同年に薨じた。

南海哀王子師、字は孝友、孝武帝の第二十二子。大明七年(463年)四歳で南海王・食邑二千戸となるが拝命前の景和元年(465年)前廃帝に殺された。時に六歳。太宗即位後、諡を追贈された。

淮陽思王子霄、字は孝雲、孝武帝の第二十三子。大明五年(461年)生まれ、八年(464年)薨じ追封・諡を受けた。

東平王子嗣、字は孝叔、孝武帝の第二十七子。大明七年(463年)生まれ、東平沖王休倩の後を継ぎ東平王・食邑二千戸となった。休倩の生母顔氏は性厳酷であったといい、泰始二年(466年)子嗣の生母景寧園昭容謝氏は、世祖生前に慈愛を装いながら崩御後は本性を露わにし虐待を加える顔氏の下から、子嗣を実の血統に戻すよう上表した。許されたが、その年のうちに子嗣は死を賜った。時に四歳。

武陵王贊(明帝の子として本巻に付載)

武陵王贊、字は仲敷、明帝の第九子。泰始六年(470年)生まれ、その年、世祖の血統が悉く絶えたことを憐れみ「継絶」の礼により第九子智随を世祖の後継とし武陵郡王とする詔が下された(食邑五千戸)。「世祖一門の女子は多く残るが後継の男子はなく、諸侯は天子を祖と称せずとも一家の情誼はある」との趣旨が述べられている。後廃帝元徽四年(476年)使持節督南徐兗青冀五州諸軍事・北中郎将・南徐州刺史。順帝昇明元年(477年)持節督郢州司州之義陽諸軍事・前将軍・郢州刺史。二年(478年)沈攸之に包囲され、都督荆湘雍益梁寧南北秦八州諸軍事・安西将軍・荆州刺史・持節に転じ、攸之平定後に赴任したが、その年薨じた。時に九歳。国は除かれた。

史論

晋安王(子勛)ら諸王は群下に担がれてその禍乱を成し、ついに天下が沸き立ち収拾のつかぬ事態を招いたが、世祖の血統もまたこれによって絶えた。強きは弱きに如かずとは、まさにこのことをいうのである。