宋書卷七十五 列傳第三十五 顔竣
出自と世祖への近侍
顔竣、字は士遜、琅邪臨沂の人。光禄大夫顔延之の子。太祖が延之に「卿の子らのうち誰が卿の風格を継ぐか」と問うと、延之は「竣は臣の筆を、測は臣の文を、㚟は臣の義を、躍は臣の酒を得た」と答えた。竣は初め太学博士・太子舎人となり、のち世祖の撫軍主簿に出て深く寵愛され、竣もまた尽力して補佐した。元嘉中、上が諸王の朋党形成を望まなかったため、竣を尚書郎に召そうとしたが、吏部尚書江湛が「竣は府に称あり、異動は不可」と反対して止んだ。府に従い安北鎮軍・北中郎府主簿に転じた。
互市を巡る議
元嘉二十八年(451年)、北虜が彭城から北帰し互市の再開を求めた際、竣は「夷狄との和親は無益で、これまでの経緯がその証」であり、互市を認めれば再び弊害の萌芽を開くことになるとして、境を固め徳化を修めて辺事を治めるべきと論じた。沙門釈僧含が竣に「讖記に真人応符の名が殿下に及ぶ」と語り、竣がこれを親しい者に語ったことが広まり太祖の耳にも達したが、当時は元凶の巫蠱事件が発覚していたため咎められなかった。世祖が尋陽に鎮したとき南中郎記室参軍に遷る。三十年(453年)春、父延之の致仕により解職を求めたが許されず、仮を賜り出発前に太祖崩御の報が届く。世祖挙兵に際し咨議参軍・領録事となり檄文を作成、世祖が病に伏す中で竣が起居の判断を専断し、軍機の決裁に当たった。世祖践祚後、侍中、のち左衛将軍・散騎常侍(常侍は辞退許可)となり、建城県侯に封ぜられ食邑二千戸。
世祖践祚後の顕職と丹陽尹
孝建元年(454年)、吏部尚書・驍騎将軍を領し、精励して人事に当たり、上奏はほぼ通った。後任の謝荘は容貌美しく、竣は容貌厳毅で客の応対も異なり、当時「顔竣は怒って官を与え、謝荘は笑って官を与えず」と評された。南郡王義宣・臧質らの反乱に際し竣は兼領軍となり、その子らが建康・秣陵・湖熟・江寧の県境に潜伏していたことで丹陽尹褚湛之が免官・四県の官長が収監され、竣が丹陽尹・散騎常侍を加えられた。竣に子がなかった折、大司馬江夏王義恭の子らが元凶に殺されたのち共に男子を得たため、上は自ら命名し、義恭の子を伯禽(魯公伯禽になぞらえ)、竣の子を辟彊(漢の張良の子になぞらえ)とした。
貨幣改鋳を巡る議論
元嘉中に鋳た四銖銭は五銖銭と形制が同じで費用に見合わず私鋳されなかったが、世祖即位後に孝建四銖を鋳た。三年(456年)、尚書右丞徐爰は、貨幣制度は世に応じて変わるべきもので、年月を経て銭が磨耗・散逸し公私ともに困窮しているため、古典に倣い銅を集めて改鋳し、贖罪の銅納で刑を軽減する制を建議し、詔許された。しかし鋳造された銭は薄小で輪郭が不完全だったため民間の私鋳が横行し、鉛錫を混ぜた粗悪な銭や古銭の削り取りが盛んになり、厳刑を科しても止まず物価が高騰した。そこで薄小無輪郭の銭を禁じることとなった。
始興郡公沈慶之は、秦の重貨・漢の軽貨の故事を引き、民間鋳造を許し郡県に鋳銭署を置いて品質を統一し、規格外品は官が回収して永久に蔵すべきと論じた。太宰江夏王義恭は、百姓が官との関わりを嫌い署への出入りを望まないこと、輪郭回収に伴う不公平、旧禁品の急な解禁の矛盾、税率(万税三千)の実効性の乏しさ、銅が尽きるまでの間に不正が蓄積する懸念などを挙げて反論した。顔竣は、開署放鋳には賛同しつつも、銅の枯渇と器物価格高騰、旧禁の急な解禁がもたらす混乱、私鋳・削り取りの根絶の困難さ、五銖・半兩などの古銭が一年を待たず消尽する恐れを指摘し、府庫の窮乏を憂うるならば簡費節倹こそ肝要であり、鋳銭署を開いて器用の道を断ち規格を定めて徐々に鋳造するのがよいとした。のちに議者が銅不足を理由に二銖銭の鋳造を提案すると、竣は再び反対し、新銭乱発の弊害・府庫窮乏の解消にならぬこと・姦民の跋扈を招くことなど三つの不可を挙げて論じた。
前廃帝即位後、二銖銭が鋳られてさらに細小化し、官銭が出るたびに民間が模造して質を落とし、無輪郭のものは「耒子」と呼ばれた。景和元年(465年)、沈慶之が私鋳の解禁を上奏したため銭貨は乱れ、千銭が長さ三寸に満たぬ「鵝眼銭」、それより劣る「綖環銭」が現れ水に浮くほど軽薄化し、米一斗が一万銭に及んだ。太宗(明帝)の初め、鵝眼・綖環のみ禁じ他は通用させたが、その後民間鋳造を禁じ官署も廃止し、古銭のみを用いることとなった。
中書令辞退の上表
竣は散騎常侍・丹陽尹から中書令を加えられ丹陽尹はそのままとしたが、辞退の上表をした。要旨は、微賤の身から先朝・当代二代の厚恩により過分な地位を得たことへの恐懼、功績に見合わぬ栄爵への不安、災いが身に及ぶことへの懸念であり、収恩と全分を願う内容であった。時に旱魃で民が飢え、竣は飴の製造を一月禁ずるよう上言し米数万斛を節約させた。謝荘に代わり吏部尚書・太子左衛率を領したが、拝命前に丁憂となる。右将軍・丹陽尹として復職し、旧恩を頼みに直言を重ねたが、上が即位後に多くの造営を興したことに対する諫争は聞き入れられず、竣は自らの才を恃み朝政を専らにする望みを持っていたため上に疎まれることを恐れ、外任を求めた。
讒言と誅殺
大明元年(457年)、東揚州刺史となったが赴任後も憂懼し、母の喪により留まることを許された。以後も親しい者に対し朝政の得失や不満を語り、王僧達が誅殺された際、僧達が死に臨んで竣による讒構を訴えたとの噂と符合したため、上は御史中丞庾徽之に竣の罪状を奏させた。奏には、竣が選曹を専断し風雲に乗じて権柄を窺い、京兆の重職にあって驕慢を極め、詔使に無礼を働き、恩を受けても恨みを募らせ、母の喪に乗じて謀を企て、丹陽府庫の物を私に貸し与えて多くの門生を集め、公私の別なく驕奢にふけった等の罪状が列挙された。上は初め処刑を控え免官のみとしたが、竣が重ねて謝罪の上表をしたことでかえって上の怒りを深めた。のち竟陵王誕の謀反に連座させる形で罪を問われ、御史中丞庾徽之に改めて奏させ、詔により獄中で死を賜った。妻子は許されたが、子の辟彊は交州へ流された末に道中で殺された。竣の文集は世に行われた。
史論
世祖は若くして藩に臨み、胸襟を開いて賓僚と交わり、危機に際しては肝胆を尽くして頼りにしたが、天下を得て後は日々を経るごとに憂喜も変わり、臣下の忠誠が忘れられ、恩寵が過ぎればかえって嫌疑と怨みを生んで誅責に至った。顔竣が身を滅ぼした一因はここにある。人臣たる者、主に仕えて私心を捨て、功を立てても報いを求めなければ、たとえ陥れようとする者があっても陥ることはないのである。