俊才と機密
- 王僧綽、琅邪臨沂の人。左光禄大夫王曇首の子。幼くして大成の器量があり、若い頃から国器と目された。学を好み理知に富み朝廷の典礼に精通した。十三歳のとき太祖に引見され拝礼の際に涙して咽び、上も感極まって共に涙したという。豫章県侯を襲封し太祖の長女東陽献公主を娶った。
- 江夏王義恭の司徒参軍、始興王の文学、秘書丞、司徒左長史、太子中庶子を経て、元嘉二十六年(449年)尚書吏部郎に転じ大選(人材登用)を掌り、人物の流品を深く見極め、抜擢はいずれもその分に適っていた。二十八年(451年)侍中に遷り機密を任された。僧綽は沈深で局量があり才能を誇らなかった。
- かつて父曇首は王華とともに太祖に重用されたが、王華の子嗣は才が劣り待遇も軽く、僧綽は中書侍郎蔡興宗に「私の名位は本来新建(嗣の封号)と同格であるべきだが、今日の差は姻戚関係によるものに過ぎない」と語ったという。侍中に任ぜられた時、年二十九であったが、始興王濬に年齢を問われると自らの早い出世を憚りしばらく躊躇ってから謙虚に答えるほどであった。
太子廃立をめぐる進言
- 元嘉末年、太祖は自らの死後を深く憂慮し、若い僧綽に後事を大きく託そうとし朝政の大小に参与させた。従兄の王徽(清介の士)はその権勢が盛んすぎることを恐れ抑制を勧めたため、僧綽は呉郡・広州への出任を求めたが許されなかった。
- 二凶(劭・濬)の巫蠱事件が発覚した際、上は僧綽だけを先に召してこれを告げた。太子の廃立を計画するに際し、前朝の廃立の故事を調べさせ、劭が東宮で夜、将士を饗応したことを僧綽が密かに上聞し、また漢魏以来の廃王の故事を撰集して江湛・徐湛之に送るよう命じられた。
- 立太子候補について湛之は隨王誕(自身の女婿)を、江湛は南平王鑠(自身の妹婿)を推し、太祖自身は建平王宏を望んでおり議論は長引いた。太祖が「皆それぞれ自分の利害で計り国家のことを共に憂える者がいない」と嘆くと、僧綽は「立太子の決は陛下のご聖断による、速やかに決すべきで遅延は不可、断つべき時に断たねば逆に禍を招く、義をもって恩を割き小さな躊躇に囚われるべきではない」と諫めた。「淮南に石を投げるように」(決断すれば速やかに広まってしまう)と述べ、事の機密が漏れれば千載の笑い草になると懸念を表した。
- 上は「そなたは大事を決断できる、これは重大事ゆえ熟慮せねばならぬ、庶人(劭)を廃したばかりで私に慈愛の道がないと言われかねない」と答えたが、僧綽は「臣は後世、陛下が弟(義康)は処断できても子(劭)は処断できなかったと言われることを恐れます」と重ねて諫めた。上は黙然とした。同席していた江湛は退出の際、僧綽に「あの発言はいささか切迫すぎたのではないか」と言うと、僧綽は「私こそ君が率直でなかったことを恨む」と答えたという。
最期
- 劭が弑逆した際、江湛は尚書省でこの変を聞き「僧綽の言に従わなかったからこうなった」と嘆いた。劭の即位後、僧綽は吏部尚書に転じ重用されたが(事の詳細は劭・濬の伝にある)、まもなく劭が太祖の巾箱と江湛の家の書簡を調べ、僧綽が上聞した将士饗応の件や廃立の議に関する上奏を見つけ出し、僧綽を捕らえて殺した。時に年三十一。これにより北第(王侯の邸宅街)の諸王侯は僧綽に異心ありと疑い、その門客の太学博士賈匪之・奉朝請司馬文穎・建平国常侍司馬仲秀らも殺された。
- 世祖即位後、散騎常侍金紫光禄大夫を追贈され、諡は愍侯とされた。太社の西の空き地は、呉の丁奉の邸宅であった頃から、孫皓の流謫、江左では周顗・蘇峻・袁悦・司馬秀(章武王)の邸宅を経てすべて凶事で終わり、後に給された臧寿も喪禍に遭ったことから「凶地」と呼ばれていたが、僧綽は自ら正直をもって処すれば宅地に吉凶はないとして、ここに邸を築くことを願い、着工したが完成前に殺された。
- 子の儉は跡を継ぎ、斉の昇明末年(479年頃)に斉国の尚書右僕射となった。
史論
- 史臣曰く、宋室における骨肉の禍いの深いこと、まことに甚だしい。讐怨が近親の間に極まり、たとえ天倫を傾け道を滅ぼす行いでなくとも、内に隙が生じ外に邪が興れば、天性の情愛も共に尽きてしまう。世祖は年若く軽躁で、久しく朝廷の寵を得ず辺境に任ぜられていたため、当璧の重責(皇位継承)を担うにあたり臣下の疑心を招いた。もし嫡長を守り賢を待たずとも順当に世を継いでいれば、密かな禍は自ずと消え危機も免れ得たであろう。聖賢の教えは決して偽りではない。昔、山濤は羊祜を太子太傅に推挙し後事を託そうとしたが羊祜は短命に終わった。王僧綽もまた主君の心をよく理解し国家の重責を担う器として期待されながら、皇帝の崩御に先んじて世を去った。徐湛之・江湛の二臣もまた徳と謙譲をもって二代に高名を得ながら、盛年に功なきまま世を去った。惜しむべきことである。