宋書卷七十一 列傳第三十一 江湛

出自と人柄

  • 江湛、字は徽淵。済陽考城の人。湘州刺史江夷の子。喪に服して孝をもって聞こえ、文義を愛し弾棋・鼓琴を好み算術にも通じた。著作佐郎に始まり彭城王義康の司徒行参軍、南譙王義宣の左軍功曹、義康の司徒主簿・太子中舎人などを歴任した。司空檀道済がその妹を子の嫁にと求めたが許さず、義康自身の求めにも従わなかったため、当時の人々はその志の堅さを重んじた。義康が身近に引き立てようとしたが、湛は固く外任を求め武陵内史となった。
  • 帰京後、司徒従事中郎、太子中庶子、尚書吏部郎などを歴任し、隨王誕が北中郎将南徐州刺史となった際は長史南東海太守として政事を委ねられた。元嘉二十五年(448年)侍中に召され機密を任され本州大中正を領し、左衛将軍に遷った。国子祭酒を江夏王義恭が兼ねた際、湛と侍中何攸之が博士を領した。二十七年(450年)吏部尚書に転じた。
  • 家は貧しく財利を求めず、贈答品が門に満ちても一切受け取らず、余分な衣食も持たなかった。上に召された際、洗濯中の衣しかなく病と称して日を延ばし衣が仕上がってから参じたことがある。牛が飢えて馭者が飼葉を求めた際には湛は長く考えた末「(牛には)酒を与えてよい」と冗談を言ったという。選官として厳格に過ぎるとの批判もあったが公平無私で頼み事を一切受け付けなかったため世に称された。

北伐と最期

  • 上(太祖)が北伐を大挙して行った際、朝廷の大方は反対する中、湛だけが賛成した。索虜が瓜歩に至った際には領軍将軍劉遵考の江上出兵に湛が兼ねて軍事を委ねられた。虜が求婚してきた際、上が太子劭以下を集めて議した折、衆議は許すべしとしたが湛は「戎狄は信なし、許しても益なし」と述べ、劭は「三王(鎮を出た諸王)が危地にある今、あえて異論を唱えるのか」と怒り厳しい語気で対立した。劭は湛を斬ろうとまで思い詰めた素振りを見せた。
  • 劭は上に「北伐の敗辱は数州を滅ぼした、江湛を斬れば天下に謝せる」とまで言ったが、上は「北伐は我が意であり、江湛は反対しなかっただけだ」と応じた。劭は後の宴会でも湛を招かず「江湛は佞人であり親しむべきでない」と常々語った。上は劭の長子偉之に湛の第三女を娶らせ和解を図った。
  • 上が劭を廃そうとした際、湛にその詔草を作らせていた。劭の弑逆の夜、湛は上の御前にあり、叫び声を聞いて傍らの小屋に隠れたが、劭の遣わした者に捕らえられそうになった際、舎吏が「ここにはいない」と偽ったため兵はその舎吏を殺し、ついに湛を見つけ出した。湛は窓に手を掛けたまま殺害された。顔色ひとつ変えなかったという。時に年四十六。五子恁・恕・憼・愻・法寿もすべて殺された。
  • 湛の家では事件前しばしば怪異な兆しがあり、事件の数日前には湛が寝ていた牀に突然数升の血が現れたという。世祖即位後、左光禄大夫開府儀同三司を追贈され散騎常侍を加えられ、諡は忠簡公とされた。長子恁は太祖の第九女淮陽長公主を娶り著作佐郎であった。