宋書卷七十一 列傳第三十一 徐湛之

出自と若年

  • 徐湛之、字は孝源。東海郯の人。司徒徐羨之の兄の孫、呉郡太守徐佩之の弟の子。祖父欽之は秘書監、父逹之は高祖(劉裕)の長女会稽公主を娶り振威将軍彭城沛二郡太守となった。高祖の諸子がまだ幼かった頃、逹之は姻戚として先に功を立てさせようと司馬休之討伐の前鋒となったが、休之の遣わした魯宗之の子軌に敗れ陣没した。中書侍郎を追贈された。
  • 湛之は幼くして父を失い高祖に愛され、常に江夏王義恭とともに起居した。永初三年(422年)詔により、会稽公主の子として殊遇を受け枝江県侯食邑五百戸に封ぜられた。数歳の頃、弟淳之と牛車に乗っていて牛が暴走し車が壊れた際、湛之は先に弟を助けさせ、人々はその幼くして分別あることを称えた。成長してからは大義に通じ、祖母・母に孝謹をもって仕えた。

累進と会稽公主

  • 元嘉二年(425年)著作佐郎・員外散騎侍郎に召されたがいずれも就かず、六年(429年)東宮の開設に伴い太子洗馬に起用され、国子博士、南彭城沛二郡太守、黄門侍郎などを歴任し、祖母の老齢を理由に一時朝直を辞したが再び二郡太守・輔国将軍に任ぜられた。その後、秘書監領右軍将軍、侍中加驍騎将軍、秘書監加散騎常侍などを歴任した。
  • 会稽公主は太祖に長女として礼遇され、家事の大小を必ず公主に諮ってから行われるほどであった。太祖の謝晦西征の際には公主が留まって六宮を統べ、意に沿わぬことがあれば号泣するため上(太祖)はこれを憚った。高祖が微賤の頃、新洲で荻を刈っていた時分の粗末な衣(敬皇后自ら作った納布衫襖)を、高祖は公主に「後世驕奢に流れる者があればこれを示せ」と託していた。
  • 湛之は大将軍彭城王義宣に愛され劉湛らとも親しかったため、劉湛が罪を得た際に連座を疑われ、太祖は激怒し極刑にしようとした。湛之が困窮して公主に告げると、公主は即日参内し、太祖の前で号泣して臣妾の礼も執らず、錦嚢に納めたかの粗末な衣を投げつけて「お前の家はもとは貧賤であった、これは母(高祖の母)がお前の父のために作った服だ、今一度の贅沢に飽いて我が子孫を害するつもりか」と詰った。太祖も号泣し、これによって湛之は罪を免れた。

風雅と奢侈

  • その後、中護軍・太子詹事・侍中を歴任した。湛之は書簡・音辞に優れ、貴戚豪家として財産も豊かで、邸宅・園池は貴族の中でも並ぶ者なく、伎楽の妙も一時に冠絶した。門生十余人は皆三呉の富人の子で容姿端麗、外出の際は道を埋め尽くし、雨天には後車で運ばせるほどであった。太祖はその奢侈をたびたび諫めた。
  • 当時、安成公何朂(何無忌の子)、臨汝公孟霊休(孟昶の子)もともに奢豪で、湛之と肴膳・器服・車馬を競い合い、京邑では「安成の食、臨汝の飾、湛之は両者を兼ね備える」と評された。何朂は侍中に至り没後荒公と諡され、孟霊休は弾棋を能くし秘書監に至った。
  • 湛之は冠軍将軍丹陽尹、征虜将軍加散騎常侍を歴任、会稽公主の喪で一時辞任したが復職を固辞し廷尉に自ら出頭して罪を受けようとしたほどであった。元嘉二十二年(445年)范曄らの謀反に際し、湛之は当初これに加わりながら後に事を密告したが、陳述に不十分な点があり曄らの供述と食い違ったため、自ら廷尉に出頭して罪を認めた。上は慰めて郡に帰らせた。

范曄事件の弁明

  • 湛之は上表し、范曄・孔煕先らの謀反が彭城王義康と唇歯の関係にあったこと、自身が仲承祖から陰謀を知らされた経緯を詳述し、当初は義康を思う私情から告発を躊躇したものの、最終的には自ら真相を明かしたことを弁明した。范曄らの供述には湛之を巻き込もうとする虚偽が多く含まれていたとし、義康が南方に出た当初、自分に太祖から慰問を託されていた頃から義康に不穏な言動があったが深く諫めて拒んだこと、疑いを招くのを恐れて事を上聞せずにいたことなどを縷々陳述した。
  • 湛之は「臣は駑鈍とはいえ石ではない、汚名を恐れず生き恥を晒すのはひとえに讒言を晴らしたいがため」であるとし、処分を待つ意を述べた。上は優詔をもって処罰を許さなかった。
  • 二十四年(447年)服喪を終え中書令領太子詹事、さらに前軍将軍南兖州刺史に出た。政治に優れ威と恵を兼ね備え、広陵の旧来の高楼を修繕し、風亭・月観・吹台・琴室を新たに築き花木を植え文人を招いて遊観の場とし、一時の盛観となった。沙門釈恵休は文才に優れ湛之と親しく交わったが、後に世祖の命で還俗し湯氏を名乗り揚州従事史に至った。
  • 二十六年(449年)丹陽尹領太子詹事に復し、二十七年(450年)索虜の瓜歩来襲に際しては皇太子とともに石頭を分守した。二十八年(451年)魯爽兄弟の帰順を機とした処遇についても、私怨を交えず献策した。

尚書行政と最期

  • 尚書僕射に転じ護軍将軍を領した。尚書令何尚之が国戚として重んじられていた湛之に朝政を委ねようとし、訴訟の裁定を一切取り扱わず、湛之と互いに職務を押し付け合ったため、御史中丞袁淑がともに免官を上奏した。詔により職掌が改めて整理され、湛之と尚之がともに訴訟を受理することとなったが、実質的な朝事はすべて湛之に帰した。
  • 劉湛の誅殺と殷景仁の死後、太祖は沈演之・庾炳之・范曄らを重用したが、後に江湛・何瑀之が加わり、曄は誅せられ炳之は免官、演之・瑀之も没した。この頃、江湛が吏部尚書として湛之と並び権要にあり、世に「江徐」と称された。上が病む時は湛之が常に侍って薬を調え、劭・濬(二凶)の巫蠱事件が発覚し上が劭を廃し濬に死を賜ろうとした際にも深く関わった。
  • 世祖は寵愛薄く度々地方に出されていたが、南平王鑠・建平王宏はともに愛され、鑠の妃は湛之の妹であったため湛之は鑠の擁立を上に勧めた。元嘉末年、鑠を寿陽から召したが立太子の決定は長引き、湛之は上と人払いをして連日連夜語り合い、盗聴を恐れて自ら燭を持ち壁を巡回させたほどであった。
  • 劭が弑逆した夜も、上(太祖)と湛之は人払いをして語り合っており、明け方まで燭を消さなかった。湛之は物音に驚いて北戸に走ったが開ける間もなく殺害された。時に年四十四。世祖即位後、司空を追贈され散騎常侍を加えられ、諡は忠烈公とされた。
  • 詔により「徐湛之・江湛・王僧綽の一門は惨禍を被り遺孤が流寓している、痛惜の念に堪えない、本宅に帰らせ手厚く扶助せよ」とされ、三家に長く俸禄が給された。湛之の三子のうち聿之・謙之は元凶に殺され、恒之は嗣封したが太祖の第十五女南陽公主(早く卒し子なし)を娶っていた。聿之の子孝嗣が跡を継いだが、斉の受禅により国は除かれた。