宋書卷七十 列傳第三十 袁淑(陽源)

袁淑(字は陽源、?–?CE)は陳郡陽夏の人。丹陽尹袁豹の末子。博渉多通で華麗な文才を謳われた。太子左衛率として宿直中、元凶劉劭の弑逆計画への加担を拒み諫めたため、その場で殺害された。享年46。世祖即位後、忠義を貫いた臣として顕彰され侍中太尉を追贈された。

年表(1件)

出自と若年

  • 袁淑、字は陽源。陳郡陽夏の人。丹陽尹袁豹の末子。幼くして気概があり、数歳の頃、伯父の湛が「これはただの子ではない」と評した。十余歳で姑の夫王弘に才を認められ、章句の学には拘らず博渉多通で、文辞に才があり辞采は豪奢であった。縦横の弁才を持ちながら、本州の主簿・著作佐郎・太子舎人にはいずれも就かなかった。

彭城王義康府から諸府歴任へ

  • 彭城王義康に軍司祭酒として招かれたが、義康は文学を好まず、外面は礼を尽くしても内心は疎遠であった。劉湛は淑の従母兄にあたり淑を自陣に引き入れようとしたが淑はこれに応じず、大いに不和となった。長患いを理由に免官し、衡陽王義季の右軍主簿に補せられ、太子洗馬に遷ったが脚疾で就かなかった。
  • 衛軍臨川王義慶が文章を好み諮議参軍として招き、まもなく司徒左西属に遷り、宣城太守に出た後、中書侍郎に入った。母の喪で去職し、服闋の後は太子中庶子となった。元嘉二十六年(449年)尚書吏部郎に遷り、その秋の北伐に際し従容と侍坐し「今こそ中岳に鑾を鳴らし趙魏を席巻し泰山で封禅すべき時、私は千載の好機に遭い封禅書の一篇を献じたい」と述べたが、太祖は「盛徳の事、私にはまだそれほどの資格はない」と笑って答えた。
  • 始興王濬の征北長史南東海太守に出た。到着した際、濬が「舅(叔父にあたる淑)を煩わせるとは」と言うと、淑は「朝廷が私を遣わしたのは公の府の威望を輝かせるためです」と答えたという。後に御史中丞に戻った。

索虜防禦の議

  • 索虜(北魏)が南侵し瓜歩まで至った際、太祖が百官に防禦策を議させたところ、淑は長大な上議を奉った。その要旨は、敵は険阻な地形を頼みに侵入したもので実力は張り子に過ぎず、江左の守りを固めるだけでなく淮南の要衝を確保すべきこと、租税・軍賦の負担を均しくして民心を得るべきこと、功に応じ果敢な将士を金印重賞で募るべきこと、敵の内部離反を誘い間諜・弁舌を用いて包囲網を解くべきこと、最終的には北伐によって旧疆を回復し封禅の礼を行うべきことなどを、華麗な駢文をもって説いたものであった。
  • 淑は誇張を好み時人にしばしば嘲られた。始興王濬がかつて銭三万を淑に贈った後、翌日それを誤りだとして取り戻そうとしたことがあり、淑はこれを諸侯間の贈答の礼を引いて皮肉る書を濬に送った。

元凶劉劭の弑逆計画への抵抗

  • 太子左衛率に遷った。元凶劉劭が弑逆を企てた夜、淑は宿直にあたっていた。劭は淑と蕭斌らを呼び、涙ながらに「主上は讒言を信じて自分を廃そうとしている、無実の罪を受け容れられない、明朝ことを起こすので力を貸してほしい」と告げた。淑と斌はともに「古来そのようなことはない、よくお考え直しを」と諫めたが、劭は怒色を露わにした。斌は恐れて服従を誓ったが、淑は「殿下は本当にそう思われているのか、幼少時の風疾(病)がまた起こっているのではないか」と叱りつけた。
  • 劭がなお実行の可否を問うと、淑は「疑われぬ地位にあれば成功はしよう、しかしその後は天地に容れられず大禍がすぐに至る、早くお止めなさい」と答えた。劭の左右は淑らに戎装(袴褶)を強い、錦を裂いて標識とさせたが、淑は自室に戻り牀の周りを歩き回った末、四更(夜明け前)にようやく眠った。
  • 劭が出発の際、淑を急ぎ呼んだが淑は起きず、車の前まで来ても乗るよう促されて拒んだため、劭は左右に命じて淑を斬らせた。時に淑は年四十六。奉化門外で殺された。

死後の顕彰

  • 劭は即位すると太常を追贈し賵物を厚くした。世祖即位の後、顔延之に詔を作らせ、淑が輕道重義の教えを体し、危急の中で正義を貫き主君を衛って身を殉じたことを称え、侍中太尉を追贈し諡を忠憲公とした。また淑と徐湛之・江湛・王僧綽・卜天与の四家に長く俸禄を給するよう詔した。
  • 淑の文集は世に伝わった。子は幾・敳・稜・凝・摽。敳は世宗(孝武帝)の歩兵校尉、凝は太宗(明帝)の世に御史中丞、晋陵太守に出たが、太宗初年に四方が反乱を起こした際、兵敗れて帰降し劉湛の冠軍府主簿に補せられた。淑の他の子はいずれも早くに没した。

史論

  • 史臣曰く、天地は久しいが人の道はそれとは異なり、蕣華(あさがおの花)や朝露のように儚いとまで言うには及ばぬにせよ、天寿の長さに拘るには及ばない。心のままに去就すべきであって存没に心を煩わすべきではない。しかし人は霊化が久遠であり生は再び来ないと思い、天の道が険しいのに逢わずに済むと信じ、七尺の身が永く保てるかのように図に頼り、目先の富貴を惜しんで大節を失う。義が生よりも重い場合には身を投げ打って主に殉じる者は世に稀である。袁淑(陽源)のような節義がなければ、忠義を尊ぶ言葉も何によって貴ばれよう。