出自と高祖・太祖への出仕
- 王曇首、琅邪臨沂の人。太保王𢎞の末弟。幼くして学業を志し、著作郎に任じられたが赴かなかった。兄弟の分財の際、曇首は図書のみを取った。
- 琅邪王大司馬属として洛陽園陵の修復に従い、従弟の王球とともに高祖のもとを訪ねた際、謝晦が同座しており、高祖から「膏粱の家柄でありながら軍旅に志を屈するとは」と讃えられた。曇首は「神武の師に従えば凡夫にも志が立つのです」と答え、謝晦は「仁者は必ず勇あり」と評した。
- 彭城の戯馬台の宴で高祖以下皆が詩を賦した際、曇首の詩が最も早く成った。高祖が兄の王𢎞に「弟はお前と比べてどうか」と問うと、𢎞は「私ごとき家の誉れなど及びません」と答えたという。
- 曇首は識見あり喜怒を色に出さず、家中も和やかで、金玉の装飾を身につけず妻女にも玩飾を許さず、俸禄以外は一銭も受け取らなかった。
- 太祖が冠軍将軍・徐州刺史として彭城を鎮めた際、府の功曹となり、のち長史に転じ江陵に随った。高祖は「王曇首は沈毅で器量があり宰相の才だ、何事も彼に相談せよ」と太祖に語った。
- 景平年間、西方に龍が現れ天子の気ありと太史が奏したが、太祖が都入りを躊躇う中、曇首は到彦之・王華とともに固く即位を勧め、天人相応の理を説いた。都入りの道中で黄龍が舟に負われて現れる瑞兆があり、太祖は「これは夏禹が天命を受けたのと同じだ、私に耐えられるだろうか」と曇首に語った。
- 即位後、太祖は「宋昌のような者がいなければこの日はなかった」と述べ、曇首を侍中・右衛将軍・驍騎将軍に任じた。徐羨之らを誅し謝晦を平定したのは曇首と華の功による。
- 元嘉四年(427年)、北堂への出御の際に門の開閉をめぐる規則違反があり関係者が処罰されようとしたが、曇首が「旧例に従っただけで非礼とは言えない」と弁護し、太祖は特に咎めず制度を整備し直した。
- 太子詹事・侍中に遷る。謝晦平定後、太祖が曇首らを封じようとした際、曇首は「陛下の英明な決断で罪人を誅せたに過ぎず、我々の功にすぎない、国難を身の幸いとしてはならない」と辞退し、封は取りやめとなった。
- 兄の王𢎞が録尚書事・揚州刺史となり、曇首は宮中で信任を得て両宮に兼務した。彭城王義康は𢎞と並ぶ地位にありながら不満を抱き、曇首が中枢にあることをさらに嫌った。曇首は呉郡への転任を求めたが、太祖は「大厦を建てて棟梁を欠くようなことができようか」と許さなかった。
- 𢎞が長患いで辞意を示す中、曇首は𢎞を説いて府の兵の半数を義康に配し、義康を喜ばせた。
- 元嘉七年(430年)没。太祖は嘆き悲しみ、中書舎人周起の「王家は衰えるのか、賢者から先に亡くなる」との言葉に、太祖は「これは私の家の衰えだ」と答えた。
- 左光禄大夫・散騎常侍を追贈され、詹事はそのまま。九年(432年)、徐羨之誅殺の功により豫寧県侯・食邑千戸に追封、諡は文侯。世祖即位に際し太祖廟庭に配饗された。
- 子の僧綽が嗣ぎ、別伝あり。少子の僧䖍は昇明末に尚書令となった。