家学と剛直な官歴
- 王淮之、字は元曾、琅邪臨沂の人。高祖の王彬は尚書僕射、曽祖の王彪之は尚書令、祖父の王臨之、父の王納之はいずれも御史中丞。王彪之は博聞多識で朝儀に精通し、その学識は家世代々伝えられ、青箱に蔵されたことから「王氏青箱学」と呼ばれた。淮之は礼伝に明るく文辞にも長け、本国右常侍として起家、桓玄の大将軍行参軍、玄簒位後は尚書祠部郎、義熙初め尚書中兵郎、高祖の車騎中軍軍事・丹陽丞・中軍太尉主簿を経て山陰令に出て能名があり、盧循討伐の功で都亭侯に封ぜられた。高祖の鎮西平北太尉参軍・尚書左丞・本郡大中正を歴任し、宋台建つと御史中丞に除せられ僚友に憚られた。淮之の父納之・祖父臨之・曽祖彪之から淮之まで四代この職に就いた。淮之がかつて五言詩を作った際、范泰が「そなたは弾劾のことしか分からないだろう」とからかうと、淮之は正色して「それでも世々雄狐の如きそなたよりましだ」と答えた。
- 世子右衛率謝霊運の殺人事件を糾弾しなかったため免官。高祖受命後、黄門侍郎を拝命。永初二年(421年)、服喪の期間について鄭玄注(二十七ヶ月)と晋初め用いられた王粛議(祥禫を併せて二十五ヶ月)の異同を上奏し、江左以来の慣行(王粛義に基づく二十五ヶ月)を維持し、朝野で礼を統一すべきだと論じ、従われた。
- 司徒左長史に遷り始興太守に出た。元嘉二年(425年)江夏王義恭の撫軍長史・歴陽太守として州府の任を代行し、軍民ともに便とした。まもなく侍中に召還され、翌年都官尚書に転じ吏部を改めて領した。性格が厳しく縉紳の望みを損なうことがあり、丹陽尹に出た。淮之は旧儀に精通し質問に答えられぬことがなかった。大将軍彭城王義康(録尚書事)は常々「高遠な玄虚の議論など要らぬ、王淮之のような者が二、三人いれば天下は治まる」と嘆じたが、平素の風格は時流に重んじられなかった。儀注を撰し、朝廷は今日まで用いている。十年(433年)、五十六歳で卒した。子の王興之は征虜主簿。