宋書卷五十八 列傳第十八 謝弘微

出自と嗣子となる経緯

  • 謝弘微、陳郡陽夏の人。祖父の謝韶は車騎司馬、父の謝思は武昌太守。従叔の謝峻(司空謝琰の第二子)に後継がなかったため謝弘微がその嗣子となった。弘微は本名を密といったが、継嗣先の内諱に触れるため字で呼ばれた。幼少より精神が落ち着き、時を経てから話すような子であった。継嗣先の叔父謝混は人物眼があり弘微を見て「この子は深く聡明だ、これほどの子を持てれば十分だ」と父の謝思に語った。十歳で謝峻の後を継ぎ、弘微にとっては本来緦麻(遠い服喪関係)の親であり、中表の親戚とも普段面識がなかったが、率直な態度で交わり礼に適っていた。義熙初め、謝峻の爵位建昌県侯を襲封。弘微の実家は貧しかったが継嗣先は裕福で、しかし弘微は書数千巻と国吏数人のみを受け取り、遺財や俸禄には一切関与しなかった。謝混はこれを聞いて驚嘆し、国郎中令の漆凱之に「本来は北舎(実家)と分け合うべきだが、国侯が意に介さないなら、通常の割合で分け送るように」と語ったが、弘微は混の意を無下にできず少し受け取った。

烏衣の遊びと謝混の期待

  • 謝混は品格高く交遊も少なかったが、族子の謝霊運・謝瞻・謝曜・謝弘微とだけは文義を通じて親しく交わり、共に烏衣巷に住んだことから「烏衣の遊び」と呼ばれた(謝混の五言詩「昔為烏衣遊」はこれを詠んだもので、皆親しい甥にあたる)。世評高い謝瞻らも謝弘微の簡潔な言葉には敬服し、謝混は特に彼を重んじ「微子」と号し、「お前たちは才も弁も豊かだが必ずしも衆心に適うとは限らない、要を得た言葉で人の心を掴むのは微子に及ばない」と語った。また謝混は常々「阿遠(謝瞻)は剛直だが気負い過ぎ、阿客(謝霊運の幼名)は博学だが慎みに欠け、曜は才を恃んで節操に篤くなく、晦(謝晦)は自らを知りつつ善言を聞き入れない、才を発揮しても最後にはこれが悔いとなろう、微子だけは非の打ち所がない」とも言い、「微子は違っても人を傷つけず、同調しても正を害さない、六十歳になれば必ず公輔に至るだろう」と評した。酒宴の折に謝混は韻語を作り謝霊運・謝瞻らを励まし、謝弘微に対しては終始褒め言葉のみを連ねた。
  • 曜は弘微の兄、その小字。遠は謝瞻の字。客児は謝霊運の幼名。晋代の名家で国封を受けた者は多く員外散騎侍郎から起家するが、弘微もまた員外散騎から起家し琅邪王大司馬参軍となった。義熙八年(412年)、謝混が劉毅の党として誅殺され、妻の晋陵公主は琅邪王練に再嫁を命じられたが公主は固辞し、詔により謝氏との縁は絶たれたものの、公主は謝混の家事を弘微に委ねた。謝混は代々宰輔を輩出し、一門で二つの封を得ており、田業十余箇所、僮僕千人を有し、遺されたのは二人の幼い娘のみであった。弘微は公事のように生業を経営し、一銭一尺の帛の出入りにも帳簿をつけた。通直郎に遷る。

東郷君の帰還と清廉

  • 高祖受命の後、晋陵公主は東郷君に降格されたが、謝混に連座した罪ながら節義があったとして謝氏に戻ることを許された。混の死から九年、家屋敷は整い倉庫は満ち、家人の様子も昔と変わらず、田畑の開墾はむしろ以前より進んでいた。東郷君は「僕射(混)は生前この子を重んじたが、人を見る目があったというべきだ、僕射は亡くなっていないも同然だ」と嘆じた。親戚縁者・道俗の旧知は東郷君の帰還を見て皆感嘆し、涙する者もいたという、弘微の義に感じたのである。
  • 弘微は厳正な性格で挙止は必ず礼度に従い、継嗣先の親族に対しても常より恭謹に仕え、伯叔二母や帰宗した両姑にも朝夕仕えて誠敬を尽くし、内でも言葉を伝える際は必ず衣冠を正し、婢僕の前でみだりに言笑しなかった。そのため尊卑を問わず皆神のように敬った。
  • 太祖(文帝)が江陵に鎮し宋初め宜都王に封ぜられた際、琅邪の王球が友、弘微が文学となった。母の喪により去職し、孝を尽くしたと称えられ、喪が明けても一年余り菜蔬の食を改めなかった。鎮西諮議参軍に除せられ、太祖即位後は黄門侍郎となり、王華・王曇首・殷景仁・劉湛らと共に「五臣」と号された。尚書吏部郎に遷り機密に参与し、まもなく右衛将軍に転じた。旧知の官吏や旧臣は皆弘微に選任を委ね、自らは清約な生活を旨とし器物や衣服も質素にしたが、飲食の味だけは豊美を尽くした。
  • 兄の謝曜は御史中丞・彭城王義康の驃騎長史を歴任し、元嘉四年(427年)に卒した。弘微は長らく粗食を続け哀戚は礼を過ぎ、服喪が明けてもなお魚肉を食べなかった。沙門の釈慧琳が訪れ共食した際も弘微だけは素食を続けたため、慧琳が「あなたは元々病がちで最近顔色も衰えている、喪が明けても食を控えて益がなければ養生を損なうだけではないか」と諭すと、弘微は「衣冠の形は改まっても心の哀しみは尽きない」と答え、感極まって涙した。弘微は幼くして父を失い兄に父のように仕え、兄弟の情愛は世に並ぶ者がなかった。弘微は人の長短を口にせず、兄の謝曜が人物評を好んで語るたびに別の話でそれを遮った。

財産への清廉と晩年

  • 六年(429年)東宮が創建されると中庶子を領し、まもなく侍中を加えられたが、権寵を畏れ固辞して拝さず、中庶子の解任だけが許された。献策のたびごとに手ずから書き、草稿は焼いて誰にも知らせなかった。上(文帝)は弘微が料理を能くすると聞き食を求めたことがあり、弘微が親故と共に用意して献上した後、人が上の御膳の様子を尋ねても弘微は答えず別の話でかわした、当時の人はこれを漢の孔光に比した。八年(431年)秋に病を得て右衛・領太子右衛率を解いたが、代わりに侍中を解き太子右衛率に吏部尚書を加えようとする議が出た際も、病が篤いとして固辞し免れた。
  • 九年(432年)東郷君が薨じ、遺した資財は巨万、園宅十余箇所、また会稽・呉興・琅邪の諸所に、太傅司空(謝琰)以来の事業と奴僮数百人が残された。世間は財産は二人の娘に、田宅・僮僕は弘微に帰すべきと考えたが、弘微は一切を取らず、自らの俸禄で葬儀を執り行った。混の娘婿殷叡は博打を好み、弘微が財を取らないと知るや、妻の妹や伯母・両姑の取り分まで濫りに奪い賭博の借金の返済に充てたが、家人は皆弘微の譲る姿勢に感化され誰も争わなかった。弘微の従弟で領軍将軍の劉湛はこれを見かねて「天下の事には裁定が必要だ、お前がこれを治めなければ誰が官を治められようか」と言ったが、弘微は笑って答えなかった。ある人が「謝氏累代の財産を殷君が一朝で戯れの借金に充てるのは理に合わない、あなたは黙って見過ごすのは財を海に棄てるようなものだ、清廉の名を立てようとして家内を困窮させるのも私は取らない」と非難すると、弘微は「親戚が財を争うのは最も卑しいことだ、今家人が黙っていられるのに、私がそれを煽って争わせてよいものか。多く分けて少なく取れば困窮には至らない、身が死ねば元々関わりのないことだ」と答えた。東郷君は謝混の墓に合葬され、弘微は病を押して赴き、その後病が重くなった。十年(433年)、四十二歳で卒した。
  • 当時、ある長身の鬼が司馬文宣の家に寄り「弘微を殺す命を受けた」と語っており、弘微の病が重くなるたびに予め文宣に知らせていたといい、弘微が死ぬとその鬼は文宣に別れを告げて去ったという。弘微は臨終に左右へ「二通の封書がある、劉領軍(劉湛)が来たら目の前で燃やせ、決して開けてはならない」と言い残した。その書はいずれも太祖の手勅であった。上はこれを深く痛惜し、二衛の兵千人に葬儀を執り行わせ、太常を追贈した。子の謝荘には別に伝がある。