出自と学問
- 徐広、字は野民、東莞郡姑幕の人。父の徐藻は都水使者、兄の徐邈は太子前衛率。一家は代々学を好み、徐広はとりわけ諸子百家・数術に精しく、あらゆる書を渉猟した。謝玄に州から辟され従事西曹、譙王司馬恬の鎮北参軍となる。晋の孝武帝はその博学を以て秘書郎とし、校書秘閣・員外散騎侍郎・領校書を歴任。隆安中、尚書令王珣の推挙で祠部郎となった。
服喪の議・著作郎としての活動
- 李太后の薨去に際し、徐広は「太皇太后は名位正しく体は皇極に同じ、理は情礼を尽くすべき」とし、『春秋』の母以子貴の義・成風・僖公の例を引いて、祖母の後を承けた者に准じ斉衰三年の服とすべきと議した。当時、会稽王世子元顕(録尚書)が百僚に自分への敬礼を求め、台内で徐広に議を立てさせたため内外がこぞって臣下の礼を執ることとなり、徐広は常にこれを恥じ悔いた。
- 元顕に中軍参軍として引かれ、領軍長史に遷る。桓玄輔政のとき大将軍文学祭酒となり、義熙初め、高祖の命で軍服儀注を撰した。鎮軍諮議参軍・領記室、樂成県五等侯に封ぜられ、員外散騎常侍・領著作郎に転じた。
- 義熙二年(406年)、尚書の奏により、著作郎徐広に国史撰修が命じられ(詔で「先朝の至徳が方策に著れていないので後世に伝えるべき」とされた)、六年(410年)散騎常侍に遷り徐州大中正を領し、のち正員常侍となった。
風雹の上書
- 風雹の災異があった際、徐広は高祖に上書し、古の聖賢は災異を恐れて自らを修めたことを述べ、義熙初めの高祖の匡復の功業を称えつつ、当時は戦功が多く事務が煩雑で刑罰が並び用いられ、穀帛は豊かでも民情が奮わず、盗賊が多い現状を指摘し、義熙の始めのように民情に順って寛容な政治を行うべきだと諫めた。のち大司農・領著作郎に転じた。
『晋紀』の完成と最晩年
- 十二年(416年)、『晋紀』四十六巻が完成し表を上って進呈、秘書監に遷った。かつて桓玄の簒位で安帝が宮を出た際、徐広は列に陪して哀慟し左右を動かした。高祖が受禅し恭帝が譲位したときも涙を流して哀しみ、謝晦がこれを見て「徐公は過ちに近いのでは」と言ったが、徐広は「私と君とは違う、君は佐命し王を興して千載の嘉運に遇ったが、私は世々晋の徳を被り、故主を眷恋するのだ」と答え、さらに歔欷した。
- 永初元年(420年)、詔で秘書監徐広は学優行謹により中散大夫とされたが、徐広は上表して年老いたことを理由に、故郷晋陵・京口への帰還を願い出、許されて手厚い贈賜を受けた。読書を好み老いても倦まず、元嘉二年(425年)七十四歳で卒した。礼問への答百余条が当世に用いられた。子の徐豁は「良吏伝」に見える。