宋書卷五十四 列傳第十四 沈曇慶
沈曇慶
呉興武康の人、侍中沈懷文の従父兄。父発は員外散騎侍郎で早卒、呉興太守王韶之が誄(弔文)を作った。曇慶は初め主簿・州従事・西曹主簿・長沙王義欣の後軍・鎮軍主簿に辟せられ、母の喪に哀毁が称えられた。本県令諸葛闡之が公解(解職)を上言し服喪明けに再び主簿となり、義欣はまた鎮軍記室参軍に招いた。出て餘杭令に遷り、司徒主簿・江夏王義恭の太尉録事参軍・尚書右丞に転じた。時に歳ごとに水旱があり、曇慶は常平倉を立てて民の急を救う議を建てた。太祖はその言を納れたが実施には至らなかった。本邑中正・少府・揚州治中従事史を領し、始興王濬の衛軍長史となった。元凶が弑立すると世祖は劭を討伐する際、曇慶を東に還らせ人を募らせたが、安東将軍随王誕は曇慶を捕らえ永興県の獄に付し、長く経ってから宥された。世祖践祚後、東海王褘の撫軍長史に除せられ、入って尚書吏部郎・江夏王義恭の大司馬長史・南東海太守・左衛将軍を歴任した。大明元年(457年)、督徐兗二州・梁郡諸軍事・輔国将軍・徐州刺史となった。時に殿中員外将軍裴景仁が彭城の戍を助けており、もと傖人(北方人)で戎荒の事情に通じていたため、曇慶は『秦紀』十巻を撰させ苻氏の僭偽の本末を叙させた、その書は世に伝わっている。翌年再び左衛将軍に徴され給事中を加えられ本州大中正を領し、三年(459年)祠部尚書に遷り、その年卒した、時に57歳。本官を追贈された。曇慶は謹実清正で治めた地には称績があり、常に子弟に「私は世に処するに才能がなく、ただ大老子(温厚な年配者)たろうと図っただけだ」と語り、世に長者として称された。
史論
史臣曰く、江南が国をなすことは盛んである。南は象浦を包み西は卭山を括り、外は貢賦を奉じ内は府庫を充たすが、これは荆揚二州にとどまる。漢氏以来民戸は彫耗し、荆楚は四戦の地・五達の郊で邑里の残亡は万に一つも残らぬほどであった。義熙十一年(415年)司馬休之が外奔してから元嘉末まで39年間、兵車は用いられず民は外の労役に苦しまず、寛やかに務めを簡にし民庶は繁息し、余った糧が畑に積まれ戸は夜も門を閉じぬほどであった、これは東西を通じ極盛の時であった。揚州の管轄区域が分立し境を江南に極めた際、漢代の地域に照らせばただ丹陽・会稽のみであった。晋室の南遷から太元(376-396年)の世まで百余年の間、風塵の警(戦乱)なく区域内は晏如(安穏)であったが、孫恩の寇乱に及んで殱亡は極まった。これより大明の末年まで六紀(72年)を経て民戸は繁育し、昔日に迫るほどになった。地は広く野は豊かで民は本業に勤め、一年豊作となれば数郡が飢えを忘れるほどであった。会土(会稽)は海に帯び湖に傍い良田もまた数十万頃、膏腴の上地は畝あたり一金に値し、鄠杜(関中の肥沃地)の間もこれに比肩できなかった。荆城は南楚の富を跨ぎ、揚部は全呉の沃野を有し、魚塩・杞梓の利は八方に充ち満ち、絲綿・布帛の饒かさは天下を覆うほどであった。しかし田家の労苦は変わらず年中務めのない日はなく、経税や横賦の資、養生送死の具はすべてここから出ていた。豊作の年に穀を安く売れば農は苦しみ、凶作の年に高く買えば商人が倍益を得る、常平の議は漢代に行われた。元嘉十三年(436年)、東土が水に浸かり民命は危うくなったが、太祖は費えを省き用を減じ倉廩を開いて振済し、病んでも凶(飢饉)には至らなかった、これはこの力によるものである。大明の末年、積旱が災いとなり、弊害は昔の困窮と同じでも救済は昔の主のようにはできず、病は昔の半分にも満たぬうちにすでに死者は倍加し、命を並べ室を比べる者は口数が半分を超えて減った。もし常平の計が中年に興り患いを扶けることに切実であったなら、このような事態には至らなかったかもしれない。もし平価をもって籠(統制)すれば官は苦しみ民は優すことになる、議論が当時屈したのはこれによるものであろう。