宋書卷五十三 列傳第十三 江夷

江夷

字は茂遠、済陽考城の人。祖父は晋の護軍将軍、父敳は驃騎諮議参軍。夷は若くして自らを飾り励まし後進の美として知られた。州の主簿の召命に応じず、桓玄の簒位に際し豫章王文学とされ、義旗が挙がると高祖の版により鎮軍行参軍となり、ほどなく大司馬瑯邪王軍事を行い、公事のため免ぜられたが、ほどなく再び主簿に補せられ桓玄討伐の功で南郡州陵県五等侯に封ぜられた。孟昶の建威府司馬・中書侍郎・中軍太尉従事中郎・征西大将軍道規の長史・南郡太守を歴任、のち太尉諮議参軍に転じ録事を領し長史に遷り、入って侍中となった。大司馬(道規)の府に随い北して洛陽の園陵を拝謁、潼関まで進み還って寧遠将軍・琅邪内史・本州大中正を領した。高祖が受命すると大司馬府・琅邪国の事をすべて委ねられた。宋台が初めて建てられると五兵尚書となり、高祖が受命すると度支を掌るに転じ、出て義興太守となり秩中二千石を加えられた。病により去職し、ほどなく吏部尚書を拝命、呉郡太守となった。営陽王(少帝)が呉県で害された際、夷は臨んで哭し礼を尽くした。兄の病により去官し、再び丹陽尹・吏部尚書となり散騎常侍を加えられ、右僕射に遷った。夷は風儀が美しく挙止を善くし、歴任した官はみな和簡をもって称えられた。出て湘州刺史となり散騎常侍を加えられたが、任地に赴く前に病卒した、時に48歳。遺命により薄葬・蔬奠(質素な供物)とし倹約に努めることが指示された。前将軍を追贈され本官は元のまま。子の湛には別伝がある。

史論

史臣曰く、国を為す道は食よりも信を重んじ、人を立てる要は質を先にし文を後にする。士君子は正しきを体すことを基とし義を蹈むことを本とし、その後に藝能で飾り礼楽で文るべきである。もし両者を備え難いなら、文が足らずとも質が余る方がよい。ゆえに小心翼翼であってこそ上帝に仕えるにふさわしく、嗇夫(小役人)のように喋々と弁じるだけでは虎圏(虎の檻)を離れられぬのと同じである。江夷・謝方明・謝𢎞微・王惠・王球は学識・義理の美では名を成すに十分とは言えなかったが、その貞心雅体は廷臣の中でも稀に見るものであった。『詩』に「温温たる恭人は徳の基なり」とあるが、まことにその通りである。