宋書卷五十二 列傳第十二 袁湛

袁湛

字は士深、陳郡陽夏の人。祖父躭は晋の歴陽太守、父質は琅邪内史、ともに名を知られた。湛は若くして従外祖謝安に見知られ、安はその兄の子玄の娘を湛に娶らせた。初め衛軍行参軍・員外散騎通直正員郎・中軍功曹となり、桓玄が太尉として軍事を奉じると入って中書黄門侍郎となり、出て桓修の撫軍長史に補せられた。義旗が挙がると高祖は鎮軍諮議参軍とし、翌年尚書吏部郎・司徒左長史・侍中に転じ、従征の功により晉寧県五等男に封ぜられた。出て高祖の太尉長史となり、左民尚書に遷り吏部を掌り、呉興太守(秩中二千石)に出て政は和理をもって吏民に称えられた。入って中書令に補せられ、また出て呉国内史(秩中二千石)となり、義熙十二年(416年)、尚書右僕射・本州大中正に転じた。時に高祖の北伐にあたり湛は太尉を兼ね、兼司空散騎常侍尚書范泰とともに九命の礼物を奉じて高祖に拝授した。高祖が謙譲したため湛らは軍に随い洛陽に至り柏谷塢に住んだが、泰は使命がまだ終わらぬとして晋帝の陵に拝さず、湛だけは独り五陵に至り敬意を致し、当時の人はこれを美とした。初め陳郡の謝重は王胡之の外孫であったが、諸舅への礼敬に欠けることが多かった。重の子絢は湛の甥にあたり、かつて公座で湛を凌る言動をとったところ、湛は色を正して「お前は両世(祖父・父)ともに渭陽の情(甥としての情)を欠いている」と言い、絢は愧じた。十四年(418年)官にて卒、時に40歳。左光禄大夫を追贈され散騎常侍を加えられた。太祖即位後、后(縁者)の父としての故により侍中を追贈、左光禄大夫・開府儀同三司(元のまま)敬公と諡された。世祖大明3年(459年)、藉田に幸した帰途湛の墓の下を経て詔し「故侍中左光禄大夫開府儀同三司晉寧敬公は外氏の尊戚、素風は簡正、歳月がやや積もり墳塋は次第に遠くなっている。朕は近く千畆を巡覧し遥かに松隧を瞻(なが)め、徽塵を緬惟(しの)び感慕が増した。使者を遣り少牢を祭らせ、守墓の戸をさらに5戸増すべきだ」と述べた。子の淳、淳の子桓は卒した。