宋書卷五十二 列傳第十二 謝述

謝景仁の弟純と謝述

景仁の弟純(字景懋)は初め劉毅の豫州別駕であった。毅が江陵に鎮すると衛軍長史となり、南平相王鎮悪が軍を率い毅を襲い城下に至った時、毅は病んでおり佐吏はみな入って参承していたが、純は参承を終え退出後、兵が至ったと聞き馳せ戻り府に入った。左右は車を引いて外に逃れさせようとしたが、純はこれを叱り「私は人吏である、逃げてどこへ行くのか」と言い府に入った。毅の兵が敗れ衆が散じた頃はすでに暗夜で、司馬毛脩之は純に「あなたはただ私に従えばよい」と言ったが純は従わず、二人に支えられて外に出たところ火光の中で人に殺された。純の孫沈は太宗泰始初め巴陵王休若の衛軍録事参軍・山陰令となったが事に坐して誅された。

述(字景先)は若くして志行があり、兄純に随い江陵にあった。純が害されると述は純の喪を奉じて都に還ろうとしたが、西塞に至り暴風に遭い、喪を載せた舫は流されて行方が分からなくなった。述は小船で捜し求め、純の妻庾氏の舫の前を通り過ぎようとすると、庾氏は人を遣り「喪舫の存否はもはや天命、この風波でどうして小船で冒せようか。小郎(あなた)が行っても間に合わないだろう、いっそ存亡を共にすべきではないか」と述に告げた。述は号泣して「もし安全に岸に着いたなら営理せねばならぬ、もし已に予想外の事態になっていたとしても、私にも独り生き延びる心はない」と答え、波を冒して進んだ。純の喪船がほとんど沈みかけているのを見て述は号び天に呼びかけ、幸いにも免れることができた。人々はこれを精霊の助けと言った。高祖はこれを聞いて嘉し、豫州に臨んで中正に諷して述を主簿とし、深く見識ある人物と評した。

景仁は第三弟の甝を愛し述を憎んだ。かつて饌を設け高祖を招く際、景仁は甝を陪座させ述を望まなかったが、高祖が述を召したため、述は景仁の意向を知りまた高祖の命に従うことを憚り急用を口実に応じなかった。高祖は使いを馳せ述を呼び、至ってようやく歓を交わした。景仁が病んだ際、述は心を尽くして看病し湯薬・飲食は必ず自ら味わってから進め、帯も解かず梳ることもしない日が数十日続いた。景仁は深く感愧した。述は太尉参軍に転じ司馬休之討伐に従い吉陽県五等侯に封ぜられ、世子征虜参軍・主簿、宋台尚書祠部郎、世子中軍主簿を経て太子中舍人に転じ、出て長沙内史に補せられ恵政があった。元嘉二年(425年)、中書侍郎に徴拝され、翌年武陵太守・彭城王義康の驃騎長史(南郡太守を領す)に出た。これより先、従兄の曜が義康の長史であったが喪に遭い官を失い、述がこれに代わった。太祖は義康への書に「今謝述をもって曜に代える、その才は歴職に精通していることで知られる、ゆえにあなたを佐けるべく任じる。あなたは庶務に親しみ始めたばかりで任は重く事は繁多だ、群賢に心を寄せて弼諧(補佐と調和)の美を尽くすことを念じよ、自ずから会得するはずで私が言うまでもない」と述べた。義康が入相すると述はまた司徒左長史となり左衛将軍に転じた。官にあっては清約で私邸を持たなかった。義康は述を厚く遇し、尚書僕射殷景仁・領軍将軍劉湛はともに述と非常の交わりを結んだ。述は容姿風采がよく挙止も善く、湛は常に人に「私は謝道兒(述の小字)を見て未だかつて足りると思ったことがない」と言った。

雍州刺史張邵が黷貨(汚職)の罪で廷尉に下され死罪となりかけた際、述は上表し邵の先朝の旧勲を陳べ寛大な処置を求めた。太祖は手詔で応え、述は子の綜に「主上は邵を憐れみ特赦されようとしたが、私が上奏した趣旨がたまたま合致しただけだ、もしこの疎謬が広まれば主恩を侵し奪うことになる、これ以上ないほど問題だ」と語り、綜に命じてこれを前で焼かせた。太祖はのち邵に「あなたが免れたのは謝述の力によるものだ」と語った。述には心虚(神経過敏な)の疾があり、性理は時に乖謬することがあった。呉郡太守に除せられたが病により赴任せず、病が癒えると呉興太守に補せられ、郡にあっては清省で吏民に慕われた。十二年(435年)卒、時に46歳。喪が京師に還る際、まだ数十里の地点で殷景仁・劉湛が同乗して迎えに赴き、船を望んで涙を流したという。十七年(440年)、劉湛が誅され義康が外鎮に赴く際、義康は「謝述はただ私に退くよう勧め、劉湛はただ私に進むよう勧めた。今述は亡く湛は存えている、これが私の罪を得た所以だ」と嘆いた。太祖もまた「謝述がもし生きていれば義康は必ずやここまでには至らなかったろう」と言った。述の三子綜・約・緯のうち、綜は才芸があり隷書を善くし太子中舍人となったが、舅の范曄の謀反に連座し誅に伏し、約もまた連座して死んだ。緯は太祖の第五女長城公主を娶ったが、公主はもとより約に憎まれており死を免れ広州に徙された。孝建中に京師に還り、方雅で父の風があり、太宗泰始中に正員郎に至った。